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翼なき竜
8. 誘惑の魔(1)
平和には娯楽が必要である。
女王の前で行われる御前試合も娯楽であると言い切るのは浅慮であるが、宮中の見物人にとっては、確かに娯楽だ。
夏の太陽は、雲に遮られることなく光と熱を降り注いでいた。
人間よりも大きな葉で仰がれている女王は、傍らにギーを置きながら観覧している。ちなみに周囲の者はロルの粉を入念にまとい、竜はチキッタの花を食べた。ので、ギーは女王の横で体を丸くして眠りの淵にいる。
剣の打ち合い。輝かしい銀の鎧の人物が、古ぼけた鎧の人物に剣を振るう。相手はただただ防御するばかり。
「一方的ですね」
宰相がギーと反対側の場所から女王に言うと、彼女は少し不敵に笑った。
銀の鎧の人物は、どんどんと追い詰めていく。
しかし――まさに一瞬の隙。
銀の鎧が剣を大きく振り上げた瞬間、古ぼけた鎧は電光石火の早さで剣を胴に打ち込んだ。
銀の鎧は、それだけで「ぐっ」とうめき、膝を地につける。
「……まいり、ました」
割れるような歓声が巻き起こる。
女王も拍手を打ち鳴らし、立ち上がった。
御前試合で誰よりも興奮しているのが女王であった。
女王は銀の鎧の敗者にもその武勇をたたえる言葉を送りながら、古ぼけた鎧の勝者を近くまで呼び寄せた。
「いい戦いを見せてくれた、ブッフェン。最後の最後で逆転か」
勝者は兜を脱いで、濡れた犬が震えるように、汗を散らす。焦げ茶色の髪は量が多く、波打ちながら首の上で切りそろえられている。
フォートリエ騎士団団長、デジレ=ブッフェン。
「陛下を楽しませられたようで、幸い」
大仰に腕を振り頭を下げると、ブッフェンと女王は目を合わす。
二人は同時に吹き出して、遠慮なく笑い始めた。
「右の振りが前より遅くなったんじゃないか?」
「ありゃ、気づかれてないと思ったけれどな」
「同じ騎士団で何年一緒に戦ったと思っているんだ」
ブッフェンは額に汗を浮かべながら薄い口ひげをゆがませて笑む。鎧と兜が強い陽射しに光る。
ブッフェンは『鷲のブッフェン』と呼ばれることもある。それは彼が立派なわし鼻の持ち主だからという理由もあるが、鷲のように鋭い攻撃をする騎士だから、らしい。
宰相の知るところ、女王とは同じ騎士団にいた仲間であったという。
二人は昔なじみらしく、共通の知り合いについて話を弾ませていた。
「しばらく滞在できるんだろう?」
「いやあ、明日には戻らなくちゃならなくてねえ」
「……何かあるのか?」
女王の顔が真面目なものとなった。
団長が急いで帰らなければならない何かがフォートリエ騎士団であったというなら、女王も見逃せない。
フォートリエ騎士団は国で十二ある騎士団でも、比較的危険な西側の直轄地の守護を担う。
ブッフェンは歯を見せて照れたように笑う。
「いやあ、個人的な用なんですがね、実はわたしゃ結婚することになりまして、それで忙しくなって」
「それはめでたいな」
女王は嬉しそうに笑った。
「祝いの品を送ろう。何がいい? 久しぶりに私と手合わせしてみるか?」
宰相は側で聞いていて、ぎょっとした。
女王自ら剣を取って試合するなんて、めったにあることではない。相手は御前試合の勝者。いかに彼女が強かろうと、危険だ。
宰相が止めようとしたとき、ブッフェンが首を横に振った。
「悪いけれど、本気で戦えずに勝ちを譲らなきゃならない試合は、わたしにとっては全然褒美でないんでね」
宰相は顔がひきつる。
確かに、臣下として女王には勝ちを譲るのが筋。しかし、こういった言い方では『したくないことをさせられたくない』という感情が丸わかりだ。
女王自ら手合わせしようと言ったことをこう返すとは、これこそ無礼。
宰相が顔をこわばらせるのとは対照的に、女王は笑って受け流した。
「それもそうだ。本人が望むものをやらなければ褒美でも祝いの品でもないな。では何がほしいんだ?」
そうだなあ、と考えるそぶりを見せながら、ブッフェンは女王のかたわらにいる宰相に視線をよこした。騎士団長が宰相に顔を向けたのは、このときが初めてだ。
ブッフェンは男らしい口の端を上げた笑みを向ける。が、宰相には彼から敵意を感じる気がした。
