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翼なき竜


 31. 未来の夢(6)


 温かい毛布の中にくるまっているような心地よい夢が、そこに存在していた。
「あっ、陛下じゃ! こんなところに!」
「宰相、何をしておるんじゃ! まさか陛下に無体なことを……! 見損なったぞ! ヘタレさ加減だけは長所だと思っておったのに!」
「そ、そそそそんなわけないでしょう! って、ヘタレって何ですか!」
 目覚めたとき、老臣たちとイーサーのばからしい言い争いの声が聞こえた。
 ぼんやりとした頭が覚醒してくる。
 この頬と身体に感じるやさしい温かさは何だろう。
 レイラはゆっくりと目を開ける。
 すぐ目の前にあるのは、誰かの大きな背中だった。驚いて身体を起こす。ずるっと、身体にかかっていたものが床に落ちた。光沢のある白い誰かの上着だ。
 その上着を、隣から伸びた手が取った。
「あ、陛下。起きてしまわれましたか」
 見ると、その大きくて広い背中の持ち主は、イーサーだった。
 どうやら寝ている間、その上着をかけてくれていたらしい。
「宰相のせいで、陛下がお起きになったではないか!」
「宰相のせいじゃ、宰相のせいじゃ」
「ちょっ、そういう責任転嫁は、あんまりでしょう!」
 また、老臣たちとイーサーの口論が始まる。
 レイラはまだ半分、夢の中にいた。木漏れ日の下で安らかに眠る自分。一緒に眠る竜のギャンダルディス。時間だからと王城に帰るよう呼びに来て、手を繋いで歩く宰相。春のやわらかな風。混じり合う花の香り。
 戦いも恐怖も悲しみも苦しみも悩みもない――未来の夢。こんな日々は、かつて過ごしたことはない。だが、そこに、夢の中に、存在していた。
 その余韻に浸りながら、レイラは生涯忘れないだろうと、確信していた。
 夢の内容も、そのやすらかな夢を見させてくれたイーサーの背のぬくもりも。
 ドウルリア国から王弟オレリアンがやってきた時、治世七年目の、一月のことだった。


 オレリアンがドウルリア国へ帰った後、レイラは国民へ顔を見せることがあった。
 と言っても、いつものようにこっそり城下に下りたのではない。
 年に一度の正月のことだが、王城の庭へ特別に国民を入れさせ、王が正殿のベランダから姿を見せるという行事だった。
 赤いマントに王冠、錫杖という形式ばった姿のレイラが手を振ると、蟻の大群のような人たちは一際大きな歓声を上げる。
「……何が嬉しいんだろうな」
 手を振り、笑顔を振りまきながら、すぐ斜め後ろにいるイーサーに話しかけた。
「陛下と直接お会いできること、見てくださることを喜んでいるのですよ」
「国王陛下という立場の存在にな。きっとここに私という人間がいなくて、王冠だけが置いてあっても、今と同じように彼らは熱狂的に声を上げるのだろうな」
 レイラの皮肉に、イーサーは苦笑した。
「そうとも限りませんよ?」
「そうか?」
「王という存在に敬意を払うのは当然です。でも、やはり王は王でも、それぞれの人間が違うのですから、人の対応も違うものです。書物で知ったところには、諸国漫遊をしている途中の傍若無人な王が、馬車の外から罵声を浴びせられ、野菜を投げられたという事例もあります」
 イーサーの言う例に、レイラは目を丸くした。
「ほう、そんな王もいたのか」
 想像するだに、威厳も何もない王だ。
「王によって、人の意見は変わるものですし、こうして集まる人の数も違うものです。野菜を投げられるとまではいかなくても、あまりにも人の集まらない参賀というのもあったようです。このようにたくさんの人が陛下の顔を見ようと集まるのは、王だからという理由だけでは片付けられない、レイラ女王陛下ゆえのことなのですよ」
 穏やかな表情でイーサーは続ける。
「ここにいる方々は、全て城下に住んでいるというわけではないでしょう。遠くから馬に乗って、もしくは歩いて来られた方もいるでしょう。陛下に一目会いたくて。それだけ慕われているのですよ」
 レイラは先ほどとは違う目で、眼下の人々を見た。
 ふと、子どもの頃の夢を思い出した。国民のための王になる、という一度捨て去った夢が。
「……国民のための王とは、どういう王だろうか」
