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翼なき竜


 24. 宰相と葉(1)


 夏の暑さが風と共に去り、空高い秋が訪れた。落葉のときだ。
 王城の庭園に植えられた木も、秋の影響を受け、はらはらと散り始めている。
 敷き詰められた木の葉の上を歩いていた宰相は、ベンチが見つかると、そこに腰を下ろした。
 黒いステッキを横に置く。
 王城の中央から庭園の中程まで。前までなら、ちょっと歩いた程度、と言われる距離である。
 しかし、宰相は疲労していた。体中がきしんでいる。
 怪我は治りつつあるものの、元の通りに歩ける状態ではない。いや、もしかしたら一生元の通りには戻らないのかもしれない。
 それでも身体を動かし続けていると、怪我をした当初より、ずっと動きやすくなっている。訓練は続けた方がいいと、医者も言っている。
 少し休憩して、王城に戻ろう。打ち合わせや準備もある。
 ステッキが風によって倒れそうになったので、慌てて支えた。
 支えて顔を上げると、道の遠くから、白い日傘の女性が見える。
 かさり、かさり、と乾いた木の葉の音に気を取られていると、彼女はすでに宰相の目の前にいた。
「お久しぶりでございますわね、宰相様」
 にっこりと笑う彼女は、王太后セリーヌであった。
 彼女の顔を見たとき、息を呑みそうになったのを、何とかこらえた。
 以前会ったときの彼女は、50という年を感じさせないほど若々しい肌、若々しい美しさを持っていた。
 しかし今、目の前にいる彼女は、そのときより確実に、老化を感じさせた。頬のしわ、日傘を持つ痩せた腕。巻き毛の髪の色はかつてより褪せた、年相応の姿だ。
「……お久しぶりです、王太后様」
 最後に会ったのは、彼女の夫・先王エミリアンが亡くなったとき以来だ。
 そっと彼女は日傘を傾け、顔を隠した。
「見苦しいものをお見せしました。……何というのかしら、生きる張りがなくなってしまって」
 上品に微笑むと、セリーヌは隣に座る。
「秋、ですわね。……エミリアン様が亡くなって、もう一年。早いものでございますわ」
 あれから一年と考えると、長かったようで短かったような、不思議な時間の感覚だ。
「王太后様は、お元気でしたか?」
「ええ。宰相様は……ほほほ、訊くまでもないことでしたわね」
 宰相の着る西風の服の下には、いまだ包帯が巻かれている。女王謀殺事件は国中に知られている。宰相が竜に食べられかけて、怪我をしたことも。完治はまだまだだ。
「宰相様。老人の戯言だと思って聞いてくださいな。……夫なんてうるさい存在としか思っておりませんでしたけれど、いつも隣にいた存在がいないというのは、もの悲しい気分にさせるものですわね。これが『さびしい』と言うものなのかしら」
「…………」
 日傘の影に隠れたセリーヌは、口許に微笑みを浮かべ続けている。
 冷たさや温かさというのは、表面からは安易にくみ取れないものなのかもしれない。
 冷たい、無礼、そう否定的に思っていた人も、本当は人間的な感情をちゃんと有してそれを隠しているだけだったり、本当は無礼な言葉に隠れて深い思いやりを持っていたりすることもある。
 そう考えると、人というものを温かく見られる気がする。今の宰相の誰よりも浮かれた気分も関係しているだろうけど。
 今しがた気づいたように、けれどもおっとりと、セリーヌは口を開いた。
「ああそうでした、宰相様。まずこれを言わなくては。女王陛下とのご婚約、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 宰相はとても嬉しそうに笑む。
「式は豊穣祭の後と聞きましたが、お早いことですわね」
 宰相は照れて、頬を掻いた。
 女王が、『なるべく早くがいい』と言って、無理を押し通したのだ。
 その他にも問題はあった。老臣たちはそもそも、女王の相手として宰相をふさわしくないと思っていた。けれど先日、女王が竜に襲われたときに宰相が身を挺して守ったこともあって、老臣達は、
『仕方ないのう』
 と、まるで舅のようにしぶしぶながら、結婚を許してくれた。
「お幸せな結婚でございますね。お互いに若く、互いが互いを想いあって結ばれて。みながみな、祝福します。不満足なものは何もございません。これほどに幸せな結婚も、珍しいものでございますわ」
 セリーヌに言われ、宰相は胸の中がくすぐったいような思いだ。胸の中で花が咲いて、花が歌っているかのように。
「美しい秋の空だこと」
 空も祝福してらっしゃいますわ、とセリーヌは続けた。
 木漏れ日が光の柱を作り、敷かれた木の葉を照らす。
 あかるい、青い空の日だ。
 セリーヌの言うとおり全てが祝福してくれているのかもしれない、と浮かれた考えを思い浮かべながら、大空を眺める。
 そんな宰相に、セリーヌは少しトーンを落として、宰相に忠告した。
「女王陛下と結婚するということは、王族の一員となることでございますわ。覚悟は必要でございますよ」
「それは、わかっています」
 立場も変わる。責任も、いろいろなことも変わる。
「宰相様。貴方は宰相でもあり、女王の夫にもなる。その二つを得て何を成すのか。よくお考えあそばしませ」
 意味深なせりふに、宰相は何とも答えられなかった。

