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翼なき竜
6. 城下の夕(2)
大国の首都は、混沌としていた。
西と東との文化が融合し、そのどちらでもない文化ができあがっていた。
宗教が違えば、もしかしたら分離したような街になっていたかもしれない。が、幸いにもこの国の人々はほとんど一つの宗教を信仰している。つまり神が人々を結びつけている。
乾いた石造りの家の隣に、煉瓦造りの家がある。
ターバンを巻き付けたような男が歩く同じ道を、ドレスを着た女性が歩く。
だから東風に黒いベールを身にまとった女王と、西風のきらびやかな姿をマントで隠している宰相は、街に違和感はなかった。
人は多い。街の人々は肩をかすめて通り過ぎていく。多すぎて動けない馬車もまた道を占有している。
あまりに混みすぎていることから街の開発計画を考えつつ、すたすたと歩く女王を追う。
「こんな人ごみの中にいるなんて危険すぎます! せめて兵士を連れて……」
「あんな目立つやつらを連れていたら、お忍びの意味がないじゃないか。ほら、普通にしていれば、誰も私たちのことを気づかない。この先にいろいろ揃った市場があるんだ。日が暮れる前に行こう」
宰相はは呆れて声も出なかった。この慣れ具合は、何度か街に来ているのは明白。
口を尖らせようとしたが、女王が、な、と生き生きとした笑みを向けるもので、言葉をなくした。
ゆるい風が吹き、女王のまとう黒いベールが揺れる。口も頬も髪も全てを覆った女王は、目許しか見えない。だが、その目が美しいのだ。黒鉛のように純粋で底の見えない色。
そういえば、初めて出会ったときも、女王はこんな姿をしていた。
宰相は懐かしく思いながらそのときのこと、数年前のことを思い出す。
* *
宰相が城に来たばかりの頃は、宰相ではなかった。
東の領地の跡取りとなることは放棄し、イーサーと呼ばれるただの男だった。宰相となった今では、名を呼ばれることは限りなく少なくなったが。
そのときのイーサーは何の地位もない男だったが、東の領地の赤字解消した手腕を買われ、城に財務顧問として招かれたのだ。
城に来たばかりのイーサーは、城の広大さに目をきょろきょろさせていた。国内の各地を訪れて政治や経済を学んだ経験があったが、首都に来るのも王城内に入るのも、初めてだった。今まで見たどんな街よりも広く、どんな城よりも大きかった。
少々お待ちを、と言われて客室に案内される。
そわそわとしながら待つ。
財務顧問として呼ばれたからには、求められる以上のことをする気があった。東の領地ではうまくいった。それを一地方から国に広げ、全て同じようにいくとは思えないが、やる価値はある。いや、呼ばれた以上、しなければならない。
ここで成功しなければ、身を立てなければという焦りが、イーサーの手のひらにうっすら汗を作る。ここまで来たからには逃げる場所はどこにもない。泥沼の王宮の権謀術数の中で生き抜き、勝ち上がり生き残るしかすべはない――
崖っぷちの決意をする彼に、風が、吹き込んだ。
開け放たれた窓からだ。
緊張と焦りの熱が、少し冷めた。
手のひらの汗を自覚すると、冷静にならなければ、と思える余裕が出てくる。
まだ最初の最初だ。こんなところから緊張しすぎては、何を失敗するかわからない。
イーサーは椅子から立ち上がり、窓へ向かった。
もっと風を浴びれば、静かにリラックスして考えられるだろう。
窓からはやわらかに風が吹く。はためくレースのカーテンを払いのけたら、そこには小径があり、木々が道を挟んでいる。ぽつりぽつりと銅像や珍しい木が芝生にあって、見て回るのは面白そうだ。はなやかな光景ではないが、どこか落ち着く。
その木の一つに、紅色の何かが見えた。
枝に引っかかっている。布らしい。カーテンのようだと思った。
だが違った。人が立っていて、その人のベールが枝に引っかかっていたのだ。
栗皮色の髪がベールからこぼれている。横顔しか見えないが、女性だ。
東の出身だから、ベールをまとった女性は多く見てきたが、紅色のなんて初めてだ。
