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翼なき竜
4. 有翼の君(3)
…………。
何かがどさっと降りかけられた。それは決して激痛をともなう牙の感覚ではない。
いつまで経っても、覚悟していたその痛みはやってこなかった。
「おい」
下から軽く頬を叩かれた。
固くつぶっていた瞳を開けると、すぐ前に女王の顔。睫毛すら触れそうな距離。
「!」
これは、まるで――どころではなく、本当に押し倒しているかのような格好。
「重い」
女王の呼気がかかる。慌ててどこうとして、竜はどうなったのかと、体を起こし顔を上へ向けた。
白樺の白い幹が、天へ向いている。おいしげる葉が太陽の光に輝いていた。
そこに、人がいた。
牙を向けた竜ではなく、鎧を身にまとった男。
兜は外しており、短い髪や顔が逆光となっていた。
よく売られている鎧は、皮や鉄である。だがその男は違う材質の鎧を身につけていた。玉虫色の、透明さがある。
宰相はその材質に気づいたと同時に、そこに立つ人物が誰か、わかった。
「デュ=コロワ様……」
彼は無表情で布袋から粉を取り出し、宰相たちに降りかけている。ぱらぱらと宰相たちの顔や服に当たる音がする。
なぜここに、と訊く前に、デュ=コロワは先に口を開く。
「天下の王城で竜に襲われる人間がいるとは、思わなかった」
宰相は降りかけられているものがロルの粉であることに気づいた。葉を粉末状にしたため、緑色なのである。
竜は、横に、いた。
翼をたたみ、首をおろし、敵意の色を宿した瞳は閉じられ、眠っているようである。口から何かがはみ出していた。赤い何か……あれはもしや、チキッタの花か。
竜騎士団長・デュ=コロワが、食べさせたのだろう。
宰相は体を起こして、立ち上がった。
下にいた女王を起こそうと手を差し出す。女王はまるで羽のような軽い動きで起き上がった。
そして宰相はデュ=コロワへ向き直る。
彼の短い髪には白いものが交じり始めている。開いているのか閉じているのか微妙なほどにとても細い目だ。まるで目をつぶって寝ているのかと思うほどに。
「あの、デュ=コロワ様」
「なんだ」
答えがあるということは立ちながら眠っているわけではないようだ。
「貴方様が、助けて下さったのですか?」
「ロルの粉を陛下や宰相閣下に振りかけ、竜にチキッタの花を食べさせ眠らせたたことが、『助けた』ということなら」
「ありがとうございます!」
宰相は手を握り、精一杯の感謝を伝える。
「デュ=コロワ様のおかげで、私も、陛下も助かりました。本当に……死ぬことも覚悟していましたが。あなたの勇気とご活躍、一生忘れません。私の孫子の代になっても、伝えていきましょう」
感謝満面の宰相に、面食らったようにデュ=コロワはこほんとせきをした。
「……そこまで言われるほどのことでは。竜騎士団長として、騎士として、当然のことだ。他の人間より竜の扱いにも慣れているから」
「それにしてもお前の活躍は天晴れだった。襲いかかるギーの口の中にチキッタの花を押し込むところなど、並の騎士ではできまい」
女王も彼を褒めた。どうやら女王は宰相に覆い被さられながら、デュ=コロワの活躍を見ていたらしい。
女王陛下のお褒めの言葉を受け、デュ=コロワは片膝をついた。
「さすが、竜騎士団の団長。竜にかけては、お前に並ぶものはないな」
「もったいなきお言葉。……『泰平を築く覇者』である陛下におっしゃられたところで、皮肉にも聞こえますが」
女王は寂しそうに苦笑した。
なぜここで『泰平を築く覇者』のことがでてくるのか、宰相は不思議に思った。
だがそんな疑問を抱いているのは宰相だけで、女王はよくわかっているようだった。
「しかし、どうしてお前はここにいるんだ? 二日後に来るはずだっただろう」
「思いの外、早くに到着いたしました。特別謁見の前に陛下にお目通り願おうと思いましたら、城内で陛下が行方不明と聞きまして。そこでわたしも捜索せんと、竜の臭いがする森に立ち入ったところ……」
「なるほどな。お前が今ここにいる幸運に感謝しよう」
獣のうなり声が聞こえてきた。眠っていたはずの竜が、再び起き始めたのか。
宰相が息を詰めて顔を青ざめたところ、女王が前に出た。
もちろん、宰相は止めようとした。だが、しばらく黙って見ていてくれ、と女王が目で訴えてきた。
