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翼なき竜
32. 春夢の丘
鼻先を蝶がくすぐって、ギャンダルディスは目覚めた。
だけどうっすら目を開けた程度で、頭がはっきりしない。ちらちらと、黄と黒の蝶が寄り道をしながら旋回している。
竜の丘の、お気に入りの大木の下で、いつものとおり木陰にいた。芝生にはつくしやタンポポが生え、春の彩りを添えている。
春……?
今は春だっけ……?
頭がはっきりしないギャンダルディスは、深く物事を考えられない。こんなことを疑問に思うこと自体が、寝ぼけている証拠かもしれない。
大体今はいつだっけ。
竜の丘に出るようになったのは、レイラが女王になって数年が経ってからだった。ああそうだった。そこらへんは覚えている。宰相が尽力してくれたんだよ、とレイラが言いながら喜んでくれた。もちろん、ギャンダルディスも喜んだ。狭い厩舎に入れられっぱなしというのは、たとえ人型の幻影を出せて外のことを知れるとはいえ、やっぱり嫌だ。こうやって広い場所で、思う存分日の光と風を浴びて、幸せと自由を実感できる。
だから、それ以後、ってことだ。
……? それ以後って何だ、当たり前じゃないか。なんだか頭がおかしい。理論的に頭が働かない。本当に寝ぼけている。
いや、それとも、ここは夢の中なのかもしれない。
ぼんやりしたギャンダルディスは、腹のあたりに、あたたかいものを感じた。
竜の腹は、硬い鱗で覆われている大部分とは違い、白い肌を見せている。
そこを枕代わりにして、レイラが眠っていた。
ふふ、と彼女が笑った。長い栗皮色の彼女の髪が、淡い水色の薄いベールからこぼれ、腰のあたりでうねっている。彼女の髪は、こんなに長かったっけ。……でも長くなっていた気もする。
「夢だね」
レイラはささやいた。
「美しく幸せな夢……。ねえ、春だ。春だよ……蝶が舞って、たんぽぽの花が咲く丘の、木漏れ日の下、眠っている……。幸せだね」
レイラのまぶたは半分下りていて、ギャンダルディスと同じく眠りの世界と現実の世界の狭間にいるようだった。
いや、それとも、これは本当に夢なのかもしれない。
ギャンダルディスの夢ではなく、レイラの。
でもこの光の熱さと日陰の涼しさ、蝶のくすぐる感覚、レイラの触れている熱や感触、タンポポやつくしや草の匂いが、偽物だというのだろうか。とても信じられない。
レイラは向日葵のようにあかるく微笑んで、いつになく幸せそうだ。いつになく? いつも彼女は幸せそうじゃないか。そうだ、いつものように幸せそうなんだ。……あれ、おかしくないか? ……いや、おかしくない、うん。
わからなくなってきて、ギャンダルディスは再びまぶたを落とそうとした。夢でも現実でもいい。レイラが幸せなら。深く考えるより、ただ眠かった。竜は大抵いつも眠いのだ。
「もうお時間ですよー」
優しく呼びかける男の声が聞こえた。
レイラは身体を起こした。自然に、彼女の長い髪がギャンダルディスの腹をかすめて、くすぐったかった。
「もう時間か。すぐ行く!」
レイラはその視線の先の人物に満面の笑みで応じ、立ち上がる。はらりと、ハーレムパンツに付いていた草が落ちた。
「じゃあ行ってくるよ、ギャンダルディス」
彼女はそうやって簡単に挨拶する。
『……うん』
特に言うことはない。だって明日も会える。いつだって、いつまでも。
丘の下から、ステッキを突きながら宰相が登ってくる。彼はレイラに笑顔を向けて、続けてギャンダルディスにどこか真面目な顔を向けて小さく頭を下げた。青銀の髪が、さらりと落ちる。
それを見た瞬間、ギャンダルディスの頭にすっと冷たい水が走ったかのように、寒気立つ現実が呼び戻される。
そうだ、彼に伝えた。レイラがもうすぐ死ぬことを。それは絶望的な決まり事で、竜族を全て滅しない限り、もしくは王道楽土を築かない限り、逃れられないということを。
それから……どうしたんだっけ。ああ、頭が回らない。はっきりとしてきたはずの頭が、再び眠りの世界にとけ込んでいく。眠い、眠いんだ。
でも、こうしてここに竜である自分がいるということは、彼は竜族を全て殺せていないんだ。
まあ無理だとわかっていた。王であるレイラが竜族との全面戦争なんて認めないとも。わかっていたんだ……わかってたんだよ、レイラが死ぬことは。もう彼女が春も見れないことは。
レイラを殺しても、逃げるつもりなんてない。娘のように思っていた人間を手にかけ、逃げて生き続ける気なんてなかった。
あれ。でも。
ギャンダルディスは眠くて落ちかかるまぶたを強く押し上げる。
レイラが笑って、宰相の横にいる。レイラがいる。生きている。
そして今は、春だった。蝶が飛び、つくしが生え、大樹は薄い緑の葉が芽吹き、穏やかな風が吹き、レイラと共に眠る春。春になったのだ。そしてレイラは、娘とも思っていた人は、笑って、彼のもとにいる。
竜の耳は、遠くの音も聴くことができる。
王城の外、城下から、祭りの鈴の音が、しゃらんしゃらん、と耳に届いた。
――平和で幸せなブレンハール
女王さまの治めるブレンハール
どこよりも豊かな自慢の国
なんと幸せな泰平の国
いつまでも いつまでも――
ギャンダルディスは祭りの歌を聴きながら、レイラが小さい頃のことを思い出した。『泰平を築く覇者』であるレイラに智恵を授ける過程で、童謡も語って聞かせた。現実にはあり得ない、めでたしめでたしと続く幸せの物語――
夢でも現実でもいい。レイラが幸せなら、それを現実だと信じよう。宰相が泰平を築いたのだと、この夢と現実の狭間だけでも信じよう。だけど願う。もう一度眠り、そして目を覚ましたとき、同じ幸せの春の夢が丘の上に続くことを。
頭を下げてもこちらを見ている宰相に応えるために、うなずく代わりにギャンダルディスはゆっくりまばたきをする。
レイラは彼と少し言葉を交わして、二人で並んで下っていく。二人は手を繋いで、青空の下をゆっくりと歩く。
ギャンダルディスは黄と黒の蝶に視界を遮られながら、青い目で彼らを見ていた。
――女王さまと宰相さま
二人の御代は末永く――
歌はいつまでも、楽しげな城下の人々に唱和される。祭りを楽しむ多くの人の笑い声も聞こえてくる。
背を預ける大樹の若々しい葉が、ふいに吹いた強い風により、枝から離れた。
その葉は落ちることなく、どこまでも爽やかな風に乗って、いつまでもいつまでも飛んでいくのだった。
END.
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