「じゃあ、今日一晩、宰相閣下の館に泊まらせてもらっていいですかね?」
目を丸くした宰相に、ブッフェンは笑みを深くした。
「いやあ、立派な館だねえ」
まるで遠くの景色を見るように目の上に手を当て、廊下を歩きながらきょろきょろと見回すブッフェン。
宰相の館は、宰相が主人である。父や兄は東の領地にいるため、ここには家族は誰もいない。ただし、東の領地からついてきた爺が執事をしている。
あまり絢爛な建物は落ち着かないため、王城で仕事をするようになって以後、少し古ぼけた、逆に言うと時代を感じさせるこの館を買い取って暮らしている。
気に入った館を褒めてもらって、宰相と執事は微笑んだ。
だが、ブッフェンは笑顔で続けた。
「わたしは平民出身ですからねえ、こういういかにも貴族が住んでいるような立派な館を見ると、胸くそ悪くなりますなあ」
宰相と執事の表情が凍った。
な、な、と執事が口をぱくぱくさせるが言葉にならない。
なんとか立ち直ったのは、宰相の方が先だった。
「そ、そうですか……。ブッフェン様の気分を害してしまったようで、すいません」
気分が悪くなるなら、なぜ来た。
と思いつつ、宰相は気を取り直して客室に案内した。
「こちらの部屋を用意させていただきました」
扉を開けたところには、広い間取りの部屋が広がっていた。
大きくあいたガラスから、薄いカーテンを通して光がそそいでいる。丸いテーブルの上にある花瓶に、白い花が飾られてある。カーペットは草花の絵が描かれたもので、ふかふかしている。
「これまた、わたしにはもったいないような部屋で。国民から搾り取った税のいくらで作ったんでしょうかなあ」
と言って、彼は試すように丸いテーブルの側にある椅子に座った。
執事は再び絶句した。
悪意が全開な彼の言葉に、宰相は何も言わずに笑みを作り上げる。
「いい部屋には、いい酒がほしいなあ」
独り言にしては大きい声でブッフェンがつぶやく。
「ほしいなあ」
もう一度言った。しかも、宰相の方を見て。
「…………。何か、お酒を持ってきましょうか」
「え、悪いですねえ。じゃあ、麦酒かブランデーか赤ワイン。種類や年代はどうでもいいですから。わたしゃ女王陛下とは違って、呑めれば何でもいいんで」
宰相は執事に取ってくるよう言おうとしたところ、ブッフェンが更に要求を重ねた。
「あ、五本くらいお願いしますや」
「…………」
彼のいるこの部屋から出たくなって、執事に命じるのでなく、自分で取ってくることにした。
宰相は執事と共に、部屋を出た。
途端に、執事が湯気がでるほどに怒り、まくし立てた。
「なんですかあの人は! あれほど無礼すぎる人は初めてです! どういう育ちをしたのやら……あんな方が騎士団長とは、世も末ですよ!」
宰相は、まあまあ、と執事をなだめる。
「フォートリエ騎士団は、完全な実力主義の騎士団です。騎士団長は性格や人格は抜きに、強さで決まったそうです」
御前試合を思い出す。彼は何撃も身に受けながら倒れず、たった一撃をくらわせたことで敵に負けを認めさせた。
それにそもそも、身分高い人間に無礼な人は多い。無礼をはたらいているという自覚すらない人がほとんだ。宰相はそういう人たちを相手にすることに慣れていた。
……ここまで悪意あからさまな人は、めったにいないが。
「それにしても……」
執事は憤懣やるかたない表情である。
デュ=コロワの言葉を思い出す。
『精神的安定を求めるなら会わないことを勧める』
デュ=コロワの言葉は少し間違っていると思う。
このまま彼と話し続けると、精神的どころか肉体的に、胃にきそうだ。
酒蔵から五本酒を持って、再びブッフェンの客室に行こうとしたところ、使用人が走ってやってきた。
彼はあまりに慌てていて、途中で派手に転んだ。
大丈夫ですか、と抱え起こそうとしたところ、使用人がくわっと開いた眼で見上げ、
「大変です! へ、へ、へ……」
「へ?」
「陛下が! 陛下がお越しになりました!」
執事と宰相は絶句した。
宰相は持っていた酒瓶を取り落としそうになった。
「お忍びで臣下の館に来るなんて、とんだスキャンダルになるでしょうなあ。一体何をしに来たのやら」
ブッフェンはくっくっと笑う。
「お前が何かやらかしていないか心配で来たに決まっているだろう」
そう言って女王は腕を組みながらブッフェンをねめつけた。
