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翼なき竜
25. 宰相と葉(2)
「死後、ってどういうことだ?」
ブッフェンが目を細めて女王を見やる。
宰相は驚いてまばたきすらできないというのに、二人とも冷静な顔でいた。
女王は目の前の、竜が竜を食べる絵に触れる。食べられている子竜の部分を撫でる。
「この絵……どうしてこの子竜が食べられていると思う?」
「知らねえよ」
ブッフェンは荒っぽく吐く。
「多分、この子どもの竜は翼を持って生まれなかったんだ。だから食べられている」
その説明だけでは宰相にはわからない。
それはブッフェンも同じだったようで、彼は首をかしげた。
女王は淡々と解説する。
「……竜は本来どう猛だ。しかし、翼に宿る理性でもって抑えている。その翼がなければ、人間どころか竜族にも襲いかかりかねない。だから翼なき竜というのは、竜族によって粛正――食べられるんだ」
女王はブッフェンに振り向き、片翼の竜のあざを見せた。
「私は竜に食われる。もうすぐ翼を完全に失うから」
沈黙があった。ブッフェンはがりがりと頭を掻いて、靴音を響かせ歩く。
「待て。翼を失うってどういうことだ。そのあざのことか?」
「そうだ」
「元々レイラのあざにゃ両翼があったよな? アンリは、一つは精神的なショックで失ったとか推理してたが、残った一つも失うのか?」
女王は薄く笑んだ。
「精神的なショックじゃないよ。竜の翼は強靱だ。私のあざの翼もね。私がそもそも片翼を失ったのは、罰だからだ。七年前の……」
七年前……。
あの全てが明らかになった監禁事件のことが、宰相の知らない影響を残していたというのか。まだ、何かあるのか。
「あんとき何をしたってんだ」
同じ事を疑問に思ったブッフェンが問う。
女王は目をつむり、ふう、と息を出す。
前に七年前のことを話してくれたときのように、女王は苦しげな顔をした。
「七年前……お前がフォートリエ騎士団を率いてガロワ城を攻めてくれたとき……私の監禁されていた部屋の前にいた竜――ベランジェールが襲ってきた。私をではなく、私の女官のリリトを。そのとき私はリリトを助けようと、ベランジェールを殺した」
それは宰相の知ったとおりの話だった。ブッフェンもすでにその話を知っていたようで、驚かない。
それがどうした、とブッフェンは女王に話を促した。
「……竜は同族間で争いを起こさない。竜による竜殺しは大罪なんだ。私はそのときの罰により、片翼を失った」
宰相は眉根を寄せ、眉尻をつり上げる。
「おいおい、そんなのが罪かよ」
ブッフェンと同意だ。
人を助けようとするのが何が悪いというのか。
「普通の人間だったら罪でもなんでもない。人間に竜族の法は適用されない。……だけど私は『泰平を築く覇者』だ」
女王は自身の胸に手を置く。
「竜族の血を宿し、竜に同族と認められ、竜の同族としての特権を得た。その時点で、竜族の法に従わなくてはならなかったんだよ」
女王は、竜が竜に食べられる絵から離れ、中央に置かれたアルマン王の石像の前に立った。
「片翼さえあれば食べられることはない。片翼さえあれば、寿命が尽きるまで生きられる……けれど、私はどんどんと残りの片翼の力を失っていった。そしてとうとう……理性が闘争本能に勝てなくなってしまった」
女王は悲しそうに胸の上に置いた手を握る。
理性が、闘争本能に勝てなかった?
