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翼なき竜
7. 城下の夕(3)
裏路地では土煙が舞い上がっていた。
土煙の外には羽根のついた帽子が落ちている。煙の中からぬっと出た白い手がそれを拾い上げた。
砂煙は沈静化していく。舞い上がったものは、再び地に伏そうとしていた。同時に結末をあらわにするのだった。
そこには倒れている男達。
羽根の帽子を拾い上げた女王は、彼らを縛り上げている宰相の頭にそれをかぶせた。宰相の背が高すぎるもので、つま先立ちになって。
「陛下、ご無事ですか」
「さっきの見てただろう? むしろこっちが手加減してやったんだ。こいつら、ろくに怪我もないはずだ」
女王は剣を鞘に収めていた。
倒れている男達に切り傷はない。女王が大剣を使ったのは、ナイフを落とすためだけである。彼らはみぞおちに一発くらったり首の後ろを殴られたりして失神している。
「兵を呼んで逮捕させるのも面倒だ。このまま転がせておこう」
「そうですね」
女王、宰相だとわかった上で狙ってきたわけではないようだ。そうだとわかって狙ってきたなら、こんな弱い人間を寄越さない。
女王の顔は淡々とし、静かに気絶している彼らを見下ろしている。
その戦いぶりを振り返るなら、子供と大人の喧嘩を見ているようだった。子供が必死に立ち向かうのに対し、大人は笑いながら全てを受け流す。
騎士団を退団したのは、確か即位するしばらく前。今は即位してから六年。それだけのブランクがあるにもかかわらず、女王の腕はそれほどなまっていないのか、それとも最盛期はそれ以上に強かったのか。
そもそもフォートリエ騎士団は国一番の騎士団であるから、強いのは当たり前だけれど。
宰相は何か引っかかるような気がした。
そう、女王は強い。王女時代から強かった。
思いもかけないハプニングで暴漢に襲われても、混乱せず即座にたたきのめすだけの冷静さと強さと荒っぽさがある。
しかし……宰相が女王と初めて出会ったとき、彼を暴漢だと誤解した女王は、ただ後ずさり叫ぶだけだった。
確か、そのときも大剣を持っていたはずなのに。抜くどころか戦おうというそぶりすら見せなかった。まるでおびえる普通の女のように。
今転がっている彼らと当時の誤解された宰相では、女王にとって同じようなものだった、はず。
それなのにどうしてあれほどおびえていたのだろう。
と、首を傾げつつ、宰相は頭の中からその疑問を振りはらった。そのときの気分や身体の調子が大きく左右していたのかもしれない。それに昔のことだ。
「あっ」
女王は声を上げた。
そして彼女は腕を伸ばし、宰相の頭に手をやった。
「帽子、切れてる」
宰相が帽子を取ると、つばの部分が少し切れていた。
女王と金狙いの彼らとの戦いに手を出したとき、ナイフで切られたのだろう。これではもうかぶれない。
女王は切れ目をなぞる。
「手出しするからだ」
「すいません」
「謝ることじゃない。宰相が手出しをしたくなるほど、私の腕が未熟だっただけだ」
未熟で危なっかしいから手出しをした、というわけではないのだが。ただそこに突っ立っているだけではいれなくて、助太刀のような気持ちで。
女王は、よし、と言った。
「私の責任でもある。代わりの帽子を買わせてもらおう」
「え? 帽子くらい自分で買えますよ。それに家には他にいくつもありますし」
「なに、おわびだ。それとも私に選ばれた帽子は嫌か?」
ぶんぶんと宰相は首を振った。
街の中央通りに面した百貨店には、西風の帽子を売る店があった。
内装は貴族の館のようにきらびやかで、センスのよさが光っている。
女王は棚に並べられている帽子を一つ一つ見て歩き、三つほど手に取った。
宰相は椅子に座らせられていたのだが、女王が一つ一つ頭にかぶせ、これがいいかな、あれがいいかな、と楽しんでいる。人形になった気分だ。
「って、これ女物でしょう!」
「ふふ、似合うぞ」
たっぷりとしたレースやリボンが頭にのしかかる。
重い。
頭の上に手をやると、一種の建造物のようにレースやら船やら枝やらが積み重なっていて、手が頂上に届かない。
