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翼なき竜
30. 未来の夢(5)
財務顧問であったイーサー=イルヤスは、宰相として就任した。
その若さ、あまりに急な昇進に、反対がなかったというわけではない。しかし、皮肉なことに王の決めたことは絶対という習慣は、そこにも生きていた。レイラの決定に、表だって批難する人間はいなかった。
そして、その後は、彼自身の功績により、その反対論は消えていくことになる。
レイラは王として『個人的』というものを持ち込むつもりはない。当時の国内外の状況や重要とすべき課題を考えた上で、彼を就任させた。
イーサーはグレゴワールではない。だが、完全にそう思えることはなく、時折、彼の顔を見て硬直しかかる。それを気力でねじ伏せ、普通に会話し、軽口をたたけるほどにはなった。
同時に悪夢も増加した。過去の夢だ。付き従う女官によると、ほぼ毎日、うなされているらしい。
過去が再び迫ってくる。それは同時に、近い将来の死をも心に刻みつける。
イーサーと出会ってから、何度となく考えるようになった。過去、他に選択肢はなかったのか、と。リリトと一緒に自由になる方法は本当になかったのか、と。そして……竜族の法を破らず生き続ける方法を選んでいたら、今、どうなっていただろうか、とも。
愛竜のギャンダルディスの言葉がよみがえる。『片一方しか助けられないなら――どちらも見殺しにすることを、公平と言うんだよ』――あの時は激怒したが、今、ますます死が近づくにつれ、それを深く考える。罰を受け死のうとしている自分にとって、もしかしたらそれは正しかったのかもしれないと、考える。だって、確かにその公平さに従っていたら、片翼を失うことはなかったのだから。
イーサーの存在が、天啓のように思えた。過去を忘れるな、という。
過去と未来が近づき、挟み込もうとしている。
イーサーの就任直後、デュ=コロワとブッフェンがやってくると聞いたとき、レイラは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
何を話に来たのか、わかったからだ。
その日、レイラはイーサーをとある会合に出席させ、城から遠ざけた。デュ=コロワに一度会ったことのある彼は、お会いできなくて残念です、と言いながら、城を出て行った。
陰鬱とした雰囲気にはおあつらえ向きの曇り空だった。
やって来たデュ=コロワとブッフェンを、普通の部屋には通さず、人に話の聞かれない場所に案内した。
レイラはソファに腰掛ける。デュ=コロワはその前に座る。ブッフェンは窓際に立っている。
「陛下。イーサー=イルヤスを宰相として就任させたというのは、本当ですか?」
デュ=コロワが冷たい声で切り出した。
さあ来たぞ、とレイラは腹に力を入れる。
「そうだ」
「本気ですか?」
デュ=コロワは細い目をさらに細める。
「グレゴワールに似たあの男を?」
「……能力で評価し、決めた。顔は関係ない」
「……宰相は知らないのですね?」
デュ=コロワのその言葉は、憐れみを含んでいるように聞こえた。
「陛下が伝えたくないというなら、私が伝えます」
デュ=コロワは立ち上がりかける。
「そんなことは望んでいない! 言う必要はない!」
デュ=コロワはじっと見下ろしている。憐れんでいる。
「言うな! 絶対言うな!」
「……何故陛下は、自分で自分の首を絞めるようなことを言うのですか」
全てを理解しているような目を向けられる。レイラはそれが嫌だ。憐れみは嘲りに近いと感じてしまう。
自分の悩みも、苦しみも、知られたくなんてない。憐れまれたところで、救われないのだから。
デュ=コロワは憐れむようになった。そんな変化はいらない。あのイーサーにも、そんな目で見られたくない。
戦闘本能が強いことも、監禁のことも、死ぬことも、知られないからこそ、軽く笑いあうことができる。知られたくないのだ。弱くて情けなくて恥ずかしいところなんて、知ってほしくない。彼は知ったとしたら、何かをせずにはいられない人間だ。でも、何をしたところで、どうしようもないことばかりだ。
「絶対言うな! 王としての命令だ! もしひとことでも言ったなら、一族郎党根絶やしにしてやる!」
右の頬が熱さを帯びる。
デュ=コロワは目を伏せる。
「……わかりました」