それは……まさか……。
宰相の脳裏に、狂気に冒されたように侵攻を開始すると宣言した女王の姿が浮かんだ。彼女が我を失ったあの……。
「そう、エル・ヴィッカの戦いのときだ。もともと竜の翼は、二つそろって、どう猛さを抑える働きをしてくれた器官だ。支配欲、戦闘欲に負けそうになるたび、片翼の力は失われていく。それまでこらえていたつもりだったが、とうとうエル・ヴィッカの戦いの時、欲に負け、戦争を始め、自ら前線で戦った。それで一気に残りの片翼の力を失った」
だけど、頬に翼はあるではないか。ちゃんと残っているではないか。
――ねえ、嘘でしょう? ねえ、陛下。
心中懇願する宰相には気づかず、女王は落ち着いた様子で自らの頬をブッフェンに示す。
「今、片翼は前の通りに残っているだろう? けれどこれは、私の飼っている竜の力を分けてもらったハリボテだ。本当はもう残っていない。瀕死状態さ」
宰相は思い出す。エル・ヴィッカの戦いの後に見た、彼女の頬。そこには翼なき竜がいた。見間違いかと思っていたが、本当にそのとき、翼は失われていたのか。
そしてこの前も――
「この前のレミーの事件の時、私の飼っている竜が襲ってきただろう? あれはね、私が翼を完全に失いかけたからだ。ナタンと戦って、私はそのとき理性の全てを失う寸前だった。だけど、宰相が身を挺して守ろうとした。……あれは奇跡だったのだろうね、目の前でそれを見て、私の中に最後の理性が戻った」
でももうだめだ、と湿った震える声で女王は言う。
「二度目の奇跡はないだろう。もう……春も待たないうちに、戦争か何かがきっかけで、きっと私は理性を失う。そして、いつも共にいてくれた竜に食われる」
女王はアルマン王の像を見上げる。彼の像の頬にある両翼の揃った竜のあざを。
説明を終え、女王は黙る。
ずっと話を聞いていたブッフェンは、何を言うのかと思いきや、場の雰囲気にそぐわない猥雑さでうなった。そして竜の絵と女王の頬を見比べる。
「……正直、信じられねえんだけど。いきなりそんな話。お前冷静じゃねえか。死ぬ前だっつうなら、もうちょっと冷静じゃいられねえだろ?」
な、そうだろ、とブッフェンは女王に懇願するように問う。
宰相もそう思いたい。今の話は全部冗談だろう、と思ってしまう。
本当の話とは思えない。淡々と語る彼女が、本当にもうすぐ死ぬとは思えない。いつも通りではないか。
そんな、こんな……話、信じられない。
女王は石像の土台の部分に寄りかかった。
「冷静……それはそうだ。私が片翼を失い、残りの片翼もいずれ失う――食われて死ぬと知ったのは、七年も前のことだ。泣くのもわめくのも暴れるのも悪夢を見るのも、もう飽いた」
女王は疲れたように首を曲げて、石像に側頭部をぶつける。
「……私だって信じたくなかった。だが現実に翼は着実に失われ、徐々に闘争本能の誘惑は大きくなってきた。……信じなければ嘘になったなら、私だって信じなかった。だけど、そんなことをして闘争本能の誘惑に負けても、死ぬだけだってわかってたんだ。理性的に冷静になる以外、私に生きる方法はなかった……!」
宰相は息を呑みそうになった。
レミーのことを調べているとき、女官のマガリは言っていた。即位直後の女王は、愛竜のギーにすら剣を振るうほどに荒れていたと。
それは当然のことだったのだろう。竜に食われるとなれば……それも目の前の竜に食われるであろうことがわかれば……。
生きる方法がない……それは宰相の胸に絶望的な響きをもたらす。
「私は死ぬ」
女王は告げる。確かな未来を予言する。
扉のノブに回している宰相の手が、そのままの形でぴくりとも動かない。
女王は彫像の台座に寄りかかるのをやめ、ブッフェンに真正面から向き合った。
「ただ、宰相のことが気にかかる。私が竜に食われて死ぬとなれば、きっとショックだから。ブッフェン、宰相のことを支えてやってくれ」
ショックだろう。
今この話を聞いただけで、十分ショックなのだから。声も出ない、身体の一部も動かせられない。
――そんな話、嘘でしょう?