「祝いの品をやると言ったのは私だ。宰相に負担がかかることになるなら悪い……と思ったが、すでに迷惑をかけているらしいな」
「ええ? わたしゃ迷惑なんてかけてませんよぉ。なあ、宰相閣下?」
どの口がそんなことを……。
宰相は無理矢理笑みを作った。
「……はい、そんな迷惑なんて」
「一目見ればわかる状態だろうが」
女王は嘆息する。
宰相は急いでやってきたものだから、いまだ腕の中に酒瓶が五本ある。宰相が酒瓶を持っていることがもう、通常とは違う。
「ブッフェン、私はお前に祝いの品をやるとは言ったが、宰相に迷惑をかけるのは筋違いだろう。我が侭をしたいなら城へ来い」
「いやあ、わたしが泊まりたいのは宰相閣下の館ですからねえ。宰相閣下が嫌だと言うなら話は別ですけど、快く受け入れてくれると言うし、構わないでしょ?」
ブッフェンは宰相の肩を馴れ馴れしく抱く。宰相は沈黙した。
女王が祝いの品ならなんでもやる、と約束したところで、ブッフェンは宰相の館に泊まりたいと言った。そういういきさつなら、宰相に断わることができるはずがない。女王が約束を破ることになれば、権威を損なうからだ。
何はともあれ、一晩のことである。一晩耐えれば済む。
若いといっても青い子供ではない。この程度の嫌がらせまがいの言動、我慢できずして宰相とはなれない。
宰相は女王に自然に見えるような笑みを向けた。
「はい。私は構いませんから、女王陛下はお気遣いなく」
女王は宰相の顔をじっと見た。内側を見透かすような、女王の黒鉛の瞳だ。どぎまぎする。
「わかった」
女王は根負けしたように立ち上がる。
「宰相、私が泊まる部屋を用意してくれ」
「え!?」
宰相は目を白黒させた。
「……陛下、どういうことですかね、そりゃ」
ブッフェンが目を細めて面白くなさそうに問う。
「なに、気まぐれだ。が、ブッフェン。まさか女王たる私と同じ館にいて、見苦しいふるまいを見せないだろうな? 騎士団長として、それくらいの最低限の礼儀を持っているだろうな?」
「…………」
ブッフェンは苦虫をかみつぶしたような顔をする。
つまり、女王はブッフェンの行動を監視するため、宰相の館に泊まるというのだ。
宰相は一つ屋根の下に女王と泊まると考えると、胸が不必要なほどに高鳴っていた。
――が、一つ屋根の下にいても、宰相は走り回ることになるのだった。
女王陛下のお泊まりとなると、それなりの部屋を用意し、それなりの料理を用意しなければならない。
すでにブッフェンの来訪だけでも予定にないことなのに、女王まで来て、館の使用人達は天手古舞に働いている。
そうやって宰相が女王の泊まる客室の用意の采配を振るっていた同じとき、女王とブッフェンは酒を飲みながら、語り合っていた。
「忍耐力はある男、ですかね」
ブッフェンは麦酒を飲み干す。
「特権階級意識の高い貴族は、調子に乗ったことを平民がすれば、大抵条件反射的に怒って権力を行使にかかる。それを考えれば、いい方だねえ」
女王はそのブッフェンの正面でワインを飲んでいる。
「お前が人を誉めるのは珍しいな」
「わたしゃ他人の前で当人の悪口は言いませんよ。言うのは当人の前だけ」
そのお陰で喧嘩は何度となくしてきた。が、喧嘩は好きだから構わない。
「わたしなんかに敬語を使うところは立派ですがね……ただし、陛下の側にいるのはいいとは思えない」
空気が張り詰めた。
ブッフェンと女王は向かい合っている。テーブルの上に酒瓶はいくつもあるが、まるでチェスでもして対戦しているような空気だった。
「いいとは思えない、か」
「ええ。なんてったって、顔が悪い」
女王は吹きだして笑い始めた。
「ふふ……じゃあ、宰相より自分の顔がいいって?」
「ん? まあ、わたしゃ自分は世界で一番いい男だと思ってますが」
女王は笑いのつぼをつかれたのか、腹を抱えて笑う。
「じゃあ、今度どちらがいい男かって、王宮の女官たちに決めてもらうか? したいなら構わないぞ?」
たまにはそういう催しも面白い、と言っている女王を、ブッフェンは冷ややかな目で見ていた。
「陛下ぁ、話を逸らす気ですかね?」
「ああ逸らしたい」
「なぜ? 辞めさせれば済む話でしょ。今日宰相に近づいて、より思いましたね。辞めさせるべきだって」
