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翼なき竜


 3. 有翼の君(2)


 竜騎士団長・デュ=コロワの来訪があと二日に迫った日。
 その日は急遽、女王の休日となった。
 宰相の努力のたまものである。
「本当に、今日は休んでいいのか?」
 外出用の赤い布をまとった心配そうな女王に、
「はい! もちろんです!」
 と答えた宰相は、目の下にクマができていた。
 いろいろと訊きたそうにしていた女王を、宰相は丁寧に執務室から追い払った。
 ここ最近の宰相の猛烈な働きぶりを何度も問いただされた。が、本人に話すわけにはいかない。
 女王の後ろ姿を見ながら、宰相の瞳が光った。


 女王に休暇を与えた以上、宰相も休むわけにはいかない。
 本当は女王の後を追い、恋人らしき人物の素性や顔を見たいところだが、立場がある。ここは我慢である。
 女王はもちろん、警護のために近衛の兵を何人も連れる。それはいついかなるときも。
 兵の中でも憧れられる近衛兵は、武装しながらきらびやかな服装をしている。最も特徴的なのは、緑に染められたダチョウの羽根が兜の上でしなって揺れているところ。
 そんな彼らが動くと、彼らの頭上の羽根はひとかたまりに見え、まるで麦畑が移動しているようなのだった。王宮内でも目立つ。
 その彼らの中心にいる女王がどこに行くかは、老臣達、老神官でも追っていけるだろう。そしておそらく、女王の相手も明らかとなる。
 宰相にできるのは、彼らの報告を待つだけ。
「宰相っ」
 しばらくしてから老神官が、宰相の執務室に慌てた様子でやってきた。
 宰相は待ち望んだような怖いような気持ちを振り切り、立ち上がる。
「早かったですね。わかったんですか? 女王陛下の……恋人が」
「そうじゃないんじゃ! 陛下が逃げた!」
 はあ? と宰相が首を傾げた。
「逃げたって……どこからですか? それとも、誰から、ですか?」
「お付きの近衛兵を置いて、一人で走り逃げおった! 信じられん早さじゃった!」
「一人……陛下は今、一人なのですか!?」
 宰相はぞっとした。
 大国の女王というだけで、それは命を狙われる理由だ。身を守るはずの兵士を振り切り、彼女はなぜ……。
「陛下はどこにいるんですかっ」
「わからん。ただ……」
 老神官は口をもごもごと動かす。
「ただ、兵士達に話を聞いたところ……陛下が逃げるのはよくあることだそうじゃ。近衛兵は陛下に毎回口止めされたらしいが……。信じられん」
 今まで何度も、女王を一人にしていた?
 宰相は目の前にあった書類を思わず握りつぶす。手がぷるぷると震えていた。
 ぞっとするどころではない。即刻近衛兵全員クビにしてやるところだ。……近衛兵の人事は女王の権限下にあるから、宰相でもできないが。
「この前の休暇の時も、同じように逃げられたとのことで……。もしや、秘密の恋人に会うために、一人になったのではないか、と」
「…………」
「とりあえず、えらいことが起こったと、宰相に伝えに来たんじゃが……」
「わか、りました。私も行きます」
 女王が行方不明となれば、執務室で書類仕事をしている場合ではない。
「その恋人に……会うためであれば、前回と同じ場所にいる可能性が高いです。場所を覚えていますか?」
 老神官は一度、女王と恋人らしい人との会話を聞いていた人物だ。
「うむ。城内にある、東の森の中じゃ」


