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翼なき竜
9. 誘惑の魔(2)
……今、陛下は何と言ったのだろう。耳が悪くなったのだろうか。
すたすたと酔っているとは思えない足取りで女王は進む。
宰相の部屋へ向かって。
「へ、陛下……」
「こっちじゃないのか?」
「いえこちらですが……」
宰相は慌てて女王の後を走る。
廊下の突き当たり、一際大きな扉がある。木製の重い扉である。
その前に立つと、女王は止まる。
「ここがお前の部屋だな?」
宰相は戸惑ったまま、うなずくこともできずにいた。
しかし女王は否定しないことが肯定の意味だと捉え、重厚な扉を開ける。
「寝室はどこだ?」
灯りのない暗い部屋に女王は目をすがめた。
『寝室』。
宰相も子供ではない。意図することはわかる。
女王は暗闇の中で手を伸ばしながら、危なっかしく歩き始める。宰相は部屋に置いてある燭台のろうそくに火を付けた。
「……こ、こちらです」
「ありがとう」
宰相はゆっくりと彼女の手を引き、静かに歩き始めた。
絨毯の上を歩くために靴音はない。静かな夜、静かな部屋に、女王と宰相の静かな息づかいだけがある。
ためらいがちに力を入れすぎないように握る手には、体中の熱が集まってくる気がした。
女王陛下はどう感じているのだろう。残念ながら、暗すぎて表情は見えない。
テーブルやソファの横を通り、部屋の奥へ進む。一歩一歩進むごとに、確実にそれは近づく。
喉が鳴るのをこらえながら、寝室への小さな扉を開けた。
背が高い宰相は、少しかがんで足を踏み入れた。
宰相のベッドは、ただ眠れればいいとの考えから、天蓋もない、枕とシーツと毛布があるだけのものだ。ただし宰相の背が高いために、サイズだけは大きい。
女王は躊躇なく進み、そこに倒れた。
彼女の体は一度深く沈み込み、跳ねて浮き上がる。ベッドの感触をしばらく確かめてから起き上がり、靴を脱ぐ。
彼女の足の白が、暗闇の中でまるで灯りのようにまぶしく宰相の目に入った。
宰相はゆっくりとベッドに近づく。
――本当にいいんですね?
そう声に出したい気持ちをこらえた。そう訊いて、じゃあやめる、と言われるのは困る。
横に立つと、右膝をベッドの上にかける。静かに膝を置いたはずが、ベッドはギシ、ときしんだ。
手を伸ばそうとしたところ、唐突に女王は言った。
「ブッフェンはな、悪い奴じゃないんだ」
こんなところで別の人の、特に苦手さを感じる人物の名が出てきた。
さらりと彼女の前髪が揺れる。暗い瞳にろうそくの灯りが映りこんでいる。
「良い奴でもないけどな。あいつは人を怒らす天才だよ。人の突かれたくないところを突くんだ。心の底を簡単に理解する……けれど、優しい言葉では返さず、厳しすぎる言葉を向けるんだ」
何だろう、愚痴をこぼしたいのだろうか。
「……悪人ではない。私のためを思った言葉であることも、知っている。けれど、今の私には……痛すぎる。私が私であるために、あいつの言葉を正しいと認めるわけにはいかない、あいつの推測を間違いにしなければならない……」
「……先ほど何か、ブッフェン様に言われたのですか?」
女王は黙した。
「ブッフェン様は、傷つけるような言葉を言ったのですか?」
宰相は真剣に女王の顔をのぞき見た。
我に返ったように、女王は慌てて首を振る。
「そうじゃない。傷ついたとか、そんなことはないんだ」
「…………」
どうにも信用できなかった。女王の様子は落ち込んでいるようで、いつもと同じには見えない。
普通の人間なら、女王に敬意を払うものである。
しかしあのブッフェンは――
「違うんだよ。さっきの私の言葉は忘れてくれ」
「けれど――」
言葉を続けようとした宰相の顔を、女王は挟んだ。