そう言って、笑いながらこの部屋に入ることすらできない。
納得できないのは半分で、残りはわかっている。
……冗談ではないと。本気で告げている。女王は本気で自分の死後の宰相のことを、頼んでいる。
ブッフェンは少しだけ頭を掻き、
「わかったよ」
と答えた。
彼は冷静であった。宰相のようにまったく動くことができないわけではない。軽薄さはなりを潜めてまじめであったものの、こんな話を聞いてこんなことを頼まれるにしては、どこか慣れているかのようなものがあった。戦場にたびたび出て、死に慣れているせいだろうか。
女王は安堵し微笑みを浮かべた。
そして手を差し出した。
何の意味だ、と訝しがるブッフェンに、女王は別離の言葉を告げた。
「地獄でまた会おう」
ブッフェンの目が一瞬見開かれた。
女王は口角を上げた笑みの形を崩さない。
それからブッフェンは今までのことを思い出すように目を細める。
宰相がわずかに開けた扉からささやかな風が部屋に流れ込む。それがブッフェンの焦げ茶の髪を揺らした。彼は顔を下に向け、口ひげをなでる。
そしてまた顔を上げ、まるでいたずら小僧のような子どもっぽい、さわやかな笑みを浮かべる。
「ああ、またな。――また、あっちで酒でも飲み交わそうや」
たわいない約束を取り付けるように、ブッフェンは答える。
ブッフェンは右手で握り返す。女王もぐっと力を入れる。
女王は何かがまぶしいように目を細める。
「……残念なのは、きっと宰相はこっちへ来ないってことぐらいだよ」
女王は今にも消えそうな泡のような笑みをたたえた。
宰相は――ノブから手を離し、先ほどまでまったく動かなかった脚を、別方向へ向けた。
『私と結婚することで、辛いことがある――想像もつかないようなことが。だけど、絶対に、自分から死のうとしないでほしい』
『翼なき竜というのは、竜族によって粛正――食べられるんだ』
『私は死ぬ』
夕日が芝生を照らしていた。寒い日が多くなっていく中で、格別に温かい日であった。太陽が天頂にあった頃の名残で、いまだ暖かい。
宰相は竜の丘を登っていた。目を刺すような斜陽に顔を伏せると、芝生にはところどころ葉が散っている。
一番高い場所に大きな樹がある。その大きな樹にふさわしい大きな葉がしげっている。落葉の季節だけあり、赤く染まった葉は自然と落ちる。その樹の影には、竜がいた。
巨体を横たわらせ、大木に尾を絡ませる竜に、赤い葉が積もっている。
竜は眠ってはいない。目を開け、じっと宰相を見ている。
宰相の身体が震える。この竜に食べられた、牙が食い込んだときのショックがまだ身体に残っている。
その身体の震えを心中で叱咤し、こわばった足を前に進める。
『……やっぱりここに来たね』
竜の影から、子どもがひょっこり姿を現した。
宰相の館でギャンダルディスと名乗った、長い黒髪の子ども。
青い眼……そこにいる女王の愛竜・ギーと同じ色の目をした子ども。
「あなたは、ギーですか」
子どもはにこりと笑んで、首肯する。
『うん、正解。本名はギャンダルディス。宰相、君は珍しいんだよ。竜に食べられかけて生きていた。その上僕が怪我をしたときの血が、君の身体に紛れ込んだ。だからこうして僕の幻影が見えて、話ができる。きちんと契約したものじゃないから、一ヶ月もしたら力は消えるけれどね』
宰相は震えながら、腰に手を伸ばす。
女王から受け取った大剣を抜き放ち、竜へと向けた。
剣を向けられながら、ギャンダルディスは冷静に問う。
『……僕を殺すの?』
守るために、この方法しか思いつかなかった。あの話を聞いても、彼女の死を受け入れられなかった。
できることはと考え、宰相は彼女が形見としてよこしたのであろう大剣を竜に向けていた。
この竜を殺せば、女王は食べられない。女王を助けるためならば、竜一匹を殺すことなどいとわない。
人間型のギャンダルディスはかすかに笑った。
『甘い考えだよ、宰相。僕を殺したって、他の竜が殺すだけだ』
「ならば全部殺します」
『あはは、面白いことを言うね。人竜戦争で人間が総力を結集しても竜は全滅しなかったんだよ? 今現在、竜が何匹いるか知ってる? 5792匹。それが全て、レイラが翼を失った途端、レイラを食べようと飛んでくるんだ。無理だね』
鋭く断定する。ギャンダルディスは口許をゆがめて嘲笑する。
その正確な数がどれほどのものか、全部殺すにはどれほどの戦力を必要するか、宰相にはわかってしまった。
絶望に支配され青ざめる宰相に、人間型のギャンダルディスは近づいた。この子どもはゆっくりと憤りを口にした。
『僕は君に腹が立っている、って言ったよね。君は僕からレイラを命がけで助けて、なおかつ彼女に正気を取り戻してくれた。それはありがたい。――けれどね、君はレイラの命を削った人間でもあるよね』
ギャンダルディスは子どもらしくない憤怒を宿らせた瞳で見下ろす。
……命を削った……?