レイラはほっとしながら、窓際にいるブッフェンに目を向けた。ブッフェンは、窓に顔を向けたまま、初めて声を出す。
「……ずっと黙っていることに耐えられるんですね?」
「ああ」
「その宰相閣下が何を言おうが、どんな顔をしようが、我慢できるんですね?」
「ああ」
「なら、わたしも話ゃしませんよ」
ブッフェンは軽く肩をすくめる。重苦しい雰囲気を払拭するように。
デュ=コロワは立ち上がり、
「それでは私は帰らせていただきます」
と言う。レイラがかける言葉に悩む間に、彼は足早に去った。
「小雨が降り出しているんだから、待てばいいのに。わたしゃ少しここで待ってもかまいやしませんよね?」
ブッフェンはそのまま窓際で、外を見続ける。レイラはうなずいた。
監禁事件後、デュ=コロワが憐れみ始めたのと打って変わり、ブッフェンは何も変わりはしなかった。レイラが玉座に就いたことから言葉遣いは変わったものの、軽さは変わることはない。逆にそうなると、内心彼はどう思っているのかと疑ってしまうほどだ。
雨の音は聞こえない。ソファに座ったまま窓から外を見ようとしても、雨は見えなかった。それだけ小粒で、小降りだということだろう。
「……宰相閣下にゃ会ったことがないが、どういう奴で?」
「いい男だよ」
ブッフェンは吹き出す。
「わたしゃ世界で一番いい男と自負してますがね、は、女王陛下にそう言われる色男たぁ、見てみたいものですねえ」
「そういう意味じゃないよ。中身が……優しくて、きれいなんだ」
イーサーのことを思うと、心が落ち着く。
彼は自分を傷つけない。温かくて、まっすぐで、見ているとほのぼのする。裏切りを心配する必要のない人間が、どれだけ大切か。
「ふうん。それはいいことだ。ところで……女王陛下はアンリの経歴は覚えてますかね?」
デュ=コロワの経歴……?
「あいつぁ、お家騒動を経て、若くして貴族の当主となった。人間嫌いだ。特に家族が死のうと構わないと思っているだろうよ。だから、『一族郎党根絶やしにする』なんて脅しは、無意味なんだよ」
「え……?」
だって、そう脅した直後、デュ=コロワは『わかりました』と言った。
「なら、なんで……」
ブッフェンはほろ苦い笑みを浮かべる。
「昔のよしみ、さ」
レイラは言葉が出なかった。
「雨が止んだようだ。じゃあ、またな」
ブッフェンは軽く手を上げ、部屋を出た。
そのとき、レイラは知った。デュ=コロワが変わったとか、ブッフェンが変わってないとか、それよりも。
自分が、変わってしまっていたのだと。昔なじみを脅してしまえるような汚い人間になってしまったのだと。
騎士団にいた頃の、あの陽光の下にいた自分は、遠く、遠くなってしまっていた。
――それでも、昔なじみを脅してでも、イーサーに真実を知ってほしくなかった。きっと彼は、苦しむから。
* * *
それからたくさんのことがあった。
宰相となったイーサーを深く知り、恋人関係というやつになった。
良いことばかりではない。
支配欲、戦闘本能に負け、戦争が起こった。
それにより、残りの片翼の力は、ほとんど失われた。もう死は間近になった。混乱と恐怖に陥っていたレイラに、ギャンダルディスが言った。『王を辞めなよ』と。
それを受け入れ、辞めようとしたレイラに、宰相であるイーサーと父・エミリアンが止めようとした。
エミリアンは、自身の命を使ってでも、レイラを止めようとした。
死を前にした父の姿に、道はないのだと悟った。レイラの前には、王の道しか存在しない。
レイラの心に焼き付くように残った、父の、死。
……今まで、どうして死ななければならないんだ、と思ってきた。
だけど父を殺した今、自分は食われて死んで当然なんだ、とすんなり思えた。
これは罰だ。
戦争を起こし、たくさん殺した。
父を殺した。
その罰だ。
悲しむ権利も、嘆く権利も、苦しむ権利も、悩む権利も、死にたくないと思う権利も、存在しないんだ。
これだけのことをしたのだ。きっと地獄に堕ちるだろう。
だけど、父の死んですぐ、教会にいたレイラを、イーサーは肩を抱いて慰めてくれた。
「これで、よかったんですよ」
と。
彼の考え方から、こんなことは受け入れられないはずなのに。
抱きしめてくれた。生きるものの温かさを、教えてくれた。
涙が、こぼれそうになった。
イーサーが心から必要だと思った。心から、すがりつきたいと思った。
短い残り時間、一緒にいてほしい。彼の温かさの中で、まどろんでいたい。
それは……許されない……のだろうか。