 セリーヌはそれからたわいもない話をしてから、立ち去った。
 葉が降る。
 雪のように降る。
 数十枚の落葉を見守っていると、隣に誰かが座った。
「こんなところに一人で。また近衛兵を撒いて来たんですか?」
 宰相は少し笑いながら、隣の女王に顔を向けた。今日は呆れるのも、戒めるのも、なしにしよう。
「迎えに来たんだ」
 隣で女王はやわらかな微笑みを浮かべていた。
 どこか尖ったところが丸くなって、穏やかな表情をしていた。

 葉が舞い散る中を、縫うように二人で歩いた。
 宰相がゆっくりとしか歩けないため、女王は歩幅をそろえてくれた。
 女王は顔を上げ、落ちてくる葉を、木漏れ日を、眩しそうに目を細めて見る。
 その彼女の顔に、まるで吸い付けられたように大きな葉が落ちてきた。
「うっ」
 と言って、彼女は葉を取り、その葉に向かってにらむ。
 宰相は思わず笑ってしまった。
 彼女はむっとしながら、少し恥ずかしそうに顔を逸らした。
「きれいな落葉ですね」
「うん。――前は落葉って嫌いだったよ」
「どうしてですか?」
「何となくみじめな感じがして。春、夏と太陽の光をさんさんと浴びていたのが、木から落ちてこうやって踏まれる。とんだ転落人生じゃないか」
 そう言いながら、持っていた葉を地に落とす。がさがさと乾いた音をさせ、踏んで歩く。
 言われてみればそうかもしれない。
「でも、今は違うのでしょう? 『前は』ということは」
 女王はにっこり笑う。
「うん。今は好きだ。いや、好きというより、その良さがわかったというのかな。こうやって地に落ちた様が無様だと思ったけど、これはこれでね。土に還り、木の養分となったり道を作ったりするかと思うと、意味があることだと思えたんだ」
 女王は慈しみの目で落ち葉の広がる光景を見下ろす。
 慈しみと優しさにあふれたその瞳。
 彼女はうつくしかった。絶え間なく変化する光と落葉の中で。
 彼女の手を握る。互いに指を絡め、親指で甲を撫でさする。
 はにかんだ笑みを浮かべる彼女は、
「式、もうすぐだな」
 何の式かは確認しなくてもわかる。宰相も満面の笑みでうなずいた。
「その……今更言うことではないけど」
「はい?」
「結婚の条件があるんだ」
「……え?」
 宰相は固まった。
 本当に『今更』だ。こんな式の直前になって。
 プロポーズをしたとき、女王は沈黙した。それを何とか必死に懇願して、うなずいてもらい、全ては終わったと思っていた。
 女王は真剣な顔で見上げている。どんな難問が出てくるかと思い、喉を鳴らして緊張して待つ。
「私と結婚することで、辛いことがある――想像もつかないようなことが。だけど、絶対に、自ら死のうとしないでほしい」
 先ほどのセリーヌの忠言がぼんやりと思い浮かんだ。王族となるということは、苦労することがある、と。
 女王の父・エミリアンが死んだのは一年前だった。彼女にとって忘れがたい存在、忘れがたい死。もう二度と、あんなことは起こってほしくないのだろう。彼女の背負う哀しさがかいま見えて、誠実に首肯する。
「絶対に死のうとしません」
 彼女がプロポーズに応えてくれた。それだけで、宰相はこれからのこと全てに耐えられる気がする。
 プロポーズをした当初、女王はうなずいてくれなかった。それを必死に、必要だということ、貴方と一緒でなければこれから生きてられない、とまで言ったところで、うなずいてくれた。
 女王は怖かったそうだ。『こんな自分が結婚するなんて』と、躊躇してしまっていたそうだ。けれども、『お前と以外に、結婚なんて考えた相手はいなかったよ』とも言ってくれた。
 そもそも、プロポーズとかそういうことよりも、彼女を置いて一人で逝こうなんて考えるわけがない。どんなことがあったって。
 女王は念を押す。
「絶対だな?」
「絶対です」
 女王は顔をほころばせると、自身の腰に手をやる。
 かちゃかちゃと音をさせてしばらくして、彼女はぐい、と目の前に大剣を鞘に入れたまま横にして差し出した。
「これを持っていてくれ」
 宰相は簡単に受け取ることもできず、困惑したまま大剣を見下ろした。装飾のたぐいは少なく、長く実用的に使われたためにところどころすり切れている。
「私はもうこれを使わない。代わりに持っていてほしい」
「でも……私は陛下ほどの剣の腕は……」
「使わないなら使わないでいい。ただ持っていてほしいんだ。私の大切なものをあげたいんだよ」
 おそるおそる下に手を置き、受け取る。
 思った以上に重量がある。
 ……これをいつも、彼女は腰にぶら下げていたのか……。
 腰に剣のない彼女を見ると、何か足りないような気持ちにさせられる。彼女自身はすっきりしたようで、伸びをしているが。
 宰相は剣帯も受け取り、簡単に腰に下げてみた。
「どうです?」
「うん、似合ってるよ」
 彼女は微笑んだ。
 とても満足そうに、とても嬉しそうに、とてもさわやかに。
 幸せだ、と思った。
 胸の中が温かいもので一杯になっている。これが幸せなのだと、実感できた。