『片翼を失ったってね、普通に暮らしていれば100年くらい生きれるものなんだよ。七年程度で全て失うものなんかじゃない。それがどうしてここまで失ってしまったか、わかる? 彼女が王であったからだよ。それも強権的すぎる王にね。戦争が簡単に起こせる、臣下にも他国にも法にも縛られない――彼女を食い止めるのが、彼女のなけなしの理性しかなかった。いいかい、他の人が止めれば、規制されていれば、権力がなければ、レイラだって冷静になれた。翼は消えなかった。だけど誰も止めない! エル・ヴィッカの戦いの陣中を見せてやりたかったよ。彼女が何をしても止めない能なしばっか!』
ギャンダルディスは荒い息で怒りの言葉をまくし立てる。宰相からは逆光となってこの子どもの表情はよくわからないが、穏やかそうだった青い瞳は、荒れ狂う海のような色となりぎらりと光っていた。
『王』が彼女の寿命を縮めたということに、宰相は苦しくて目を細める。
間違いを止めていれば彼女の寿命が伸びたというのなら……あのとき、あの戦場に共に向かっていれば……!
感情的な思いはありつつも、その奥で冷静に思うところがあった。
……他の誰も止めなかったというのは、仕方ないのだ。
この国の制度は、王を絶対として置いている。王を非難し反論することは、基本的に認められていない。特に先王・エミリアンがそういったことを厳しく取り締まったから、現女王の今もその慣習が続いているところがある。
……それでも否定し反論しなければならなかったと思ったから、宰相はエル・ヴィッカの戦いから帰ってきた女王の頬を……打った。
『頬をぶったのはよかったと思うよ。でも宰相、その後どうして王を辞めたいと言ったレイラを止めようとしたの? 本当に国のことを考えたら認めるのが一番じゃなかったかい?』
鋭い問いが飛ぶ。宰相は答えるのに躊躇した。
にっこりと笑いながらギャンダルディスは近づく。
『うん、わかるよ。レイラが辞めれば、遠いゴセック家から次の王を決めることになっていたからね。そんなことをせずとも彼女を王位に留めておく方が自然で楽とでも思ったんでしょ? ――彼女が正気を失うような、王失格の人間でもね』
芝生の草を蹴り上げるようにしてギャンダルディスは宰相の前に立った。
『あのときレイラはすでに翼のほとんどを失っていた。僕はね、最期のときくらい、レイラにやすらかな時間を過ごしてほしかったんだ。それが彼女の残り短い寿命を伸ばす一番の方法だった。でもね、君、止めたよね。君はレイラを命を失う場所に留め置いた』
最後の言葉にギャンダルディスは力をこめ、断罪する。
宰相はステッキを取り落とし、座り込んだ。
――彼女を死に追いやる手伝いを、してしまったのか。
見下ろすギャンダルディスの目は冷徹であった。
『君たちはレイラを必要としてたどころか、依存していたんだよ。責任を押しつけるだけ押しつけたんだ』
吐き捨てる子ども。
座り込んでうつむいていた顔を上げた。不可解に思ったのだ。
この竜は、女王を食べようとしているはずだ。それがどうして、ここまで女王に同情的に話しているのだろう。
どうして、女王は己を食べる竜を、変わらずに可愛がってペットにしておいたのだろう。
ギャンダルディスは宰相の内心の疑問を理解したように、顔をゆがませる。
『宰相、僕が食べたくて食べようとしていると思うの?』
え、と宰相の口からこぼれた。
『レイラに生きていて欲しいに決まっているだろ。けどね、僕が食べなくたって、他の竜が食べるんだよ。それならばいっそ肉も骨も全て僕が食べようっていう気持ち……わからないかな』
子ども姿のギャンダルディスは、とても大人びた表情で見下ろす。夕日に照らされた彼は、泣きそうにも見えた。
『レイラは理解したよ。そんなことに救いを見いださなければなかったんだよ』
宰相は芝生の草を握りしめた。ぶちぶち、と切れた。
……そんなものが、救い?
夕日が沈もうとしていた。
処刑台にいる断罪人のように、宰相はすがりつく。
「……翼を戻す方法は、ないのですか。他に生きる方法は……!」
『ないよ』
ギャンダルディスは小さなやさしい声で断言する。
『翼の消える日が遠くなるよう、祈るしかないんだ』
ただ待ち、おびえていろと言うのか。彼女はずっとそうやって過ごしていたというのか。確かに死というのは誰のもとにも訪れる。だけど……!
宰相はステッキを手に取り、立ち上がった。膝をつき絶望に浸り続けるわけにはいかなかった。
ただ彼女の死を待つなんてできない……!