「忘れてくれ。それに、今はこんなことを話すところじゃないだろう……?」
女王は宰相の顔を引き、口づけた。押し返してくる唇は、やわらかだ。
再びベッドがきしむ。
……確かに、それどころではない。
一度離れ、また宰相から唇を重ねようとしたところ、身体が押し返された。
「……灯り、消してくれ」
部屋には、先ほど持ってきた燭台が傍らの机の上にある。三つのろうそくが立っている。全てに火が点いていた。
消してしまえば、灯りは何もない。一本分くらいは点けておいた方がいいと言ったが、女王はかたくなに首を振って、全てを消すよう言った。
宰相は一度ベッドから離れ、吹き消す。部屋には完全な暗闇が押し寄せた。
少しつまづきながら、何とかベッドに戻った。
女王の表情はわからない。しかしそこにいるのは感じる。そして触れることもできる。
唇を重ねた。押し倒し、今度はもっと深く唇を重ねようとしたときだった。
また、身体が押し返されたのだ。
女王は両腕を曲げずに伸ばし、宰相の身体を押しのける。近づくな、これ以上するな、と言わんばかりに。
そして女王は何も言わない。暗闇で表情もわからない。
「……あの」
気まずいながら、宰相は口にした。
「また、何か気になることでも……?」
「え?」
何のことだ、と言うように軽い声が上がった。
「……あ」
女王はようやく、自分が何をしているか気づいたようだ。無意識下の行動だったのだろうか。
だが気づいてもなお、女王は腕を伸ばしたままだった。
宰相は伸ばされている腕に触れた。
すると、その腕は震えていた。小刻みに、恐怖しているように、震えていたのだった。
「……ごめん……その……どうにも、ならないんだ」
暗闇の中だと、声に耳を澄ますことになる。声もまた、かすかに震えているようだった。
「もう、いいですよ」
宰相は身体を離した。
怖がっている女を無理矢理、なんて趣味でもない。
女王は今までになく焦りつつ、
「違う、違うんだっ……これは、どうしようもなくて」
「わかってます」
「だから……私の手を縛って、目隠しすれば、多分大丈夫だから」
そういうことはそういうことが好きだからするものだと思う。
嫌がる人間にそこまでして、というのは宰相にはうなずけないことだった。
ベッドから出て立ち上がろうとした宰相の手を、今度は女王は引っ張った。
「い、いいって言っているだろ」
「とてもそうは思えませんよ」
意地になっているようで、女王は更に腕を引く。
「……私の意思なんてどうでもいいだろ。男なんて、女を押さえつけてでもできればいいんだろう」
さすがに、かちんときた。
少し乱暴に手を振りはらい、ベッドから離れる。
「それは大抵の男に対する侮辱ですよ。見くびらないでください」
あ、と女王は後悔をにじませてつぶやいた。
宰相は背を向け、部屋を出ようと扉を開けた。
「……行くのか?」
心細そうに言った彼女に、躊躇しそうになる。
だが、ここに残ったからといって……。
「……ここで眠っても構いません。私は違う部屋で眠りますから」
宰相は頭をかがめて、部屋を出る。
しばらく進んでから振り返ったけれど、部屋からは何の音もしなかった。……多分、眠ったのだろう。
* *
鶏の鳴く朝が来た。
強く揺さぶられ、肩をばしばし叩かれ、いつもより早く宰相は目覚めた。
起こしたのは毎朝同じ執事だった。
「城から、部下の方がやって来られました。陛下と若様に至急伝えたいことがあると」
宰相は立ち上がり、服を着替えようとして、ここがいつも眠る自室ではないことに気づいた。
そうだ、ここは客間の一室だ。昨夜女王を置いて部屋を出て、夕食をとった後、適当に目に入った客室で眠ることにしたのだった。