 ある日のことだった。
 宰相は怪我のせいで、毎日は出仕できなかった。その日も医者の診察を受けたり治療をしてもらう日で、王城に出られなかった。
 治療を終え、服を整え、書斎に入ろうとした。
 黒檀の大きめの机と周囲に本棚が並んである部屋である。窓のカーテンもカーペットも慣れ親しんだ部屋だ。あまり人を立ち入れさせず、宰相個人の、ひとりで考えを練る部屋だった。
 その慣れ親しんだ書斎に入った途端、びくりと宰相は立ち止まる。
 黒檀の机に腰掛けている子どもがいたのだ。
 ゆったりとした黒い服はすそが長く、袖も長い。細い帯で腰をしめているだけの、形状としては簡単な服。数百年前の古い服装のようだ。黒い髪は足ほどまでに長く、結わえられていない。
 子どもはまるでこの部屋の主のように奔放に足をぶらぶらとさせ、真正面から青い瞳で興味深そうに宰相を見ていた。
 見たことのない顔である。
 戸惑い、扉の外にいる騎士に、
「中にいるのは誰ですか?」
 と尋ねた。
 騎士は首をかしげて部屋の中を見る。
「中に誰かいるんですか? 入れた覚えはありません。どこにいるんですか?」
 目の前にある机の上に座っているではないか。部屋に入ったらすぐに見える位置に。
 けれど騎士は部屋の中を回って探しながら、気づいていないようである。
『他の人には見えないんだ。ここでは君しか見えないよ』
 子どもが口を開く。
 その声は、あり得ないほどに高音で、耳を通さず頭の中に響いてくるような感じだった。『音』だと思えない。
「誰もいないようですよ」
 子どもの前で、騎士は肩をすくめた。
『ほらね』
 子どもはくすくす笑う。
 何か見間違えたようですね、と言いながら騎士は部屋を出て行った。
 ばたん、と扉を閉められる。
 なんなのだ、この子どもは。不気味で近づく気になれない。
「……誰ですか、あなた」
『ギャンダルディス……と言っても、君はこの名を知らないだろうね。何度か会っているんだけどね。ふふ』
 見た覚えはない。こんな不思議な声の出し方の人間に会っていたら、覚えているはずだが。それにそもそも、他の人間に見えないとはどういうことだ。
『レイラ以外の人間と話すのは久しぶりなんだ。だから失礼なことを言っても笑って許してね』
 女王を名前で呼び捨てにしている。いっそう不気味に感じた。
 どこの誰だ。女王と親しくしている人間、しかも呼び捨てにするほどの親しい子どもなんて、知らない。
『そんなに引かないでよ。……それにしても体中の傷、痛い? とりあえず、レイラを身を挺して助けてくれてありがとう。君の行動に、彼女は救われたんだよ』
 ギャンダルディスと名乗った子どもはにこりと笑う。
「……あなたは何のために私の前に現れたのですか?」
 ギャンダルディスは難しい顔をして、腕を組んだ。青い瞳がきらりと光った。
『僕はねえ、君に対して複雑な気持ちなんだ。君の傷を見ると申し訳ない気持ちにもなる。レイラを助けてくれた人でもあるから、お礼を言いたい気持ちもある。……でもね、すごく腹立たしい気持ちもあるんだ』
「……?」
『だからこれから言うことは、君への怒りゆえか、君への感謝ゆえか、僕自身にもわからない』
 一瞬だけ、子どもは翳りのある表情を見せた。それはすぐに消えた。
 宰相が謎めいたせりふと表情をいぶかしがると同時に、ギャンダルディスは机から降りた。
『今すぐ王城の『竜の間』に行って隠れて話を聞けば、今まで知らなかったこと、これから起こることが知れるよ。……レイラが絶対に知らせたくないことがね』
 低く重い声で言うと、子どもは机を回り、窓枠に足をかけた。窓に柵はない。
 危ない、と言う前に、ギャンダルディスはそのまま窓から落ちた。ここは二階だ。
 慌てて窓から下を見る。
 しかし地面に子どもの姿は影も形もなかった。


