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翼なき竜


 22. 女王の子(5)


 真夏。
 宰相は窓を全開にし、暑さに耐えながら、自身の執務室で政務を執り行っていた。
 机には処理済みの書類の山がある。女王に見てもらわなければならない書類だ。
 宰相は暗い目でそれを一瞥し、女王のところへ運ばせようと部下を呼ぼうとした。しかしそれは達成されなかった。
 ……女王自身が、宰相の執務室を訪れたからだ。
 透けるほどに薄いベールをまとって現れた。いつもの機敏な動きは、どこかぎこちない。
 宰相もまた、ぎこちなく視線を逸らした。
 女王が政務に復帰して以来、宰相は彼女に真正面から顔を向けることはなかった。
 いつもなら、「何でしょうか」と一言でもあるものだが、彼から口を開くことはない。
 女王は気まずそうに言う。
「その、な」
 宰相はうつむき黙っている。
「暴言を吐いて、すまなかった。あれは……本当に思ってもないことだから、気にしないでほしい」
 宰相は知っている。あれは、宰相とグレゴワールを重ね合わせて言ったことだと。助けなかったどころか傷つけ続けた男に、『どうしようもなかった』と言われれば、怒るのは無理ない。
 これまで、七年前の事件を一片も宰相に語らなかった理由も、ようやく理解できた。それはそうだ。加害者に、どうしてつらい事件を語ろうと思うものか……。
 真実の衝撃が強すぎて、宰相はいまだに頭が麻痺しているような状態だ。どうしたらいいのかなんて、考えつかない。
 ようやく思ったのは、こんな顔を女王は見たくないだろう、ということだ。
 だから宰相は顔を逸らし続けていた。
「……あの、な、宰相」
 女王はひかえめに告げた。
「レミーを、私の子だと認める」
 机の上で、羽根ペンが転がる。そのままじゅうたんの上に落ちた。
 宰相はしばらくしてから、それを拾い上げた。
「レミーを王城に呼び寄せて、謁見する準備は頼む。そのときに私が臣下たちに説明するから、それまで全部、黙っていてくれ」
 じゅうたんに視線を向けながら、蚊の鳴くような声で、「はい」と言った。
 宰相の返事に、女王は何度かうなずく。
「何もかも終わったら、全部話すよ。話さなければならないことがいくつもあるんだ。……今は私のことを見たくもないようだし、ちょっと時間を置こう」
 女王は背を向け、部屋を出て行った。
 脱力して、宰相は椅子に座る。背もたれに体重をかける。
 椅子がギィ、と鳴ったとき、羽根ペンを机の上で転がした。


 後は女王の命令通り、謁見の準備を進めるだけだった。
 レミーを呼び寄せるのはその地の領主のデュ=コロワに任せ、謁見の手はずを整える。
 いつの間にかレミーを呼び寄せる話は城中で広まり、噂は広がりを見せていた。女王が何の身分もない小さな子どもをわざわざ呼んだということは、注目すべき話でもあった。
 特に老臣たちは宰相にどういうことかを聞きたがったが、宰相はとにかく逃げるしかなかった。