そしてそのまま竜の側まで近寄り、女王は竜の頭を撫で始めたのである。
「ギー。頭は落ち着いたか?」
女王は頭だけでなく、うろこに覆われた頬、顎の下もなで回す。
とても正気ではできないようなこと。
宰相はそれを黙って見ていたわけではない。飛ぶように女王の側まで行って、止めようとした。が、その前にデュ=コロワが宰相の肩をつかんで引き止めたのだ。
女王と同じく、しばらく見ていろ、と言わんばかりの目で。
女王は竜を撫でる。竜は大きな瞳を動かして、宰相やデュ=コロワへ視線を向けた。青い瞳。つまり、敵と認識されなくなったということだ。
竜は穏やかそうな表情だと、宰相には見えた。といっても、竜にそんなに会ったことのない宰相であるから、ただの直感だが。
ギーと呼ばれた竜は口を開けた。
宰相ははっと息を呑んだ。
が、宰相の思ったような最悪のことは起こらず、長い舌が現れ、女王の顔をなめ回し始めたのだ。
「謝るって? ふふ、いいんだ。仕方ないことだ」
女王は楽しそうである。
まるでペットとじゃれる飼い主。……少し宰相は寂しい。
「……宰相、気づいているか?」
肩をつかんでいるデュ=コロワは静かな声で問うた。
「竜になめ回されている女王は、ロルの粉の効力を失っている」
「!?」
ギーは女王の服までお構いなしに舐めている。降りかけられたロルの粉は、あれでは……!
押しとどめるように、デュ=コロワの手の力が強くなる。
「落ち着け、宰相。ロルの粉がなくても、女王は平気だろう?」
「ど……して。今、竜はチキッタの花で眠っているわけでもありませんよね? それなのに……」
ギーと女王は、まるで普通のペットと飼い主。女王に撫でられているそのペットは、人間を襲う習性のある最強の生物とは思えない。
「あれこそ、『泰平を築く覇者』の力」
「えっ?」
「……やはり知らなかったか。『泰平を築く覇者』の印の、竜のあざは、だてではない。世界で唯一、『泰平を築く覇者』は竜に同族と認められ、薬を使わずとも竜の背に乗れる人間だ」
顔だけ振り返ってみると、悔しいような妬いているような強い感情が、デュ=コロワの細い目の中の瞳にあった。
「……羨ましいことだ。どれだけわたしが竜と共にいても、ロルの粉がなければすぐに敵意を向けられるというのに、女王はあのあざ一つで、竜と共にあれる。……最強の生物たる竜に認められ、人間の王として認められる……そんな存在に、誰が太刀打ちできる。『泰平を築く覇者』と呼ばれるのも道理だ」
宰相は、彼が昔から女王に忠誠を誓っている理由がわかった気がした。
デュ=コロワにとって、素のままで竜と共にいられることは、宰相が思うよりも信じがたいことなのだろう。そして女王はとてつもない力を有している存在に見えるのだろう。
宰相にとってはいまいちぴんと来ない。
それは、女王がくったくなく笑って、それこそ普通のペットと飼い主のように竜とたわむれているのを見ているからかもしれない。
「宰相っ」
荒い息で後ろから呼びかけられた。
おびえた表情の、老神官だ。ロルの粉を頭からかぶりつつ、竜の視界に入らないような、離れた場所にいる。
「宰相、一体どういうことじゃ。どうしてこんなところに竜がいるんじゃ。女王の恋人はどうなったんじゃ」
はっとした。彼の疑問はもっともだ。特に、恋人は――。
宰相は勇気を出して、当人に訊いてみた。
「陛下! 陛下の、こ、恋人は……」
女王は宰相に眉を寄せた顔を向けた。
「私の恋人? 誰だそれは」
それはこちらが訊きたいことだ。
「さ、さっき、お話されていたでしょう。プレゼントを渡して……それに、前の休みのときにも、密会があったそうではありませんか」
「……何を言っているんだ? 私はギーと一緒で、他に誰もいなかったぞ。前の休暇の日にも、ギーと会っていただけだ」
なあ、と女王は竜に顔を向ける。竜もうなずくように女王の顔を舐める。
「プレゼントって、ギーのために持ってきたにんじんのことか?」
と、女王は赤々としたにんじんを服の下から取り出した。すかさずギーが長い舌でそれを絡め取り、口の中に入れる。
おいおいがっつくなさっきやっただろう、と女王は竜にじゃれつき笑う。
「…………」
「…………」
かくして、女王の恋人騒動は終わった。