 あの不思議な子どもの言うことを、幻聴だったと片付けることはできた。
 しかしどうにも気にかかってしまった。
 幻として片付けるのは後からでもできる。『竜の間』に何もなければ。
 と、宰相は王城に向かい、ひそかに『竜の間』に向かった。
 『王の間』の向かいにある『竜の間』付近には、緑の兜の近衛兵が立っていた。つまり、近くに女王がいるということだろう。
 部屋から離れすぎているところに立っている。
「宰相閣下」
 普通の声で呼び止められて、宰相は慌てて口の前に人差し指を出した。
「……陛下は『竜の間』に?」
 ささやき声で尋ねると、近衛兵も小さな声になった。
「はい、ブッフェン騎士団長と一緒に。でも、部屋からできるだけ遠くにいるように、との命令です」
 ブッフェンが王城に来ることは事前に聞いていた。レミーのことで報告があるとかで。
 なるほど、近衛兵たちには聞かせたくない話なのだろう。
 あの子ども言っていたのも、これ関連の話だろうか。
「すみません、私が呼び戻すまで、ここを離れていてください」
「えっ」
「女王陛下も離れるよう命令していたでしょう? その角を曲がったところでいいですから」
 デリケートな問題でもある。へたに聞かれて誤解されても困る話題だ。
 近衛兵たちはしぶしぶながら、少し先の角を曲がって行った。
 宰相は『竜の間』に向かった。ここはいつも女王が鍵を持っていて、閉じられている。客に王城を案内するコースには含まれていない部屋だ。
 その扉が少し開いた。
「気持ち悪い絵ですねえ。こんな絵を気に入るのは、アンリくらいなもんでしょうなあ」
 ブッフェンが顔をしかめて絵を見ていた。
 見ている絵は、竜が竜を食べるもの。小さな竜が大きな何頭もの竜に食べられている残虐な絵だった。
「ブッフェン、レミーの報告というのは?」
 女王の声がした。宰相が身体をずらすと、中央にあるアルマン王の像の近くに彼女はいるのが見えた。
「ん、ああ。最初はレミーは陛下を親だと思っていたわけだろ。それが嘘ってことになって、混乱していた。けど、ちゃんとゆっくり話して、リリトという本当の母親が命を懸けてお前を庇ってくれた、って話をすると大人しくなった。今は大分元気で仲良くなってる」
「そうか、よかった」
 と言って、女王はほっとしている。
「……ブッフェン。レミーのことはありがとう。これからもよろしく頼む」
「頼まれなくてもちゃんとやるさ」
 宰相は、ブッフェンは面倒見が良い、という女王の言葉を思い出した。ブッフェンの言葉はぶっきらぼうだが、信用できそうな温かさがあった。
 女王はぽつりと口にする。
「……もう一つ、頼みたいことがある」
「ん、なんだ?」
 女王はブッフェンの見る絵と同じ絵を仰ぎながら、言った。
「私の死後のことだ」




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