枝に引っかかっているそれを取ろうとしているが、苦心しているようだ。
その女性は秀美だった。
端正で凛々しい顔立ち。頬から下は布で覆われているが、形はわかる。その整い方は、芸術家が美を結集して作った絵画や彫像の中の神話の女神のようだと、息を呑む。
その女性は顔を上げ、引っかかったベールを取ろうとぴょんぴょん飛び跳ねる。黒鉛の瞳はけぶるような睫毛の下で、一心に枝を見上げている。
思わず窓に足をかけ、外に出た。
イーサーは部屋の中で待つように言われたことも、一時忘れていた。
紅色のベールをまとった女性の元へ足を進める。
そして女性の後ろに立つと、長身を生かして引っかかったベールに手をかけ、枝から外した。
『はい』
その女性は振り返る。
オリーブの木の下にいる女性は、身近で見ても美しかった。強い瞳が印象的で。
ひらりと葉が落ちる中。
神話の女神のような彼女の麗姿と相まって、その場が幻想的に感じられた。その空気に呑まれ、何も声を発することができない。
だけどすぐに彼女の表情がゆがんだ。
『なにを……なにをする!』
『え?』
彼女は一歩下がる。
ベールの端は彼が手に持っていたので、彼女の体からベールが取れた。両腕にある金環も、腹部の肌もさらけ出された。ベールが取れた拍子に顔を隠していた布も取れ、赤い唇が露わになった。
東では女性がベールを脱ぐのは家の中だけだ。こんな外でベールを取らせるべきではない。
『ベールが引っかかっていたようでしたから……』
慌てて一歩前に出て、ベールを差し出すように近づいた。
ますます彼女の顔がゆがむ。
『やめろ、近づくな……!』
『は? あの、ですから、ベールを……』
埒があかないと思って、強引ではあったが、ベールを押しつけようとした。彼女の手をつかんで、その手の中に。
手をつかんだ瞬間だった。
彼女は思いきり目を見開き、息を吸い込む。
『なにをするつもりだ! 離せ、離せ! やめろ! 来るな!』
その声はもはや、叫びだった。何かから逃げようとする声、逃れようとする声。拒絶、拒否。
わけがわからなくて、手を離すこともできなかった。
何か誤解されているような気がして、弁解の言葉を発しようとしたとき。それよりも早く、彼女の叫びに反応した集団がいた。
『陛下! 何があったのですか!?』
『お前誰だ! 見かけない顔だな!』
緑の羽根の兜を持った騎士たち。――近衛隊の騎士達だった。
周囲に集う彼らに慌てる。彼らは全員、イーサーを敵意をもって睨み、剣に手をかけてさえいたのだから。
『ちょっ、あのっ』
そのとき、目の前にいた彼女は手を振りはらい、近衛隊の元へ走った。
『陛下! ご無事ですか!』
近衛隊のみなみなは、彼女の無事を確認する。このときようやく、目の前にいた美しい女性の正体を知り、イーサーは青ざめた。
まさか、この方は……。
女性の頬には、よく見ると右に竜のあざがあった。『泰平を築く覇者』の印たる竜のあざが女王の頬にあるということは、国中で有名だ。なぜだか片翼だが、確かに竜のものだった。
『……急に近づいてきてベールをつかんで取り、手首を握ってきたんだ』
彼女は――いや女王は、震える声で近衛隊に語った。
近衛隊が向ける、許しがたい存在を見る目。
イーサーは暴漢だと誤解されたことを感じ取った。
『ち、違うんです! 私は……』
『その手にあるベールは、陛下のものではないか!』
『引っかかっていたようでしたから取ろうとしただけで……!』
言いつつ、イーサー自身もこんな釈明を聞き入れられるとは思えなかった。
何せ相手は女王陛下なのだ。
彼女の至近距離まで来て、ベールに触れ、あまつさえ許可なく手首を取った。
おまけに女王自身が誤解をしている。
『違うんです! 陛下だとは本当に知らなくて――』
――予想通り、弁明は受け入れられなかった。
イーサーは拘束され、騎士団に捕まった。
だがイーサーはこのまま監獄送りになるのを待ってはいなかった。