女王の警護の兵士たちや、老臣たちが集まり、女王の愛竜・ギーもチキッタの花で眠らせられ鎖に繋がれ、厩舎に戻っていった。
そして、女王は休暇を強制終了させ、城の執務室へ戻った。
女王の座る机の前で、苛立たしげに宰相がぐるぐる回っている。
宰相は恋人がいなくてよかったという思いよりも、宰相という立場から執務室では、休日にはこれほどまでに勝手な振る舞いをしていた女王に怒っていた。
「そもそも、どうして竜が鎖にもつながれずに陛下の前にいたんですかっ!」
「……いや、うん、それはな。……だって、鎖つきで会ってもギーは嬉しくないだろう? たまには自由にさせてやろうかと」
「なっ、何て、危険なことを……!」
宰相は絶句した。
デュ=コロワの言うとおり『泰平を築く覇者』なら平気かもしれないが、他の人は違う。宰相が襲われかけたように、竜が危険極まりないのは確かなのだ。
「勝手に鎖を外して、逃げ出していたらどうするんです。いかに女王陛下が『泰平を築く覇者』であっても、走ったり飛んだりする竜を止められないでしょう。大事件となったら……」
女王はむっとしたような表情を向ける。
「竜は智恵がないわけではない。むやみに人の前に表すことはない。人間を殺してしまうとわかっているからだ。それが人間と竜の関係に溝を作り、ひいては竜という種族の首を絞めるとわかっている」
「……そこまで頭が働いている生物だというなら、人間を襲うのをやめるのが一番だと思いますが」
宰相は冷ややかだった。女王が竜を智恵あるものと思いこみたいのはいいが、その想像に過信されても困る。
「竜が人を襲い食べるのは、本能がそう命じるからだ。智恵とは別の問題」
「智恵という理性があれば、我慢くらいするでしょう」
「それは違う。人間だって欲望があるだろう? 食べること、寝ること、男女が……」
女王は頬を赤らめながら語尾を濁した。
「……とにかく、そういった欲望を持ちつつ、人間は我慢できる。だけど、完全には我慢できないものじゃないか。何も食べずに生きていられる人間はいない。体がそれを必要と組み込まれている。竜も同じだ。竜も、そこに人間がいれば、食べずにいられない。人間がいなければ仕方なく他の代替物を食べるが、人間がいるなら必ず食べる。そういう風に竜の欲望や体は組み込まれて、どうしようもないんだ」
宰相は呆気にとられていた。
竜の体について、どうして女王は知っているのだろう。想像にしては深い。どこかで勉強したのだろうか。
女王はそんな疑問に答えた。
「……ギーに、聞いた」
「竜に?」
竜は話さない。竜が口を開いたとき、それは何かを食べるときだけ。鳴き声すら上げない。
女王はためらいがちに見上げてきた。
「……信じてないだろう?」
「…………」
「いいんだ。信じてもらおうと思ってない。私の前なら鎖を外しても平気だと説明したって、無駄だと思ってた。だからこうして休日に一人で会っていたんだが……知られたし、もう無理か」
女王は笑いながらうつむいて息をはく。その息に、諦めや落胆が混じっていることに、宰相は気づいた。
やっぱり女王に対して怒るのは自分の柄ではない、と宰相は相好を崩した。
「信じますよ」
女王が顔を上げた。
「陛下がギーに聞いたというなら、そうなのでしょう。陛下の言うことなら信じます」
女王は少し嬉しそうな顔をした。
「ギーに会えるようにします。私たち普通の人間は怖いと感じますから完全に自由とはいきませんが、そのあたりは陛下の希望と折り合いをつけて、調整しておきましょう」
「……そう、か」
「はい」
「……ありがとうな」
「いいえ」
女王がくったくなく笑うことは少ない。その笑顔をペットのように思っているギーが引き出したとしたら、心中複雑で悔しいが、引き離させたくはない。
宰相は、『泰平を築く覇者』というものに不勉強だった。英雄王や、賢王といった、王につけられる尊称のようなものだと思っていた。頬にある竜のあざは不思議だとは思っていたが、王の血筋とはそういうものなのだろう、と丸ごと受け入れていた。
女王陛下を理解するためにも、それらを勉強しなければならないな、と反省した。
執務室の扉が叩かれた。
入室を許可して入ってきたのは、デュ=コロワと、老臣たちだった。
デュ=コロワは顔に真剣さを帯びていた。
「実は、わたしが早くに入城したのは、お知らせしたいことがあるからです」