「まったく、混乱しました。若様の部屋には陛下がいて、若様はこの誰も使っていないはずの客室にいて。お召し物は、お持ちしておきました」
執事はむうっと不機嫌そうでありながら、ちゃんと宰相の一揃えや朝の支度のためのものを全て用意していた。
「陛下は?」
「お先に伝言をお聞きになりたいとのことで、すでに部下の方と面会なされてます」
「先に陛下が!?」
悠長に朝の支度に手間取るわけにはいかない。
陛下より先に起こしてくれれば、と思ったが、勝手に部屋を移動して報告しなかったのは宰相だ。おそらくどこで寝ているのかと探し回ったはずだ。文句は言えない。
「陛下は『私が話を聞いておくから、宰相は眠らせておけ』とおっしゃいましたが、わたくしめの独断で、若様を起こさせていただきました」
「でかした」
女王を朝早くに起こさせてぐっすり眠っていたなんてことになれば、宰相はもう申し訳なさすぎる。
宰相は朝の用意を手早くすませ、部屋を出た。
部屋を出て直後、何かにぶつかり、反動で壁にたたきつけられた。
「おっと、宰相閣下ぁ?」
ぶつかってもぴんぴんとそこに立っているのは、ブッフェン。
そういえば、ブッフェンに用意した客室と近かった。
「ここが閣下の部屋なんですかね?」
宰相は答えず通り過ぎようとした。ところが、ブッフェンはその前を通せんぼするように腕を壁にもたれさせる。
「おや、何か急いでる? 朝から閣下の部下が来たとかで忙しい空気は感じてたけど、何かあるんですかね?」
「部下からの重要な情報があるようですので、通していただけませんか」
「あらま、大変ですなあ。でも、それなら宰相閣下は行かなくてもいいようですよ。女王陛下が行って聞く、とおっしゃってましたから。宰相が行く必要はないって」
人に聞いておいて、すでに知っていたようである。
宰相は顔の筋肉に力を入れ、少し困ったような表情を作った。
「陛下に行かせておいて、私が行かないというわけには」
「へーえ、陛下を信用してないんですねえ」
「……なんですって?」
声が自然と低くなる。
「だって、陛下には任せておけないから、行くんでしょ?」
「違います。私が何も知らずにいるべき情報ではないから行って聞くだけです。決して、陛下を軽んじたわけではありません」
わざわざ朝早くに宰相の館まで来て伝えること、というのはめったにない。
「なんだ、そうですか。邪魔をしたようですいませんね」
ブッフェンは素直に腕をどかし、優雅な貴族のまねごとをして、どうぞお通りください、と腕を振った。
宰相は胸がむかむかするのを覚えながら、にやにや笑うブッフェンの横を通ったが、少し歩いて立ち止まる。
どうしても、彼に対しては気になることがある。忘れようと思ったことだが、今の嫌がらせのような言動を見て、不安になった。
「……昨晩、陛下に何か言いましたか?」
いつもと違った様子の女王。焦っていたような女王。
「言いましたよ。イロイロ」
「何を」
そうですねえ、とブッフェンは考えるそぶりを見せる。
口ひげをなでながら、こともなげに言った。
「まあイロイロ言いましたけど、偽善者だ、って陛下をののしりましたかねぇ」
激流のように、宰相は胸にのぼってくるものを感じた。
豁然と悟る。こいつは――いけないと。
宰相は険しい顔で振り向くと、即座にカフスボタンを外し、中指を引っ張り、自分の両手の白い手袋をはずした。
「若様っ、まさか――」
執事が悲鳴のような声を上げる。
その声は宰相の行動を止める結果とはならなかった。ブッフェンが御前試合の勝者で騎士団長だということも、今の宰相には関係がなかった。
怒りをこめ、あざけるように笑うブッフェンへ二つの手袋を投げつけた――
手袋は、軽い音をさせて、受け止められた。
小さな、白い手だった。長い指がしっかりと手袋を捉え、つぶすように握りしめられた。