 レミーの登城時、噂が噂を呼んだこともあって、特別謁見室には、多くの臣下が詰めかけ、事態を見守ることになった。
 特別謁見室は天井が高く、城でも涼しい部屋の一つだ。円形の部屋には大きく窓が取られ、ガラスの色を交えながら光が注ぎ込む。
 興味津々の貴族たちが左右に分かれ、待っている。警備のための近衛兵も、その人混みに呑み込まれそうである。
 大きなカーペットの道の一端に女王の座る玉座がある。その左横に宰相が立ち、右に愛竜のギーが鎖につながれている。
 いつもなら女王は愛竜をなでながらこの場にいるものだが、今日は違った。彼女はまっすぐ王座に座り、真正面を食い入るように見ている。
 そのカーペットの反対側は大きな扉へとつながっている。
 門の左右に立つ兵が、ラッパを構えた。
 巨大な扉が左右に開かれるとき、宰相は思わずごくりとつばを飲み込む。
 その扉に不釣り合いな、小さな少年が、顔を出す。
「レミー様のおなりです」
 本来、こういう場に現れる人物に関して、どこそこの領主だとか、どこそこ国の王子だとか、きらびやかな説明があるものである。
 ただ名前を読み上げるだけであったことに対し、傍観者たちはざわめきを起こした。
 入ってきた少年は黒い髪で、緊張した面持ちである。きょろきょろと左右にいる貴族達を見上げ、関心の目に少しおびえている。
 その少年の後ろに、老人がいた。古い杖をつき、白いひげと白髪で顔のかくれた老人は、少年を補佐するように、後ろに付き従っている。
 レミーを育てたという老人である。
 当初、レミーだけを招こうとしたが、レミー自身が断固として拒否したという。この老人と一緒でなければ行かないと、レミーは強く、交渉役のデュ=コロワに告げた。
 その流れで今、老人はレミーの後ろに従っている。レミーの斜め後ろにいて、黙って彼の後ろを追い、離れない。
 レミーはまっすぐカーペットの中央を歩いた。最初は近くにいた貴族達を珍しそうに見上げていたが、歩くにつれ、目の前の人物だけを見つめることとなる。
 目の前の人物――それは玉座にいる女王に他ならない。
 宰相はちらりと隣の彼女を見た。
 彼女は冷静な表情を崩さず、近づいてくる子どもを見つめている。
 レミーの足が止まり、たどたどしい動きで礼をした。後ろの老人も、それにならった。
「あ、あの、ぼくは……」
 レミーは緊張に声を震わせる。あまりに緊張しすぎたのか、言葉が止まる。
「その……これを、見てください」
 レミーは懐から、何かを取り出した。白い……布。そして小さな、鈍い銀色に光るもの。
 おそらく、マガリの薔薇を刺繍した絹と、女王の王女時代のシールリング……身元を保証するものだ。
 ただ、場が遠すぎて、ここからは見えない。
 女王は立ち上がった。歩き出す彼女の後ろに付き従おうとすると、彼女は手で留めた。
「ここで待っていてくれ」
 女王は幾分か緊張した声音で押しとどめる。
 ……親子の再会なのだ。ここで待つべきだろう。
 宰相は複雑な心境でうなずき、そこに留まる。
 彼女は一歩一歩、階段を降りながら、レミーに近づく。
 レミーの強張っていた表情は、明るいものへと変化していく。
 女王は全身を緊張させていた。遠くから見ていてもわかる。過敏なほどに、気を払っている。
 あと二歩、という近くまできて、レミーは自分から女王に近づいた。
 宰相が複雑な心境ながら、淡く微笑もうとしたとき――
 レミーの後ろにいた老人が、杖を上げた。杖を引っ張ると先が鞘のように抜け、白く細い刀身が現れる。
 老人はそれを振り上げ、女王に向かった。
「危ない!!」
 宰相は思わず叫ぶ。
 女王は自身の大剣で、老人の杖の剣を防ぐ。
「きゃあああ!」
 近くにいた貴族達は、失神したり、逃げようとしたり、パニックとなった。
 近衛兵は、この人混みによって動けなくさせられている。そればかりか、近衛兵に襲いかかる人々が現れた。
 一方、老人はなおも、女王を襲う。
 宰相は女王の元へ行こうとするが、玉座からは距離がありすぎた。
 女王は大剣を老人に振るい、杖の剣を取り落とさせる。
 老人は背を向け走る。
 逃げるのか、と思った矢先、老人は足を止めた。
 ひっくり返っていたレミーの首筋に小刀を当て、
「動くな!」
 と追おうとした女王を止めさせる。
「動くな! 自分の子に再会してすぐ、死んでほしくはあるまい?」
「お……おじいちゃ……」
「うるさい!」
 おびえたレミーは震えながら沈黙した。