 王宮にはいろいろなものがある。もちろん主たる王城が中央に鎮座し、圧倒感をもって左右対照的に広がる。他にも女王の好きなワインが保管されている大きなワインセラーが地下に作られていたり、別荘のようなものもあったりする。
 庭園、畑、温室、池、小径、丘……並べるだけできりがない。
 そして、森もある。
 城内にある東の森は、規模から考えると林のようなものだ。白樺の木が並び、夏は涼しい。が、春の今は少し肌寒い。
 宰相がそこへ行くと、獣の匂いがした気がした。が、そんなはずはない、と宰相はその感覚を打ち消す。ここには獣らしい獣はいないはずだ。
 白い木が並ぶ。宰相は歩きつつきょろきょろと見回して探していると、赤い布が目の中に入り、はっとして木の影に隠れた。後ろにいた老神官も隣の木に隠れる。
 赤い布。それは、確か、出て行く前に女王が身にまとっていた布。
 東の風習では、女性は外に出るとき、ベールをまとって髪や体を隠す。女王は少し派手めな布を好んでいた。
 本来女性の体を覆うベールは地味なものとされ、派手なものを身にまとうことは特に年配者から批判される。
 この城内で赤い布をまとう女性は、そんな批判的な意見を無視できる女王くらいのものだろう。
「今日はな、急に休みにしてもらったんだ」
 やはり、声も女王である。
 宰相はそおっと顔を出してのぞき見た。
 しかし、宰相のいる場所から遠すぎて、彼女の姿は木々に隠れてよく見えない。本当に赤い布しか見えない。
「宰相ががんばってくれたようだ。それなのに私が休みをもらうことになって、申し訳ないよ。今度あいつに何かしてやらなくちゃな。奮発して、私の秘蔵のワイン、一緒に飲もうと誘おうかな」
 宰相は胸がいっぱいになる。
 誘われたなら、もちろん考える間もなくうなずくだろう。
 女王のワインコレクションは、相当なものである。ただの酒好きというわけでなく彼女自身もワインに造詣があり、特別な客が来た場合、女王自らワインを選んで振る舞うこともある。
 秘蔵のワインがあるということは噂になっていた。女王は、めったなことでは飲まないとも言っていた。
 宰相としては、ワインを振る舞ってくれることよりも、女王が大事にしているそのワインを一緒に飲もうと誘ってくれたことが嬉しい。
 宰相は自分の努力がそんな形となったことに心がほかほかしていたら、
「ん? なんだ、宰相の話ばかりしてるから、妬いてるのか?」
 女王が誰かに対して楽しそうに笑った。
 宰相は固まった。笑い声が、耳の奥から離れない。
「お前を忘れているわけがないだろ? ほら、今日だってお前の機嫌を取りなすために、いつものをたくさん持ってきたんだぞ。ふふ……女王の私にここまで気を遣わせるなんて、お前くらいだ」
 何かを渡す……プレゼントを渡しているのか?
 宰相にはそんなことはない。ワインをの誘いに有頂天になるくらいだ。物品のやりとりは、まさに女王と宰相という立場上の受け渡しがほとんどだ。
 『いつもの』……つまり、何度も会っていて、そのたびに女王が何か贈り物をしていると考えるのが、自然だ。腹立たしすぎるが、その相手の機嫌を取るために。女王に機嫌を取らせるなんて、身の程知らずな。
 ……やっぱり、恋人、なのか……。
 そう思って沈みながら宰相は諦めきれず、首を伸ばす。が、やはり女王の赤い布しか見えない。彼女の向かいは木にはばまれ、相手もまったく見えない。
「嬉しいか。……いや、礼なんていい。……堅苦しいのはお前らしいが……」
 女王の声は聞こえてくるが、相手の声は聞こえなかった。声が小さいのか、遠すぎるのか。
 女王の声はしんみりとして、そしてつらさを含んでいた。
「……そうだな、私が王女のときは、もっと自由に気楽に一緒にいられたな。…………。仕方ない、時は立ち止まらない、死も戻らない、私も戻らない……戻れない」
 王女時代からの付き合いが、女王になってから変わったということだろうか。後半部分がよくわからない。
 とにかく言えることは、二人の付き合いがそれだけ長い――女王即位が六年前だから、それ以上ということになる。宰相は胸にぐるぐると渦巻くものをとどめるのに必死だった。
 間が、あった。相手が何かを話しているから黙ったのか、それとも何かを考え込んで黙ったのか、宰相にはわからない。
 小鳥が震えているようなささやきが、宰相の鼓膜を打った。
「でもお前は、私が死ぬまで、一緒にいてくれるだろう?」
 またも、沈黙。
「ああ、ありがとう」
 嬉しそうなその声を聞いたのが、宰相の限界だった。
 宰相は木の影から姿を現した。
 そして女王のいるであろう場所へ、駆けるような早さで歩いていく。
「なあ、ギュ――」
 女王は何か、おそらく名前を言いかけていたが、突然部下が現れたことに言葉が消えた。
 赤い女王は驚き目を丸くしている。
 しかし、その直後、彼女の顔が真剣にこわばった。
「だめだ! くるな!」
 そんな言葉で止まるわけがない。
 宰相は、名状しがたいきりきりとした思いにとらわれていた。
 切ない女王の声。あんな声、宰相は聞いたことがなかった。それにあの言葉――あれは、愛の告白ではないか。で、受け入れられた?
 女王に喉を振り絞った声で告白させる人物の顔を見なくては、場合によっては殴らなければ、気が済まない。
 女王は走り寄ってきた。赤いベールがはらりと舞う。そんなこと気にかけていないかのように、女王はただ一心に宰相の元へ疾走する。
 そして宰相の肩をつかむ。
「だめだ! 逃げろ!」
 何から、と宰相が問う前に、小さな地震のような震動が起こる。
 ずしん、ずしん、と震動が続く。リスや鳥や、白樺の森に生息する小動物が逃げる。
 それを引き起こしているものを目の当たりにしたとき、宰相の思考は真っ白になり、存在するのは、なぜ、という疑問だけだった。
 なぜ、こんなところに……。
 そこには女王の相手が、男が、いるはずだった。
 しかし、こんな森にいるはずでないものが前にいた。
 人間の天敵にして、最強の武器でもある生物。神聖にして邪悪なる世界の共存者。
 ――竜が、そこにいた。

 うろこは胴体だけでなく、足や顔や全てを覆っている。足先の三つの指から生える爪はどれも鋭利だ。大きな二つの翼は少しだけ広げられ、呼吸するように上下する。角は頭の上で鹿のように立派に直立し、とかげに似た瞳が宰相をとらえる。
 見下ろす青い理知的な瞳が、赤く、変わった。
 宰相の顔が青ざめる。
 赤い瞳――それは、竜が敵に遭遇して戦いのみに思考を支配したときの、人間を獲物として認識したときの、色。
 この色を見た人間は、生きては戻れない。その絶望の色。
 女王は宰相を後ろ手に庇う。
「だめだ! やめろ! 違う、こいつは敵じゃないんだ!」
 竜は鼻から荒い息を出した。後ろ足を立ち上がらせ、一歩前に出る。震動が宰相の足下まで伝わる。徐々に竜は足を速め、近づいてくる。
 竜が、地を揺らし走る。そして、大きな口をぐわっと開く。赤い口内に、黄ばんだ鋭い歯。
 宰相はこのとき、我に返った。
 頭にあるのはただ一念。
 守らなくては――宰相は女王に覆い被さるように、倒れる。
 竜の足が近くに見えた。
 痛みと死を覚悟し、強く目をつぶった。




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