女王と宰相は政治家らしい厳しい顔つきになる。
「我が領地がどこにあるかはご存じだとは思いますが、そちらからの情報です」
デュ=コロワは竜騎士団の団長であるが、貴族であり、地方の領主だ。その地方というのは、この大国の西、国境線沿いの領地である。
西側というのは、この大国では問題が発生しやすい。隣国との戦争や小競り合いはもっぱら西側で起こる。
とはいっても、ここは富める大国。周囲はほとんど小国であり、何かあっても向こう側が折れ、戦争とまでは発展しないことが多い。
西の情報、となると、小競り合いでも起こったか、と宰相は構えた。
「隣接するカプル国とラビドワ国の間で、戦争が起こりそうです」
カプル国もラビドワ国も、どちらともが隣接する小国である。仲が悪い国同士だ。
「ことの起こりは何だ」
「特になかったと。どうやら、ラビドワ国が一方的にカプル国に攻め入ったようです。突然のことに、カプル国は大打撃を受けました」
「……だが、まだカプル国は倒れてはいないんだな?」
「はい」
女王は考えるように、顎に手をやった。
「おそらくカプル国はすぐさま我が国へ、女王陛下へ、助けを求めるでしょう。いや、使者がここへ走っている頃でしょうか」
つながりある小国が軍事的にも強大な大国へ援助を求めるのは当然だ。特にせっぱ詰まれば。
「……見捨てることは、できないな」
条約も結び、毎年貢ぎ物を律儀に運んでくる小国を無視すれば、同様の条件の他国との関係も悪くなる。
ただ、条約を結んでいるのも貢ぎ物を運んでいるのも、両国なのだ。
攻められたカプル国使者を送るように、ラビドワ国も戦争が正当だという理由をひねくりだして、この大国を味方につけようとするだろう。
善悪は置いておいて、その意味では二国は対等。
老臣の一人が言った。
「方法は今のところ二つありますな。一つは、二国の休戦の調停役をする。カプル国にもラビドワ国にも中立的な対応じゃ」
宰相はそのあたりが一番いいと考える。ラビドワ国のやり方は顔をしかめてしまうものであるが、むやみに戦争に介入すべきではない。
「もう一つは、どう考えてもラビドワ国が悪いわけであるからして、カプル国側へつき、共同戦線を張り、戦争。ラビドワ国程度なら我が国の軍事力をもてば、負けることはないじゃろう」
宰相は、反対だ。戦争は金がかかる。富める大国とはいえ、財政を引き締めたい宰相にとっては、これは真逆を行く。それに簡単に戦争するというのも、周囲の国家に恐怖心を植え付けるだろう。
かたかたと、音がした。
隣の執務机から。女王の手が乗っている。その手が、震えているのだ。
寒いのか、何かが怖いのか。そう思って驚きながら女王の顔まで視線を上げると、そこにはまったくの無表情の女王の顔があった。
虚無の色の瞳は、どこも見ていない。
右の頬にある竜の印の赤みが強くなって、翼の部分が肌に溶けてきている気がする。
「……陛下、大丈夫ですか?」
不安になって、少し大きな声で呼びかけた。
まるで夢から目覚めたように、女王はびくりと肩を震わせた。
「あ、ああ……何でもない」
女王はさっと右頬に手をやり、あざを隠す。
「現時点での情報を聞いた限りでは、私の意見は、中立の立場に立って、休戦の調停役を買って出ることだ。とにかく、二国の情報を調べさせろ」
女王はいつものとおりの凛々しさで、宰相に命じた。
宰相はうなずき、デュ=コロワと共に部屋を出る。
「陛下、別の話があるのですが、よろしいですかな?」
と老臣が女王に言っていて、少し気になりながら、宰相は扉を閉めた。
「あ、しまった」
宰相は王城の廊下を少し歩いて気づいた。書類を女王の執務室に置いてきたのだ。それほど遠く離れたわけではないので、戻って取ってこようと思った。
隣を歩いていたデュ=コロワに説明して、一人女王の執務室に戻った。
扉を叩こうとしたとき、部屋から老臣の声が聞こえた。
「……つまり、陛下には恋人がおられないわけですな?」
さっきの竜の話か、と合点がいく。そういえばまだ老臣達にことの顛末を話していなかった。どうやら彼らは女王に直談判して聞き出したらしい。
「どこでどうしてそんな話になったか知らないが、迷惑なものだ」
「それだけ陛下の結婚相手や恋人というものに過敏になっておるわけでして。一度、陛下に聞いておきたかったのですがな、陛下はご自分の結婚について、どう考えておられますかな?」