 かつては思った。国民に喜んでもらえることをする王だ、と。
 レイラのつぶやきのような問いに、イーサーは宰相として真面目な顔つきで答えた。
「難しい問題ですが、安易に税を減らせばいい、ということではないでしょう。確かに国民が最も求めるのがそれですが、それが国のため、国民のためになるかというと、別です。戦争をして領地を得て、莫大な賠償金を得ればいいということでもないでしょう。逆に未来、それが元で大きな問題となる可能性が高いです」
「結局、具体的な答えは出ないんだな」
「その時々によって、変わる答えですからね。現時点に関しては、エル=ヴィッカの戦いの戦後処理でしょうか」
 レイラはうなずいた。引き起こしたのは自分だ。誰よりもその責任があった。
「ただ、国民を喜ばせよう、と思いながら政治を動かすのは危険です。どのように批難されようと、決めたことを貫き、責任を取ることが、国民のための王ではないでしょうか」
 私の一意見ですが、とイーサーは言葉を添えた。
 レイラはもう一度うなずいた。そして再び、ベランダから手を上げる。またもや歓声が上がった。
 王として、国民のためにできること、すべきこと――女王として即位して以来、どんな時よりも純粋な気持ちで、レイラはそれを考え始めた。


 それから時が過ぎ、二月になったある夜。
 レイラは後宮の自室から抜けだし、ギャンダルディスのいる竜の丘にいた。白い息を吐き、毛皮のマントに身を包み、手をさすりながら、寒さに耐えていた。雪原に残されたレイラの足跡が、新たに降る雪により、消えていく。
 レイラは竜の大きな身体に触れて温かさを得ようとしながら、隣にいる子どもの幻影に訊く。
「なあ、まだか?」
 寒さのあまり、声が震えた。
 ギャンダルディスの幻影は、空を見上げる。そして小さな子どもの手で、指差した。
「来たよ」
 一体どこに――そう思いながら、ギャンダルディスの指差す空を見れば、そこには手を振っている男がいた。空中に。
 ぎょっとして声も出ず見上げていると、男は空中を歩いて、近づいてくる。そして、まるで透明な階段でも存在するかのように下ってきて、男はレイラの前に降り立った。
 男は、ギャンダルディスの幻影をそのまま成長させたかのような青年だった。ゆったりとして腰紐で結わえるその服装も、足下よりも長い黒髪も。
『初めまして、人間の王よ。わたしはシルベストル、竜族の王だ』
 ギャンダルディスと同じく、高い、音とは思えぬ声を出す。
 レイラも緊張しながら、言った。
「初めまして。竜の王よ。私はレイラ。ブレンハールの女王。残念ながら、人間の王ではない」
 ふっと笑ったかと思うと、その男は視線を下げ、ギャンダルディスに目を向ける。
『久しぶりだ、ギャンダルディス。こんなに早くに再会するとは思わなかった。前に会ったのは、ひとつき前だろう?』
『……レイラがあんたと会って、話がしたいんだって』
 ギャンダルディスはむすっとした声を出す。
 嫌だったのかな、とレイラは思った。
 レイラは考えをまとめると、ギャンダルディスに頼んだのだ。竜族の王に会いたい、会う方法はないか、と。
 ギャンダルディスは、時間をちょうだい、と言った。そして今晩、竜族の王との会談が始まった。
 シルベストルは、苦笑する。
『ギャンダルディス。親子の再会だというのに、いつもそうだな、お前は』
「えっ、親子……?」
 レイラはギャンダルディスとシルベストルを見比べる。似てはいたが、竜族はみなそういうものだと思っていた。ベランジェールも、髪の色が違うくらいであったし。
『そう、この子は私の末の子なんだ。まあ、成年の儀は迎えたから、あまり会うことはなくなったけど』
 シルベストルはギャンダルディスの頭を撫でる。やめろよ父さんとでも言いたげに不機嫌そうに、ギャンダルディスは振りはらった。
 竜族の長とはどんな存在だろうかと緊張していたが、気さくそうだとほっとした。
「……竜族の王よ。よくぞ来てくれました。酒を用意しましたが……」
 レイラは大木の洞に置いておいたワインを取り出したが、シルベストルは手を前に出して、残念そうに首を振った。
『これは幻影なのでね。食べるとか飲むといったことはできないのだよ。それより、私を呼んだ理由は?』
 レイラはごくりと唾を飲み込み、言った。