「宰相としての能力に問題はない。辞めさせる理由などない」
「理由って……だからぁ監禁事件の……」
とブッフェンが言いかけたところ、女王は睨み上げた。親の仇でも見るような目である。本気で大剣を抜きかねなかった。そしてブッフェンの首をはねとばしかねなかった。
殺気すら感じる声で、女王は早い調子で、厳しく言う。
「その話は二度とするなと言ったはずだ。宰相に絶対告げるなとも、以前言ったな?」
ブッフェンは難しい顔で頭をがしがしと掻いた。
強くそう言われたのは、数年前だった。同じ場所にデュ=コロワもいた。ブッフェンは大人しくうなずいておいたのだが、デュ=コロワは反発していた。
今のブッフェンのように、即刻イーサーを財務顧問から解任すべきだ、とデュ=コロワは主張していた。
ブッフェンは、女王が決めたことなのだからいいではないか、と当時はそれを傍観していた。だが、デュ=コロワが強く主張していた心情が今日、宰相と会ってみて、わかった。
これはないだろう、あまりに……。と。
ブッフェンは肩の力を抜き、わざとくだけた言い方で告げた。
「レイラ。妙な意地を張らずに、さっさとあいつを辞めさせちまえ。権力を使えば簡単にできんだろう。それとも今は王よりも宰相の方が権力が強いのか? ならフォートリエ騎士団の力で、クーデターでも何でもしてやるさ」
こんな言い方をしたのは、彼女が王女時代、騎士団にいたとき以来だ。
しかしレイラは――女王は、叱責も怒りもしなかった。
「必要はない。私は国で最も権力を持つ存在だ。張りぼてでもかりそめでもない、王なんだ」
「だったら」
「王は神なんだよ、ブッフェン」
女王はワイングラスを置いて、堂々と口にした。
ブッフェンは主張すべき言葉を飲み込んで、ぽかんとした。持っていたジョッキを落としてしまった。床の上で破片が散る。
「……本気で言ってんの?」
「父上がよくおっしゃっていた言葉だよ。『王は神だ。国民の誰よりも公平に臣民を扱い、誰よりも正義をふるい、誰よりも厳しくあらねばならない』……私はことあるごとに、これをよく思い出す。……公平で客観的に見て、イーサー=イルヤスを宰相から辞めさせる必要はない。国政は感情で動かしていいものではない。誰よりも公平に、客観的に、見なければならない」
ブッフェンはあっけに取られた。
確かに、客観的に見て、宰相に落ち度はない。有能だとも聞く。辞めさせる理由は発生しない。
理性的判断は、正しいことは正しいだろう。
だが、女王が理性で判断できない理由を、ブッフェンは知っている。それでも女王は、あくまで理性的、客観的判断を下している。
「……あいつを宰相として、これからも側に置くんだな?」
「そうだ」
「それでいいんだな?」
「いいんだ」
ブッフェンはちらりと噂を思い出す。
宰相が女王に慕情を抱いている、というもの。
「……じゃあたとえば、宰相閣下が女王陛下に迫ったとして、どういう対応をとる?」
女王は視線を逸らし、ワインに手をつけた。
「公平に見ていい男だから、受け入れる?」
「……いい男だとか、そんなのは受け入れる理由じゃない」
ブッフェンは眉をひそめた。何かが、ぴんときた。
「まさか、本当に宰相が迫ってきたわけか。そして流されちまったわけかい。……お前、阿呆か」
女王は沈黙する。
ブッフェンはあきれ果てて怒る気力もなかった。
「お前の頭の中は理屈ばかりだな。原因、結果。こうであるから、こうあるべき。公平に見て受け入れるべきだったから受け入れた――違うか?」
「……何が悪い。私は宰相のことを嫌っていない。ああ、好意すらあるよ。好意ある相手から迫られた、だから受け入れた。……簡単な論理、それで何がいけない」
女王は震えるような低い声だった。ブッフェンは肴に置いてあるソーセージにマスタードをつけて口に入れる。
ブッフェンは鋭く言葉を叩きつける。
「だが、絶対に一緒に寝たくねえだろう」
女王はびくりと肩を震わせた。
「お前の公平さの理屈はどうでもいい。感情は、全然受け入れてないのさ」
「そんなことは、ない」
そんなことはない、と繰り返し女王はつぶやいて、酒をあおる。
「私は――私の感情と理性に齟齬はない。私は……」
彼女はグラスを持つ手に力を入れた。力を入れすぎ、グラスが細かく揺れている。そのままワインをあおって飲み干す。女王は手ずからワインを乱暴に自分のグラスにそそぐ。