こんな重いものをかついで女性はすました顔をしているのか、と思うと脱帽である。
女王はうきうきとした様子で、棚に向かう。
「かつらもあるのか。きれいな金髪だ」
巻き毛の金髪のかつらを手に取ると、女王はしばらく考えながら、頭の部分のベールを取り、頭にかぶせた。
「どうだ? 似合うか?」
女王はどこか緊張した声音で尋ねてきた。
宰相はつまった。
女王は黒い目と栗皮色の髪を持つ、東風の女性だ。特に今は黒いベールを身にまとっていることもあって、西風の巻き毛の金髪は違和感がある。
「……陛下は素の髪の色でいいと思いますよ」
そもそも栗皮色の長髪が美しいのだから、かつらなどかぶる必要はないだろう。
だが、女王は呆然とした顔になった。
「そうか……私には、似合わないか……」
彼女はかつらをずるりと取る。栗皮色の髪を手に取って、つぶやくように続ける。
「私は金髪ではないし、幼くもない……そんなの、最初からわかっていたことだけど……どうしようもないじゃないか……」
「陛下?」
女王は唇を噛みしめて、うつむいていた。泣く寸前のような表情をしている。
金髪のかつらを棚に戻し、店から出て行く。宰相に何も言わず、顔も向けずに。
慌てて宰相は立ち上がる。重い帽子にぐらつきながら何とか下ろして、走って店の外まで追った。
女王は人混みの多い道を歩いていた。乱暴に、振り返ることなく。
なんとか走って追いつき、無礼だとわかっていつつも、肩に手をかける。
「陛下っ、急に何ですかっ!」
「うるさい離せ」
「陛下!」
そのとき周囲から奇異の目を感じた。
当然だ。『陛下』なんて叫んでいれば。
陛下だって、まさか、というざわめき。
「……場所を移すぞ」
宰相の腕がぐい、と女王に引かれた。
このままここで話していれば、本当に素性が知られる。それは困る。
二人は街の外れの、川にかかる石造りの橋の上にやってきた。
ゆるやかな流れの大川は夕日に照らされている。一瞬一瞬、光によって水の姿を変える。どっしりとした橋の影が、川に落ちていた。
ここまで来るまでむっつりと黙っていた女王が、言葉を発した。
「わかった」
なにが、と宰相が思うのは当然だろう。
「金髪で幼い女性だな? そこまでこだわりがあるとは思ってなかった。それなりの家のお嬢さんを紹介してやるから、いいだろう?」
「……は?」
「なんだ。他に条件があったのか? できる限りのことは考慮しよう。あるじが部下の結婚相手を探してやるのも仕事のうち、だからな」
「はい!? 何の話ですか!?」
だから、と女王は億劫そうに言う。
「だから、お前の結婚相手を見つけてやる、という話だ」
宰相の意識が、風に飛ばされそうになった。
なぜ、何がどうなって、こんな話になったのか。
「い、いいい意味がわかりません! なんで、どうして!」
「独身の部下がいれば、相手を見つけてやるのもあるじのつとめ。どうやら全然結婚話がないらしいじゃないか。将来を心配しているんだぞ」
「そんなの! そもそも陛下だって独身じゃありませんか」
女王はぱちぱちと瞬いた。
「そういうことか。お前が結婚しないのは、あるじが結婚しない限り結婚しないという忠義心か。じゃあまず私の結婚話を進める方が先か」
「待ってください! 陛下が誰かと結婚!? なんでそんな話にっ!」
「お前の身を案じているんじゃないか」
「そもそもその前提が間違ってます。私が結婚しないのは……」
ちろりと女王が見上げる。
「しないのは?」
女王は問い詰めるように一歩近づく。
「……好きな人がいるからです」
女王は瞠目した。
「その人に想いを伝えていないから、結婚はまだ先の話です」
女王は驚きの顔から表情をゆるめる。
「……そうか。どうして伝えないんだ? お前ならどんな相手でも、うなずいてくれるはずだよ」
女王は宰相の肩に手をやって、軽く叩いた。
とても優しい声で口添えする。
「自信を持って、な。相手だって、告げられなければわからないことはあるよ」
「…………。陛下なら、私に告白されて、うなずいてくれますか?」
自分で、卑怯な問い方だな、と思った。