「……竜族と我が王家の間で取り交わした契約の、破棄です」
 ほう、と言ったシルベストルは、厳しい顔つきに変わった。青い瞳の瞳孔が、猫のようにきゅっと絞られた。
 冷たい風が吹く。髪の毛まで凍りそうだ。シルベストルの長い髪が、その風にさらわれた。長く黒い髪が扇子のように広がり流れる様は、ふいにたれ込める暗雲のようだった。
『……数百年前にアルマンと私が交わした契約は、竜族と人間との和平の印だ。休戦協定も同じだ。……それを、破棄すると?』
 何百年も前の、歴史上の王、アルマン。その名が自然に出てくることで、これは人間ではないのだと、深く感じた。
「……私が、じきに食べられることは、知っているはずだ」
 竜族内で話し合い、決めたというのなら。この竜族の王が知らないはずがない。
 すんなりとシルベストルはうなずく。
「私が死ねば、どうなる? 残る直系は叔父のギョームのみ。あいつに子どもを残させる気はない。……そうなれば、直系は途絶える。王家直系よりも竜の血の濃い人間はいないはずだ。『泰平を築く覇者』は、これ以後存在しなくなる」
『……それが、どうしたと?』
「竜族と対話し、契約を変更する機会がなくなるということだ」
 ふむ、とシルベストルは考え込む。
『……王が子をなせば、血は繋がるのではないか?』
 未婚の女によくも簡単に言ってくれるものだ。何と答えようか迷う間に、シルベストルは続ける。
『人間の約半分は男ではなかったか? 最近の人間の男は、種を残す能力が減退したのか? それでも男をいろいろ試して数打てば当たるのではないか?』
「…………」
 たとえ本体は竜とはいえ、青年がいけしゃあしゃあと女の前で言うせりふじゃない。
 レイラの代わりに、ギャンダルディスがシルベストルの腹を殴った。『痛いぞ何だ?』と言って首をかしげているシルベストルは、違う種族だけあって、今のせりふの何が悪いのかよくわからないらしい。
 レイラは少し顔を赤くしながら、こほん、と咳払いをする。
「竜族の王よ。私は子を産めない……わかるだろう?」
『あ……そうだったな。人間の子が産まれるまで十月十日……無理だな』
 無理、という言葉は、レイラがそれまで生きられない、ということを指している。
 竜族の長だけあって、シルベストルも、レイラの翼の残りがわかっているだろう。
 じくりと胸が痛んだが、レイラはさも納得しているふうにうなずく。
「そうだ。直系王族の血は残らない。次に王位に就くのは、アルマン王の弟の家系・ゴセック家の者だ。竜の血は弱い。竜と対話できる人間がいなくなる以上、契約の変更も破棄も、私の死後できなくなる」
『そうだな。それで、破棄をすると? 何故? 不都合があったか?』
 不都合などどこにもなかった。竜の力を借り、戦力は他国を軽くしのぐ。そのためにブレンハールはこの数百年、繁栄した。傘下に下った国から貢ぎ物をもたらされ、敵対する国は滅ぼし領地にする。その繰り返しだ。
「不都合はない。でも、このままではいけない。このままでは、国民は歪んでしまう」
『歪む?』
「絶大な力によって、ブレンハールが神の国だとでも思い上がり、いずれ他国へ侵略する。そういう流れにならざるを得ない。そして竜の力で、いくつもの国を滅ぼす」
『それの何が悪いと?』
 レイラは白い息を吐く。
 それを喜ぶ王もいた。父もそうだった。国が栄える。国が勝つ。国民は喜ぶ。それでいいではないか。これがいつまでも続けばいい、と。
 悪い、良い、という問題ではない。
「私が、そんな国は嫌なんだ」
 聞いたシルベストルは、失笑した。
『甘い。竜の力なくして、この国の栄耀栄華が続くと思っているのか?』
「竜の力に頼ろうが、頼るまいが、そんなものは永遠に続くものではない。契約の変更ができなくなる時点で、少なくとも契約は終わりを迎えなければならないんだ」
 始まりがあれば、終わりも存在する。多分、今がそうなのだろう。
「敵対したいと言うわけじゃない。私たちは数百年のうち、相互理解を深めたはずだ。戦争に協力しなくとも、もう共生は可能だと思うが?」
『……なるほど。私たちに異存はない。これ以上、人間同士のくだらない戦争に巻き込まれずに済む。しかし』
 シルベストルが、どこか残念そうに微笑んだ。