大きな樹から落ちる葉が、竜の身体に降り積もっている。人間と竜の四つの青い瞳が宰相をじっと見る。
宰相はそれから目をそらさない。
可能性が絶望的でもいい。方法があるなら、彼女に死んでほしくない。
――竜族全てを滅する。人間の総力を結集した人竜戦争でもなしえなかったことを。
絶望的な戦況であろうと、国が滅ぼうと、成さねばならないというのなら。
その方法、策略を頭の中で巡らせていると、知らず知らずのうちに、大剣を鞘に戻すとき握る手に力が籠もった。
『本気で、僕たちを殺すつもり?』
ギャンダルディスの声には嘲笑の響きはなかった。
『君は、国のためを考える、珍しく善良な政治家だと思っていたけれどね。信念も、理想も、誇りも捨てて、国を売って、それでもするのかい?』
竜族に戦争を仕掛ける理由なんて、竜族を利用して大国である我が国には何一つない。誰をも裏切り、何百年前の人竜戦争を終わらせた先人たちの苦労に、泥を塗ることになる。
その思考の帰結は、決して、宰相の理想でも、信念の結果でもなかった。
念を押すように言ったギャンダルディスの言葉に、宰相ははっきりと告げた。
「あの人に、死んで欲しくない」
なじられ、憎まれ、宰相失格と言われようと。それでも。
『国の未来よりも、レイラの生を選ぶんだね?』
宰相は何も言わなかった。答える必要もない問いだと思ったからだ。
この竜と話をする意味はもうない。宰相は背を向け、歩き出そうとした。
『……もうひとつ、方法があるよ』
足が地面に縫いつけられた。
『竜族を全滅させるなんて99パーセント無理な話よりは、マシな方法。平和な国を作るんだ』
宰相は振り返った。ギャンダルディスの子どもの姿はそこにはなく、竜だけがいた。それでも声は響き、竜は青い目でじっと宰相を見ている。
『言葉だけなら簡単そうに聞こえるだろ? 君の国への理想とも合致するだろ? これ以上レイラの翼を消費させないし、良いことずくめだね。でもね、実際のところ、竜族を全滅させるのと同じくらい難しい。国土が膨張し優位に立ちすぎているため、いくら友好的関係を築こうとも軋轢が生じている。内乱だって発生する可能性が高い。98パーセントの確率で数ヶ月以内に戦争が起こるというのが、僕の見立て』
「あなたは、方法はないと言いました」
『宰相。君があくまで宰相であるなら、こんなばかげた方法を知ったところで、変わらなかったはずだ。外交政策、内政どちらともに無理が生じる。政治家としては理想に掲げる価値もない選択だ』
確かに、宰相があくまで宰相であったなら。
だけど、人間は地位が先に立つものではない。地位によって言動に責任を持っても、その人物の考えや想いが決まるものではない。その場所がいくら心地よく、優越感に浸れる楽園だとしても、固執して大切なものを見失いたくない。それが、宰相としてではなく、イーサー=イルヤスとしての考えだった。
ギャンダルディスの声は、優しげにイーサーの耳に響く。
『ありがとうね』
竜は、心の中をさらし、続ける。
『どんな地位であろうと、『女王のため』ではなく、『レイラのため』動こうとしてくれる人がいると知ることが、もうすぐ死ぬレイラにとって、本当の救いだろうから』
「あの人をみすみす死なすつもりはありません」
『……そう。君が綿密に分析をして、平和な国を築くよりも、竜族を全滅させる方が可能性が高いと判断したなら、そうしてもいいよ。他の竜族は困るだろうけれど、僕だけは一番に簡単に殺されてあげる。僕にとってレイラは娘なんだ。娘の命を救うためなら、何をしても僕だけは許すよ』
それはもはや子どもの言葉ではなく、長く子を見守ってきた親としての慈しみの言葉だった。
イーサーは、この竜に食べられたときを思い出す。あの痛み、思い出して震えるあの恐怖は、一生忘れられないだろう。それでも『ひと咬み』だけだったらしい。骨も、肉も、全て、食べられるというのはどれほどのことか。想像が、できない。
ギャンダルディスの言葉を支えにするつもりはなかった。これから何をするにせよ、自分の肩のみに責任を背負うつもりだった。
再び背を向けて、イーサーは歩き出した。背に残照がかかり、目の前の芝生に長く影が伸びている。
その芝生は、夕日で染め上げたような紅の葉が散っていた。ステッキを使い、ゆっくりと踏みしめて歩く。
イーサーの顔の横を、葉がゆるやかな風に乗って、通り過ぎる。
これからしようとしていることは、枝から離れてしまった葉を地面に落とさせまいとするような……不可能なことかもしれない。
それでも――
――それでも、落ちて欲しくない。
風に乗って遠くへ飛んでゆく葉を、イーサーは目頭を熱くさせて見入っていた。