「飲み過ぎでしょうよ、女王陛下。酔っぱらいの女王陛下なんてサマにならんですよ」
女王は無視して飲み続けた。
追い詰めすぎたかもしれない。
あくまで宰相を辞めさせる気がないというのなら、仕方がない。それが彼女の崩したくない理論なら。
ただ、これでは鬱屈するだろうな、と思った。
ブッフェンは女王に付き合うように、新たなジョッキでビールを飲むスピードを上げた。
しばらくしてから軽く質問した。
「話は変えるが、王様業はどうなってるのかね。思い通りにいってるかい?」
「ん……まあまあ」
「嘘をつかないでほしいですねえ」
女王は二本目のワインに手をつけていた。ワインをあけながら、その目が、嘘とはどういう意味だ、と訊いている。
「全然戦争がないでしょ。騎士団にいるときは、あんなに好戦的だったのに」
「……平和の尊さがわかったんだ」
「ふうん、人間そんなに変わるとは思えないがねえ。じゃあ、平民から陛下へ要望しますや。……戦争しましょうよ、陛下」
最後の言葉は、小声で甘く、誘うようにささやいた。
ブッフェンは自分で言って、自分で笑った。そろそろ頭に酒が回り始めた。
「退屈なんですよ。ね、陛下もそうでしょ? 今ならちょうどいい機会が転がっていると聞く。ラビドワ国とカプル国の」
二国の戦争はもう、皆が知るところとなっていた。
「それは今、我が国が調停して休戦中だ」
「調停なんてせずに、カプル国側について戦えば済む話でしょうに。ラビドワ国を占領するついでに、カプル国まで占領するのもアリじゃないですか?」
「……私は『泰平を築く覇者』の印を持つ女王だ」
女王は苦しそうに言葉を吐き出す。
ブッフェンは女王の右の頬のあざを見ながら、再び笑い始めた。
「陛下、本音で話しましょうや。騎士団にいたときから、わたしゃ陛下が支配欲でうずうずしていたことは知ってるんですからね」
「…………」
「それともなにですか? 『泰平を築く覇者』とか持ち上げられて、いい子のフリするって?」
女王をあおって、笑い続ける。
彼女はワインを呑むのをやめ、こめかみに指を当てた。まるで頭痛がするというかのように。
「臣下の目なんて知ったことないでしょ? 女王なんだから」
笑いながら、ブッフェンは誘う。
まるで何てことないかのように。悩む必要もないような簡単なことのように。
そう思いこませるために、ブッフェンは軽く、誘うのだ。
女王は何も言わない。何も答えない。
酒が大分回っていて、ブッフェンは笑いすぎて腹が痛いくらいだ。
同じように、ブッフェンは戦いにも酔う。中毒になっているのだと、自覚している。
椅子がぐらぐらと揺れるのに合わせ、ブッフェンの視界が回り始めた。
「陛下にブッフェン様、夕食の用意が整いまして……」
宰相が部屋に来ると、二人が向かい合って座っていた。ブッフェンはつっぷし、完全に酔いつぶれている。女王はうつむきながら動かない。空の酒瓶がいくつも転がっている。割れたジョッキが床にあった。
「……夕食とか……それどころではないようですね」
用意に走り回った料理人には悪いが、これでは無理だ。肴は多く用意してあったし、腹はすいてないだろう。飲み会をしてつぶれたような状態だ。
「ブッフェン様、大丈夫ですか?」
肩を叩くと、ブッフェンの口ひげがもじゃもじゃと動き、まぶたがゆっくりと開く。
「気分は悪くないですか?」
ブッフェンは頭を揺すりながら体を起こす。何度かうなずき、立ち上がり、扉へと向かった。
足取りはよろよろしているが、歩いているし、倒れそうな様子はない。
使用人を一人つけさせて、宰相は女王へ向き直った。
女王はグラスからまだワインを飲んでいた。顔は赤い。黙々と飲んでいるのだった。転がっている瓶を数えると、大分飲んだようだ。
「陛下、もう本日はこれくらいで。お部屋に案内しますから」
女王はグラスのワインを飲み干すと、立ち上がる。とろんとした黒い深淵の瞳がじっと宰相を見た。
「私は、私は間違えていない……っ」
女王は発奮して決意するようにつぶやいていたが、宰相には意味がわからなかった。
「お前の部屋はどこだ?」
「え? 中央廊下の西の奥にありますが……」
女王は歩き出した。扉を出て、向かう方向は廊下の先。
「お前の部屋で寝る」