『人間と話せなくなるというのは、さびしいことだ。君たちは興味深かったから』
 デュ=コロワのことが思い起こされた。竜好きの彼は、ことあるごとに、レイラがうらやましいと言っていた。竜と自然にふれあうことができる、と。
 レイラにとって自然なことでも、多くの人にとっては不自然なこと。もし、『泰平を築く覇者』でなかったなら、どうなっていただろう。ギャンダルディスをただの竜だと思い、あえて近づかなかったかもしれない。この竜から知識を得ることはなく、なぐさめられることもない。そして、もうすぐ翼を失って死ぬことはないだろう。
 物事には表裏あり、レイラにとって『泰平を築く覇者』であることは、良かったとも悪かったとも言えないことだ。女王への即位に関しても同じだ。
 竜族との契約も、表裏がある。こうしてレイラの一存で決めたことは、ある方面では喜ばれ、ある方面では憎まれるだろう。デュ=コロワは悲しむかもしれない。
 それでも、幕を引けるのは、もうすぐ死ぬ自分だけだった。幕の閉じない舞台など、無様なだけだ。竜に食われて死ぬ王を最後に、竜との繋がりが途絶える――それは何かの符号が合うような気がした。
『ならば、ブレンハールの直系王族の血筋が途絶えたとき、契約を解除しよう。いいかい?』
 つまり、レイラと叔父のギョームが死に絶えたとき、ということか。死ぬまでギャンダルディスとは話せることに、レイラはほっとした。
「それでいい」
『これで話は終わりだね。では』
 シルベストルは背を向け、空へ向かって階段を上るように歩き出そうとした。
 あ、と言って、彼は空中で振り返る。
『実は拍子抜けしてね。ブレンハールの女王が話したいことがあるとギャンダルディスに聞いたとき、命乞いをしてくるものだと思ったから。……どうしてしなかった?』
 シルベストルの瞳は青く優しい色をしていたが、いくばかりかの強い疑問が見えた。
「……命乞いをしたら翻る程度の、易い決定だったのか?」
 目を細めて見やると、シルベストルは、いいや、と答えた。胸が締め付けられるような気持ちがしたものの、レイラは表情を変えることはなかった。
 レイラの心情に一番あるのは、諦念の観であった。七年。七年も死を前におびえた結果、もはやどうにもなるものではないとの諦めの気持ちが溶けない雪の上に降り積もっていった。
「さらばだ、ブレンハールの女王。その二つ名のごとく、泰平を築くことを願う」
 レイラは苦笑した。泰平を築くのは自分ではない。これからの生きる人々だ。生きる者だけが、何かを変えることができるのだから。
 空を歩いていくシルベストルを見上げながら、レイラは白い息を吐く。
 寒かった。身体も、心も。
 レイラは大木の洞に隠していたワインとコップを取り出した。栓抜きもちゃんと持ってきていて、それを回して開けると、コップに注いだ。
 ちらりと隣に横たわっている竜の姿を見る。幻影ならば飲めないが、実体ならば飲めるだろう。
「ギャンダルディス、口を開けて」
 素直に竜は口を開いた。そこに、どぼどぼと残りのワインを注ぎ込む。人間にしたら大量でも、竜にとっては少なすぎる量だろう。それでもギャンダルディスはうっとりとした表情を浮かべ、瞳を閉じた。
 レイラはその顔を見ながら、コップに口をつける。身体が温まるように。
 雪はやむ様子はない。降り積もり、降り積もり、重なっていく。人間の歴史とは、雪のようなのかもしれない。新たな雪が重なって新雪をさらすものの、底にある雪は溶けて消えていく。記憶から消えていく。
 人間ひとりについて考えれば、たとえるべきは雪ではなく、葉なのかもしれない。枝に繋がり生きていた葉が、来るべきときに落ちて死ぬ。踏みつけられぼろぼろになる葉は無様かもしれないが、それでも、意味はあるのだろう。踏みつけられる意味、朽ちる意味が。
 ワインを飲み干すと、レイラはギャンダルディスの竜の頭を撫でた。
「ねえギャンダルディス。私を食べた後はね、すぐに逃げるんだよ」
『レイラ……!』
 大国ブレンハールの女王という存在を殺された国は、ギャンダルディスを許さないだろう。遠く、安住の地まで逃げてくれればいい。
『どうしてレイラはそうなの!? もっと生きたいとか、弱音とか、言ってよ!』
 それが叶うはずがないのに?