案の定、女王は少しつまって、肩から手を離した。そのまま押し黙る。
このままうやむやにすることはできる。適当に受け答えしていれば、この場は終わる。
だけど、女王が言ったのだ。
『相手だって、告げられなければわからないことはある』と。
危険な橋を渡ることは好まない。だが、それでも渡らなければならない時というのはある。
息を吸い込んだ。
「その好きな相手が、陛下だと言ったら、どうします?」
胸が高鳴っている。
夕日に小さな雲がかかった。雲は動き、夕日の形を刻々と変えていく。
「……宰相」
低い声だった。
「そういう媚びへつらいを、何度やめろと言えば、やめてくれるのかな?」
ぎょっとする。
女王はうんざりした様子で、眉間にしわを作っていた。
「媚びへつらいって……」
「そりゃあ、私は女王だ。臣下が私の顔をうかがうのはわかる。身に余るような褒め言葉だって、聞いてきた。それが女王だから受けるものだと、私は常に自分を律し、一歩引いてきた。だけどな――」
女王は眉間に指をやり、ため息をつく。
「だけどな、これは女王という地位と冠に向けられた美辞麗句だとわかっていても、ちょっと心が揺らぐときだってあるんだ。もしかして本気で言ってくれているのかもしれないと思うときだってあるんだ。それが宰相にとって、あるじへの挨拶代わりのような媚びへつらいだとしても」
悔しそうに女王は顔を右に背けた。そちらには夕日があって、ベールも目許も橙色に染められた。
「時々、つらくなるんだ。まるで仕事とは関係なく、好かれているような気持ちになるときもある。お前の好みが金髪の幼い女性だと、重々承知しているけれど」
宰相は悲しい思いでそれらを聞いていたけれど、黙って聞き逃せなかった。
「ちょっと待ってください。私の好みが、金髪の、幼い女性? なんですかそれ」
女王は目をぱちくりさせる。
「なんですか、って……お前の父親のサラフから、何度も手紙が来たぞ。息子の結婚相手をこちらで探してやってほしい、金髪の幼い女性を、って」
宰相は激しいめまいがしてきた。
心の中で、父がふっくらした顔でにやにやしながら笑っている。
父の好みがどうだろうと勝手だが、それを息子の嫁に求めるなんて……。しかも女王にまでそれを言って、要求するなんて……。
「お前の口から好みの女性のタイプなんて聞いたことがなかったから、最初の手紙を読んだときは驚いたけれど、サラフは何度も何度も同じ事を念を押すし、次第に納得してな。本当にそういう女性が好きなんだなあ、って」
女王は苦笑しながら続ける。
「そういえば、私の結婚相手がどうとか、老臣たちと話したことがあったけれど、お前の名前も出てきたことがあったんだぞ。……だけど、お前が強く強く念押しするくらい金髪の幼い女性が好きなら、私なんて、完璧にタイプじゃないだろう」
と、女王はベールから少しだけ出た自分の栗皮色の髪に触れる。
「金髪でもない、幼くもない。そんなお前が、私の結婚相手がいないなんて理由だけで私と結婚させられたら、お前がかわいそうすぎる」
『かわいそう』
それは宰相の中ではまらないピースだった。
今、それがかちりと合致した。結婚することになったら『かわいそう』だと言われる理由。
そういうことだったのか。なんだ、そんなことだったのか。
ほっとして口許がほころんだ。
「何がおかしいんだ?」
女王が首を傾げた。
「なんだかいろいろ誤解されているようです」
自分も誤解していたけれど。
「でもとりあえず、信じてもらいたいことが一つあります。私は誰よりも、あなたのことが好きです。媚びへつらいでも、なんでもなく」
宰相は女王の手を取った。逃げないように。
「私の目を見てください。嘘をついている目だと思いますか?」
女王は戸惑いながら、宰相の目を見上げてきた。
透き通る水晶のような、蒼い目。青銀の髪の色と合ったその瞳は、実直に女王を見ていた。
政治家に見えないような清廉さが、彼からにじみ出ている。
見上げるうちに女王の戸惑いの表情は消えていき、熱のあるような目となった。いつもは乾いたような深淵の瞳に、艶がある。