何度も何度も弁解をした。そして東の領主・サラフの次男という確かな身元と、財務顧問として呼ばれたことを説明をしてからようやく、イーサーは解放された。
女王がその弁明を聞きつけ、許しを与えてくださったのだと、釈放されるときに聞いた。最初の求め通り、財務顧問として働くようにとの命令と共に。
イーサーは女王陛下の許しに深く感謝して、一心に働くことを決意したのだった。
……と、これで全てが済めば、まだひとつのハプニングで済んだのだが、そうはいかなかった。……世の中は甘くない。
財務顧問となったイーサーは、王宮内で、これでもかというほどに冷遇された。
王国は絶対的君主が頂点に立つ。
その女王にあだをなす存在というのは、国にとっても敵。
女王の好きなものを褒め称えることと、女王の嫌いなものをけなすことは、王宮内の臣下にとっては女王に媚びを売るという点で似たようなものだった。本気で女王に忠誠を誓う臣下にとっても、女王に害をなす存在というのは、暖かく受け入れるはずがない。
女王の許しを得たけれど、イーサーは王宮内で容疑が晴れていなかった。
厳しく冷たくなめ回すような目に囲まれながら、イーサーは財務顧問として、ひとり、役目をまっとうしなければならなかった。
* *
市場には店があふれていた。
女王は宰相の手を引き、店にあるものを指さす。
「あの人形、かわいいな」
手のひらに乗るような小さな人形が並べてあった。素朴な三つ編みの女の子の人形は、目がくりくりとして愛らしい。
「こういうのいいな、ほのぼのして」
女王は母性の塊のような顔で、人形の頭をうりうりと撫でる。
宰相はマントの下から、金貨の入った袋を取り出し、一枚出した。
まいど、と言って人形を渡す店主。
女王は慌てた。
「代金くらい自分で払うさ」
「いいんですよ、これくらい」
「だけど……本当にいいのか?」
「これくらい構いませんよ。人形一つです。家を買えと言われているわけではないんですから――あ、べ、別に家が欲しいと言われても、大丈夫ですから、貯金はありますし」
「何を言っているんだ。家なんてほしがってないよ」
二人が話していると、店主はぷっと吹き出した。
「いちゃつくのは構わないけどね、他にお客さん待ってるから、店前は開けてくれないかい?」
女王は何かを言おうと口を開いたが、後ろに客が並んでいた。ので、口を閉ざして二人は店の前を離れる。
そのときの女王の顔は、どこか暗いものだった。人形を見ながら何かを考え込んでいる。
「陛下?」
「あ、ありがとうな。本当に、嬉しい」
きゅっと人形を抱きしめながら言われて、宰相は心が満たされた気持ちになった。
宰相はじっと彼女の姿を見る。瞳以外黒いベールに隠された姿。
少し懐かしくなって、宰相は微笑む。微笑みは口に出した笑い声に変わった。
「? なんだ? ……何か私の格好が変か?」
女王はまとった黒いベールに目をやる。
「違いますよ。ちょっと、思い出し笑いです。……陛下に初めてお会いしたときのことを。あのときは紅色のベールでしたが、今と同じように口許も全部隠しておられたな、と」
女王は視線を逸らしてばつが悪そうな顔をした。
「……あのときのことは悪かった、と何度も言っているじゃないか。財務顧問時代のときのことも」
「いえ、そういうことではなくて、あの頃と変わらず、陛下は美しいな、と」
呑気な宰相の言い分に、女王は呆れてぽかんとした。
「……そんな媚びを売らなくてもいいんだぞ」
「媚びじゃありませんって」
「……なんでそんな風に笑えるんだ? あのときのことは、私を恨みこそすれ笑えるものじゃないだろう」
確かに、財務顧問時代は最悪の環境であった。辞めさせるため、嫌がらせも多かった。一時期本気で東に帰ろうかと思ったくらいだ。
だが、女王は、ちゃんと見てくれていた。
人間、初印象は大事だ。その後に大きく左右する。
その点で言えば、女王と宰相の初対面は最悪なものだった。
しかしイーサーを初印象で暴漢だと思った女王は、それでも財務顧問の仕事ぶりを適正に見てくれて、宰相にまで取り立ててくれた。
冷遇が解消されたのは、その女王の態度のおかげだ。