 レイラは父が死んだとき、知ったのだ。父から『殺せ』と言われ、それはとても辛かった。でもきっと、死ぬしかない人間が『生きたい』と言うことも、誰かを傷つけるのだ。生死を願う言葉は誰かを傷つける。それならば、この身に秘して、沈黙を守ろう。
『生きて、何かをしたいとか、ないの!?』
 レイラは答えず、ギャンダルディスの頭を撫で続ける。親だと思っていた竜は、時折子どもに見える。
 ごめん、とレイラはつぶやいた。


 次の日の朝、レイラは小さくくしゃみをした。
「風邪ですか!? 陛下!」
 慌てて大騒動にしそうなイーサーに、大丈夫だから、とレイラはなだめた。
 夜中に雪の降る外に居続けたのだから、ちょっと身体をこわしたのかもしれない。もともと、悪夢を見るからといって毎晩酒を飲むし、あまり寝ないし、不摂生な生活を送っている。もしかしたら食われて死ぬ前に病気で死ぬかもしれないと、自嘲気味に思った。
 朝の王城は、絢爛なる庭も建物も彫像も木々も、雪に染まっている。碧空の下、雪が真珠のように輝いている。ごてごてしい普段の風景より、美しく見えるほどだ。
 レイラとイーサーが歩いている正殿と特別謁見室をつなぐ渡り廊下は、屋根はあるものの、側部は壁がない。冷たい風が身にしみる。
 イーサーは上着を脱いで、レイラの肩にかけた。
「これじゃ、お前が寒いだろう」
「いいです。陛下に風邪を引かれるよりも」
 寒々しいイーサーの姿を見て、レイラは、大丈夫だからいらないよ、と返そうとする。イーサーは、いいですから、と押し戻そうとする。そんなすったもんだをしている間に、レイラの頭にかけていた黒いベールが風に飛んだ。
 あ、という間のことだった。
 ベールはひらひらと蝶のように舞い、雪に埋もれた庭に落ちた。
「取ってきますよ」
 そう言って、誰の足跡もない雪原に、イーサーは足を踏み入れた。
 ず、ず、と足を雪に沈めながら、しかし軽やかに見える動きで、雪の上にさらされているベールに近づいていく。
 雪も、イーサーも、朝の光にきらきらとしていた。
 ベールを手に取り、雪を払うと、イーサーが戻ってくる。雪を落としたものの、濡れてしまっている。
「これは頭にかけない方がいいですね。陛下の風邪が悪くなりそうです」
 別のものを取ってこさせようと手配するイーサーを見ながら、昨晩のギャンダルディスの言葉を思い出した。
『生きて、何かをしたいとか、ないの!?』
 もし、もし、それを願えるなら。
 肩にかかったイーサーの上着の裾を、きゅっとつかんだ。
 空が青かった。寒くて冷たい日だけれど、もうすぐ芽吹きの春がやってくる。
 春を見るのは、それが最後となるだろう。


   *   *   *


 レイラはしばらく閉じていたまぶたを上げた。
 めまぐるしい昔を思い出していた。
 そこは、特別謁見室の、玉座だった。ここの部屋の常として、隣に宰相のイーサーと、竜のギャンダルディスがいる。大抵の者が相手のときは、レイラはギャンダルディスの頭を撫でながら、応じていた。
 しかし今。女王として即位してから七年目の夏。レミーという黒髪の子どもと初対面を果たす場において、レイラは竜を撫でてくつろぐことなく、気を張って見下ろしていた。
 リリトの息子が生きて、『女王の子』だと公言していることは驚きだった。七年前にいなくなってしまってからどうなったのか、想像もつかなかった。
 とりあえず、自分の子として認めると決めたが、それは間違いだったかもしれないと、レイラは冷ややかな視線で見下ろす。
 黒髪の小さなレミーの後ろに、老人がいる。ひげと髪で隠れているが、顔に見覚えがある。ナタンだ。グレゴワールの父親で、現在行方不明だったはずだ。監禁されていた間、二度ほど見た。
 彼がここにいるのを見て、全てのからくりが解けた気がした。