宰相はそっと手を伸ばし、口許を覆っている部分の布を取った。
そのまま頬に手をすべらせ、竜を撫でる。女王は拒否することはなかったが、少し憂いそうに眼を伏せた。
「……私は、ごく普通の女ではいられない。男から見ればやっかいな女だよ。特に、お前にとって、面倒なところがある」
それでもいいのか、と訊かれたような気がして、うなずく代わりに、背をかがめて口づけた。
彼女は強く、強すぎるほどに目をつぶっていた。
積極的になってはくれなかったけれど、受け入れてくれた。
恍惚とした思いの渦の中で、宰相は残照に照らされる。女王も同じように。
橋の影が川に落ちるように、彼らの影もゆるやかな流れの川に落ちたのだった。
* *
人の心はわからないものだ。
心が読めないのだから、本心は、本当のところはわからない。
そのとき、唇を交わした女王と、心がつながりあった気がした。
だけど本当のところは決して彼女のことを理解していなかった。
――受け入れるだけで、どれほど内心での葛藤があったのか。
――どれほど深く重いものを背負っているのか。彼女がどれほど苦悩と懊悩の人であるのか。
目に見えていた彼女の影にある、血まみれの姿。
単純に好きな人が振り向いてくれた、と思っているだけの当時の自分では、想像もできなかった。
いや、彼女は気づかせなかった。その間、彼女は耐え続けたのだった。
ようやくそれに気づくことができたのは、知ることができたのは、このときからずっと長い時間が経ってからのことだった。
* *
「素晴らしい」
マガリは耳を疑った。
場所は『竜の間』。
女王から渡された『竜の間』の鍵によって、竜騎士団長・デュ=コロワがこの部屋で竜の絵画を鑑賞していた。
マガリは女王の古参の女官である。白髪が目立ち始めている。
竜好きのデュ=コロワが一人『竜の間』にいたのでは、勝手に竜の絵に触れかねない。
ということで女王から彼を見張るよう仰せつかった彼女であるが、なんとも落ち着かない。
内部は『王の間』と同じ。四方に絵が飾られている。ただしこちらは彫刻は王の彫像。王といっても、現在の女王ではない。
古き時代、人竜戦争を終結させ、人と竜との和平と共存を築いたアルマン王のである。
マガリはこの彫像だけを見ている。
周囲にある竜の絵は恐ろしくすぎる。もし突然見せられたら、驚いて倒れて、そのまま死んでしまいそうだ。
その点、アルマン王の彫像は人間である。彼は最初の『泰平を築く覇者』として、右頬に竜のあざを持っている。彼のあざは両翼を持つ完全な竜の形だ。……というより、現在の女王以外、片翼をなくした王はいない。
そうしてマガリが王の凛々しい彫像を見ていたところ、竜の絵画を見ていたデュ=コロワから、「素晴らしい」なんて言葉が出たのだ。
デュ=コロワが見ている絵は、この部屋の中で、最も凄惨なものだった。
竜が、竜を食べているのだ。
子竜を大人の竜が三匹で食べている。
マガリはもう二度と見たくない。
そんな絵に向かって、竜騎士団長は「素晴らしい」なんて言った。
「あの……団長様、この絵のどこが素晴らしいのでしょうか?」
信じられなくて、マガリは後ろから尋ねた。極力絵を見ないように。
「この絵が実際にあったことを描写した絵だというからだ。つまり、実際にこんなことが竜族間で行われていたということになる。竜は決して共食いをしないと言われていたが……三匹、いや、後ろにもう一匹いるから、四匹で一匹の子竜を食べたというケースが存在することになる」
デュ=コロワの細い眼が目に焼き付けるよう最大限に開かれ、隅々まで鑑賞している。
「なぜこの大人の竜たちは子供の竜を食べたのだろう。胴体部分をほとんど食われたこの子竜は、なぜ食われる運命をたどったのか。通常と何が違っていたというのか」
「……お腹が空いていたのでは?」
「なるほど、それは考えられる理由の一つだ」
デュ=コロワはまだその絵を観察するような様子だが、マガリは顔を背けた。
見ていられなかった。
食べられている子供の竜の顔がこちらに向いていた。竜の表情なんてわからないけれど、あまりに痛々しくて、見続けられなかった。