「どうって……そうだな。いずれはしなければならないとはわかっているさ。ただ、今は相手もいないわけだしな」
「相手ならいくらでも儂らが見つけると申し上げているでしょう。どうなんです。顔はどんなのが好みです? 体つきは? 趣味が合うような男がよろしいですかな? 背の高さは? さあどんどん言ってください!」
「…………悪かった」
老臣達の迫力に負けるように、力なく女王は謝った。
「正直に言うと、する気がないんだ。他国の王子だかなんだかを、我が国が優位だからって人質同然に夫にするというのもなあ」
「なら我が国の王族の方々は?」
「ううん……」
女王は乗り気ではないようだ。宰相はほっとした。
「……陛下、まさか、よもやとは思いますが、宰相を相手に考えてはいないでしょうな?」
宰相は驚いて声を上げそうになった。
しかし候補に上がるにしても、『よもや』と言われるなんて。
「なんだ、自分で言っておいて、否定する気満々な言い方だな」
「当然です。宰相は臣下としての高みに登り詰めた方とはいえ、家柄を考えれば、東の領主の次男。王家の血筋が入っていない貴族です。女王の隣にいるべき者としては少々……」
語尾は消えていったが、言いたいことは伝わっている。
「……私の相手は、自国にしても他国にしても王族限定なわけか」
「当然でしょう。女王陛下の隣に位置するお方には、それなりの釣り合う家柄――つまり、王族の方でないと」
そうですよね、当然です、と他の老臣達が肯定の言葉を重ねる。それはなれ合いじみた風にも聞こえた。
「――勝手に価値観を押しつけないでほしいが」
女王は冷ややかな口調である。
部屋の外にいる宰相にも伝わる。一瞬で、部屋の中の空気が冷えた。
「王族だからって立派な人間に生まれるわけではないだろう。逆もまたしかり。家柄が劣っていようと、王の隣に立つにふさわしい人間はいるさ」
老臣達が狼狽し始めた。
「ま、まさか、本気で宰相を……!?」
青ざめているであろう老臣達と違い、まさか、と胸が高鳴るのは宰相だ。
女王は脱力して、困ったように苦笑する。
「だからどうしてそうなるのか……私が、宰相を夫に迎えたいなんて、一言でも言ったか?」
女王は少し黙って、静かに言葉を続ける。
「家柄がどうとかなんて考えていない。宰相として立派にやっていると思う。地位も、家柄も、関係ない。ただ……私と結婚してしまえば、あいつがかわいそうだ」
女王は、もうこの話は終わりだ、と老臣達を執務室から追い出し始めた。
宰相は部屋から離れ、廊下を曲がったところで、壁に背を預けた。
『かわいそう』
宰相の頭の中で、鐘が何度も撞き鳴らされたように、響いている。
家柄が悪い、地位が足りない、というのならわかる。社会的にもそれは重要視されているからだ。それが原因で、というなら宰相はできる限りの努力をする。
だが、かわいそうだから、というのは、どう考えていいのかよくわからなかった。
たとえば女王と結婚できたとして、それは全然悲しくないし、むしろ嬉しくて嬉しくて仕方がないはずだ。
それが、かわいそうって。
嫌な考えが、浮かんだ。
もしかして女王は自分の気持ちを知っていて。結婚したら喜ぶだろうことも知っていて。
宰相が自分の結婚した場合を予想するなら、女王が同じくらい自分を好いてくれているから結婚を受け入れてくれた、と思うはず。
そうではない、ということなのでは?
つまり……女王は、『何とも思っていないのに適当な気持ちで結婚してしまえば、好いてくれたと有頂天になる宰相がかわいそう』だと言ったのでは?
『夫に迎えたいなんて一言もいっていない』という発言も、何とも思っていない、という意味であろうし……。
家柄も地位も関係なく、単純に気持ちの上で考慮の外、という意味、か。女王にとって、あくまで宰相は宰相、臣下に過ぎない、ということか。
……これほど胸にダメージが来る理由もないな。
このまま座り込み、二、三日飲んだくれようか。
宰相はそこまで捨て鉢になれない自分をわかっていながらも、ぼんやり思った。
青銀の髪が窓からの風に揺れた。
柔らかな春の微風が王城をめぐる。髪だけでなく、頬も撫でていく。それは慰めるような風だったかもしれない。
それでも、宰相には冬の霜風のように、冷たく感じた。