 いなくなったレミーを育てたという老人がナタンだというと、善意からであるはずがない。いなくなったというのも、十中八九ナタンが関与している。そして、何かに利用するために決まっている。レミーを『女王の子』だと公言させたのは、おそらくナタンによってだ。こうして謁見させるため? そして、かつてナタンと繋がりの強かったギョームも、一枚噛んでいるはずだ。ギョームの狙いは、玉座。
 レイラは、何となくわかった。
 事件の全容だけでなく、自分がここで死ぬのだということも。
 ナタンが殺そうとしてくることもわかっている。彼の剣に倒れるつもりはない。しかし、立ち向かい、逆に殺したところで、頬にある残りの翼が消え、ギャンダルディスに食べられてしまう。
 レイラはめまぐるしい今までのことを思い出していた。死ぬ前に、人は昔の記憶を振り返るというが、これがそうなのだろう。
 レミーは赤いじゅうたんの上を歩くのを止め、おぼつかない礼をした。
「あ、あの、ぼくは……」
 緊張しきった声を出すレミー。最後に会ったときは、産声を上げて泣きじゃくって、言葉も話せなかったというのに。
 でも当然か。
 もう、七年経った。
 七年……。この子は生きてきた。そして、自分も生きてきた。
 死ぬとわかって暴れ、すがり、諦めながら、七年、生きてきた。
 監禁された最後の日、リリトがベランジェールに食われているのを助けようとしたことを、レイラは悔やんだことがあった。そうしなければ、翼を失うことがなかった、寿命が限られることはなかった、と。
 だけど、緊張しつつ期待して顔を上げているレミーを見て、あのときの選択は正しかったのだと、レイラは思えた。あのときあの選択をしたことで、この子は生きて、こうしてこの場に来てくれたのだから。
 そして自分の生きてきた七年も、無駄ではなかっただろう。
 女王として至らないところだらけだっただろうけれど、がんばってきた、楽しいこともあった、イーサーと出会えた。これまでの人生で大きな宝を得られた。
 今日の朝日は美しかった。今日の夕日はどうだろうか。
「その……これを、見てください」
 レミーは何かを取り出した。小さくて詳しくは見えないが、七年前赤ん坊の手に持たせたシールリングと、マガリの刺繍した絹だろうか。
 近づかなくては見えない。近づけばナタンの刃が降りかかるとわかっていても、レイラは腰を上げた。
 階段へ足を踏み出す。イーサーが後ろをついてこようとした。
 階下には襲ってくるだろうナタンがいる。彼が危険だと思って、手で制した。
「ここで待っていてくれ」
 しばらく考えたイーサーは首を縦に振る。ほっとした。
 最期になるとわかっていたから、じっくりと彼の顔を見ていたかったけれど、レイラは顔を真正面に向けた。きっと今、自分の顔には死相が見えているはずだから。
 最期だから、彼に何かを言いたかった。今までありがとうとか、ずっと愛していた、とか。でも彼が心残りを作りそうだったから、やめた。
 忘れてもいい。今自分が死んでも、立ち直り、変わらずにあかるい場所で生きていてほしい。
 ただ進め。ただ前を向け。
 心の中でつぶやき、レイラはゆっくりと足を進める。階段を降りるとき、靴音が響いた。
 カツン。
『生きて、何かをしたいとか、ないの!?』
 もし、それを願えるなら。
 カツン。
 もし奇跡が起こり、ここを切り抜け明日も生きられるなら。
 カツン。
 ふ、と強く目を閉じた。

 ――夢が見たい。
 不安も恐怖も苦しみも痛みも嫌悪も悲しみもない、未来の夢が見たい。
 かつて一度イーサーの背で見た美しく平穏で死の恐怖もない幸せな夢を、現実に、もう一度見たい。

 一瞬の後、目を開けたレイラは最後の階段を降り立った。目を瞑って思い描いた夢は目の前にはなく、死が見える王道しかレイラの前には敷かれていなかった。
 自嘲気味に笑むと、レイラは大剣をすぐにでも抜けるように気を張りながら、歩き始めた。




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