 老人はレミーの身体を盾にするようにし、女王にレミーの危険を見せつける。レミーの首筋から血が流れ出した。
「この子どもは次期王位継承者だ! 誰も動くな!」
 その言葉は、近衛兵の動きをも止まらせた。彼らはこの件について、何の説明もされていなかった。だが女王が動きを止めたことから、まさか、と困惑したのだ。
 近衛兵を襲っていた人物が、女王の後ろから剣を振り上げて近づく。
 再び、危ない、と宰相は叫ぼうとした。
 しかしそんな言葉は必要なかった。女王はしゃがみこみ、彼の足を払う。そして大剣で背を刺し貫く。
「なっ、子どもの命がどうなってもいいのか!? 七年前、お前が女官に育てさせていたのを盗んだ、正真正銘のお前の子どもだぞ!?」
 老人は驚愕し、一歩退く。
 女王は、ふ、と笑う。
「私は子を産んだ覚えはないよ」
「なに!?」
 それは宰相をも驚かせた。
「どうやらお前はギョームとつながりを持つのに忙しくて、ろくに七年前のガロワ城の内部を知らなかったようだな――ナタン」
 名を明示され、老人は狼狽した。
 ナタン――ガロワ家の当主・グレゴワールの父親……ギョームと深いつながりを持っていたという人物か。ずっと行方不明だったというが、まさか彼が……。
「どうする、ナタン。その子どもは私の子ではない。となると、お前に手札はないよ」
 近衛兵たちは、女王の言葉によって、再び敵に立ち向かう。
 老人は……ナタンは、レミーを投げ捨てる。
「うおおおおお!!」
 雄叫びを上げながらナタンは女王に小刀を向ける。女王は一撃のもと、彼を斬り殺した。
 敵方も、圧倒的な近衛兵の力により、ある者は殺され、ある者は取り押さえられた。
 宰相はようやく、女王の近くまで来られた。
「怪我は!? 無事ですか!?」
 息せき切って尋ねるが、後ろから見たところ外傷はない。それに戦いぶりを見ていたが、怪我をするようなシーンはなかった。
 安堵して、尋ねたいことがいくつも湧いた。本当に、あの子どもは女王の子ではないのか。なら誰の子なのか。
 女王はゆっくりと振り返る。
 あ、と宰相は声を上げた。
 彼女の頬にある片翼の竜が、その片翼すら、失っていたのだ。
 今度は見間違いではない。目の前に、本当にひとかけらも存在していない。
 彼女のうつろな瞳は宰相をとらえない。剣を強く握りしめ、殺気をまとっている。
 ズン、と地面が響いた。続けて何か巨大なものが壊れる音がして、宰相は振り返る。
 巨大な柱が折れ、壊れていた。それも、竜の鎖が繋がれていた柱が、である。
 自由になった竜は、血のような赤い目をしていた――戦闘態勢のときの、目の色を。
 背筋が凍った。
 ――なぜ。
 チキッタの花を食べさせ眠らせていたのに。他の人間は全て、ロルの粉を振りかけていたのに。竜が赤い目と変わる要素は、何一つないはずだったのに。
 竜の近くにいた貴族達から悲鳴があがる。
 竜は赤い目となったとき、人間を食べる。
 一番近くにいる彼らが食べられる、と思いながら竜を見ていたが、竜は近くにいた彼らに見向きもしなかった。
 愛竜ギーは――女王だけを見ていた。
 背筋に走るものを無視して、宰相は女王の肩をつかむ。
「逃げてください! 早く!」
 女王を特別謁見室から外に出そうとする。扉付近には、逃げようとしている人が大勢いた。
 この人混みににまぎれれば……。
 そう思ったが、竜はただ女王だけを見ていた。どんな人混みの中でも、ただ女王だけを。
 竜は足音を響かせ、足跡をつけながら、女王に近づく。
 扉付近にいた人々は、蜘蛛の子を散らすように逃げる。
 竜は後ろ足を使い、走る。
 宰相が走るのには時間がかかるが、竜が来るのはあっという間の距離であった。
 巨大な身体で威圧するように女王の前に立つ。大きな口を開け、鋭利な牙を見せる。――女王に向けて。
 女王を食べようとした竜の口に向かって、宰相は飛び込んだ。
 その瞬間から、もはや悲鳴すら上げることすら不可能だった。
 痛みが、全てを支配して。

 牙が。
 食い込む。
 痛い。
 皮膚が。
 肉が。骨が。
 きしむ。
 痛い。
 痛い。
 体中が。
 いたい。
 熱い。
 いたい。
 苦しい。
 いたい。
 いたい。
 
 
 薄れゆく意識の中で、女王が、名を叫んだような気がした。




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