「――手袋を投げつけるとは、決闘を申し込む作法を忠実に守っているな、宰相」
手袋を握りしめる手の先には腕があり、金環が二つ飾りとしてある。さらに上を見ると、肩につながる。
「しかし、決闘禁止令が我が国で出されていることを知らないとは言わせない。……たしかに、あってないような法令だ。騎士はもちろん、身分高い貴族までもが守らないことはしょっちゅうだからな。決闘とは頭の痛い問題だ」
肩の先には、もちろん首をつたって顔にたどりつく。
その顔には、頬に片翼の竜の印がある。その頬が動き、口を開いた。
「……まさか、その頭の痛いことをお前がしでかすとは、思わなかったな」
「……陛下」
投げつけた手袋をとらえた女王は、宰相をにらみつけた。
「私がこれを取ったということは、宰相と私が決闘することになるか? 日時は一週間後。場所は城外の北にある森でいいだろう。互いに介添人を二名用意すること。武器は同一の剣。男女の決闘の場合ハンデが必要ということもあるが、それは結構。全て同一の条件ででいい。いいか?」
「なっ、いいわけないです! 私が手袋を投げたのは、ブッフェンにです!」
「そうですよ、陛下ぁ。勝手にわたしの決闘を横取りしないでもらえますか?」
ブッフェンも面白くなさそうに女王を見下ろす。
女王はぎろりと獣のような鋭い目で見て、ブッフェンに冷たい炎のような言葉を打ち込んだ。
「黙れ」
ブッフェンはすぐに口を閉ざした。迫力の余波で、宰相も押し黙った。
とにかく女王は二人の仲裁に入った。ならば、ここは引き下がるしかない。たとえ今もブッフェンに敵意があっても。
宰相は一歩出て、女王の手にある手袋を取り戻した。
「あー、つまらないねえ」
決闘がなかったことになり、ブッフェンは口を尖らせた。
「つまらなくなくなるさ」
女王は感情を一切排した声で告げた。
「……決闘どころではないことが起こった。先ほど聞いたばかりの情報だ。休戦協定を結んでいたラビドワ国が、再びカプル国へ攻め入った」
宰相ははっとして手袋から視線を上げる。
ブッフェンは不謹慎にも口笛を吹いた。
「調停役をした我が国の面目丸つぶれ、かあ」
「そうだ。せめて事前に我が国へ休戦を破り攻め入る理由を言っていれば話は違ったかもしれないが、こうなった今でもかの国から使者も話もない。ラビドワ国は、苦心して二国間の休戦を結びつけた我が国との友好的関係を断ち切り、敵対したとみなす」
ブッフェンの瞳が爛々と輝いた。
宰相はというと、我が国を甘く見ているラビドワ国の上層部の政治的甘さに、舌打ちしたい気分だ。
確かに我が国は大国と言われているとはいえ、情報とはめぐりにくく、噂は一人歩きをしやすい。震え上がるような残忍な女王の噂もあれば、大国と言われていても意外と弱い国だ、という噂もある。
カプル国は小国だが、豊かな地を多く持つ。隣国ラビドワ国は喉から手が出るほどその土地を欲していた。
今までは大国たる我が国が重しとなっていたところがあるが、ラビドワ国はとうとう我慢の限界が来たのだろう。大国が意外と弱いという噂も、甘く聞こえたことだろう。
攻め込めば、もう自ら止まりようがない。休戦協定を破った以上、もう一度休戦を結ばせるなんてナンセンスだ。
そして、我が国にも誇りがある。大国ゆえに、大きくなりすぎている誇りが。軽んじられたことは、決して許せない。
女王はその国の元首として、口を開く。
「――戦争だ」
口ひげの下に笑みさえ浮かべるブッフェンの横で、宰相は不安そうに女王を見た。
それは彼女の決断に、と言うよりも、彼女の眼に。
女王は空虚すぎる眼でどこかを見ていた。頬にいる竜が、赤らんでいる気がした。
『泰平を築く覇者』は、人間の死と殺戮の戦争を決めた。