もう全て、宰相は笑って話せることになった。
「陛下のおかげです」
宰相の答えに、女王は首をかしげる。
そのとき、市場の奥で歓声が上がった。
なんだろう、と二人は顔を見合わせ、向かうのだった。
市場の奥に行くと、円形の広い場所があった。街の小さな広場である。
国が主催するようなおおがかりな催し物はないが、市場の商人主催の催し物は大抵ここでやるのだ。
本日は大道芸人が芸を見せていた。円環状に観客が見守っている。お代を入れるためのバスケットがその観客の間で回っており、小銭がたくさん入っていた。
宰相と女王は後ろから芸を眺めることにした。
大道芸人は筋肉のついた大柄な男二人である。体格も背も似通っている。
彼らは松明を二本ずつ持っていた。火が激しく松明の先で燃え上がっている。
二人は合図をかわすと、松明を相手に向かってアーチ状に投げ始めた。
火がぶつかる、危険だ、と思うのだけれど、不思議と双方共にしっかり捕ることができる。投げるスピードが速くなり、投げ方も斜めに向かったり、またの下からくぐらせたりと、いろいろと変える。危険なすれすれのところを、松明が飛んでいく。
観客はそのたびに息を止めたり、悲鳴を上げたりする。
最後に双方背を向け合って投げ、しっかりと受け取ると、うやうやしく観客に頭を下げた。
拍手の渦が広がる。
めまぐるしい危険な芸に、宰相と女王も手を叩いた。
王宮内でも芸人はやってくるきてきらびやかな芸を披露するが、多くの観客に混じって見るというのも、周囲の熱気と不安にあおられ、楽しいものだ。
お代を入れる籠が回ってきた。
快く二人は金貨を入れ、再び歩き始めた。
「楽しかっただろう?」
「はい」
「じゃあ次は、西の通りを歩こう。あそこはいろいろ面白い店が並んでいるから」
女王は西に向かって、細い裏路地のような道に入り始めた。
……ここまで街に詳しいことは置いておくとして。
「陛下、どうして私を城下に連れてきたのですか?」
城下に出てから宰相はずっと気になっていた。
何かあるのかと思っていたが、先ほどから店を見て回ったり、芸を見たり。
楽しいけれど、連れ出した意図がよくわからない。
いつも城下に出ていたようなのはわかったが、今回に限ってなぜ宰相を連れてきたのか。
「……最近、沈んでいただろう」
裏路地の影の中で、ぽつりと女王は漏らした。
「何か考え込んでいるようだったし……そうでなくてもお前は働き過ぎだったから、心配で……。だから息抜きさせるつもりで、一緒に城下に出よう、と言ったんだ」
宰相がここ最近考え込んでいたのは、かわいそう、と言われたことが原因だった。沈んでいたのを気づかれていたとは知らなかったけれど。
再び沈み込んだ宰相を、女王は不安げに見上げてくる。
「……でも、私と一緒では息抜きにならない、か。肩の力が抜けないものな。……ごめんな」
「そんなことは」
否定しても、女王は表情を変えなかった。
沈んでいた理由、考え込んでいた理由、それを彼女が聞きたいのはわかっている。
そして宰相も、かわいそうと言われた理由をはっきりと知りたかった。
思い切って、宰相は口を開いた。
「……陛下が私と結婚するなら『かわいそう』だと言ったのは、」
なぜなのですか、と続けようとしたが、できなかった。
二人が話していた裏路地に、柄の悪い男達が近寄ってきたからだ。
「兄ちゃん、さっき重そうな袋から金貨を取り出していたよな」
彼らはおのおのナイフを手にしている。腕ずくで金を奪おうというわけか。
貴族のたしなみとして宰相は剣の稽古はしている。騎士ではない宰相の目から見ても、彼らのナイフの持ち方や体は、程度の知れたものだ。
こんなときに、と宰相は苛立った。
だがさらに苛立って怒気あふれた人物がいた。
女王は躊躇なくベールの下にある大剣を抜く。
「よくも、こんなときに現れてくれたものだ。褒美にフォートリエ騎士団に所属していた私の腕をたっぷりと見せてやる」
凄みの利かされた声に、彼らが一瞬立ち止まった。
女王は大剣を構えると駆け出して、彼らに神速の剣で襲いかかった。