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翼なき竜


 18. 女王の子(1)


 七年前。
 ある城が攻められ、燃えていた。兵達の戦う音が、城中に響いている。燃える城自体が、奇妙なきしみの音を響かせている。
 女王はその城の中を歩いている。女王は当時まだ女王ではなく、王女と呼ばれていた。
 彼女は鎧は着ておらず、ドレス姿であった。しかし、元々白かったドレスはぐっしょりと血に濡れている。燃える城の熱波が、彼女の額に玉の汗を作る。
 瞳は暗く、飢えたような苦しみが顔に溢れている。
 頬にある『泰平を築く覇者』のあざは片翼がない。
 敵兵の存在に気を配り、慎重に歩く。敵兵から奪い取った剣を手に。
 それは戦士の眼。
 戦う場所にいる、戦う者の眼であった。
 赤いドレスもまた、戦いと死の証である。
 だがしかし、戦いにふさわしくないものがひとつ、あった。
 一人燃える城を歩く彼女の腕には、布に包まれた赤子がいたのだ。


   *   *


 夏前。
 城には西に庭があった。白い美しい城に映えるように、美しい芝生が、花壇が、糸杉がある。
 そして池があった。本来なら噴水のある場所に。
 ある時代の王が、噴水に飽いて作らせたのだという。
 池はそれなりの広さがあり、一周するなら時間がかかる。蓮の花が咲き、大きな葉が水面を覆う。観賞用の見目麗しい魚が時折跳ねることもある。
 隣にいる女王が窓からその池を見ていた。ぼんやりとして、いつもの凛々しさが薄れている。
「お疲れですか、陛下」
「……いや、大丈夫だ。今日はあと何の予定が入っていた?」
 宰相は首を振る。
「本日はこれで謁見・会議・式典は終わりです」
「……そうか」
 心ここにあらずといった風情で女王が相づちを打った。
 やはり疲れているのだろう。彼女はエミリアンが亡くなってから、ずっと仕事で無理をしている。気を抜く暇を、作らないのだ。最近式典や行事が多いものだから、疲れは半端なものではないだろう。
 女王は池を見続けている。
 魚でも跳ねたのだろうかと宰相も見つめた。
 女王がぽつりと言う。
「今日は暑いな」
「そうですか?」
「暑い。一足早く夏が来たようだ」
 宰相は首を傾げる。彼の感覚では夏はまだのような気がする。
 だが、女王の顔はどこか赤いし、汗も浮いている。確かに暑そうだ。
 ――自分の感覚がおかしいのか?
 女王は突然、開いた窓に足をかけた。そして、ひらりと窓から庭に出た。
「陛下!?」
 そのまま女王は走ったかと思うと、池に飛び込む。
 宰相は慌てて追う。
 女王の栗皮色の髪が水面で揺らめいている。彼女が飛び込んだことに驚いて遠ざかったらしい魚達が、周囲を泳ぐ。
 女王は顔を半分だけ出し、手で水をかいている。だが本気で泳ごうとしていないのか、力を使っていないようでまったくその場から動かない。
「何をなさって!」
 宰相も池に飛び込み、有無を言わさず女王の体を抱えて出た。
 二人とも服にたっぷりと水を含んだ。泳いで荒くなった呼吸が宰相から漏れたが、女王はそれほど呼吸が荒くない。
 女王はぼんやりと空を見ていた。紫色の唇から言葉が漏れる。
「……暑いから、水に入れば涼しくなるかと、思って、な」
 無茶な、と言う前に、宰相はようやく異常に気づき始めた。
 抱え上げる女王の体が熱い。
 額に手をやる。
 伝わってくる熱量。震え。
 他の兵士や家臣達もびしょ濡れの二人のもとに集まり始める。
 宰相は彼らに向き直り、
「医者を! 毛布と……あと、すぐにお休みになられる場所を用意して!」
 宰相の腕の中にいる女王は、ぐったりとしていた。


 女王の眠る寝台の横で、侍医は処置を終え、宰相に向き直った。
 侍医の顔は深刻そうなものでないが、かといって安心できない。医者を何十年も続けていると、病状を悟られないよう平気な顔をできる。
 女王は瞳を閉じ、ゆったりとした服装で髪を流し、眠っている。時折うなされているのか、「うっ」と声を上げる。
 そんな様子を心配しながら、宰相は隣の部屋へ行って、侍医から説明を求めた。
「それでっ、陛下は、陛下はどうなんですか!」
「まあまあ落ち着いてください、宰相」
「落ち着いていられますか!」
 侍医は調子を崩さず、宰相が落ち着くまで待った。そして宰相が冷静さを取り戻してから、侍医は説明を始めた。
「良いとも悪いとも言えません」
「どういう意味ですか」
「陛下は風邪をひいておられる」
 風邪。
 ほっとした。
 ――重い病気でもなく風邪くらいなら……。
 ところがそんな宰相の安堵を侍医は打ち砕く。
「宰相、安心するようなことではありませんぞ。陛下の風邪は精神的なものも作用しているようで、治るのは時間がかかるかもしれません」
「精神的な……もの?」
「はい。女王という立場の重圧は相当なものなのでしょうな。積もり積もった負担で弱ったところに風邪をひいたようです。それに、もともとあまり眠られないそうです。毎夜うなされていると、側に仕えている方も言っておられましたし……。疲労がかなり溜まっているかと」
 やっぱりと思う。
 彼女は冬から無茶をしすぎていた。睡眠時間が少ないことも、疲労を常にため込んでいることもわかっていた。
 にもかかわらず、ここまで無理をさせ続けたことに、自分のふがいなさを覚える。
「医者として陛下の体のことを考えるなら、しばらく仕事や、精神的に負担をかけるようなことを遠ざけ、とにかく休養させることです」
 宰相は思案した。
 戦争、大災害、重大事が起きれば、女王に考えを仰がざるをえない。
 しかし、今は他国に不穏な動きもなく、災害もない。
 前の時のように、王をやめると言い出したわけでもない。一時的な病気だと明かし、他の臣下の方々の力を借りて対処すれば、穴を埋められるだろう。
「……わかりました」
 ――何とかやってみよう、陛下にゆっくり休養してもらい、体を治してもらうために。
 宰相は再び女王の部屋に入った。
 眠る彼女の前髪をなでながら、「安心してお休みください、陛下」と彼女にだけ聞こえるような小さな声でつぶやいた。



 宰相は女王の式典出席のキャンセルに急いだ。
 欠席するだけで済まないものは、宰相が代理として出席した。
 それらのことはまだ決まったことであるし、対処のしようがあることだ。
 問題は、突如として現れる事件。
 戦争や災害なら、予防できることがある。
 だが、予防すらできないことというのはあるのだ。
「宰相!」
 領地にいるはずのデュ=コロワがやってきて、即座に宰相との面会を求めてきた。デュ=コロワは竜騎士団長でもあり、西の一地方の領主だ。
 どちらのことにせよ、わざわざ彼自身が突然来るということは、軽い問題ではない。
 デュ=コロワは最初に、「女王陛下に会わせてくれ」と言った。宰相に、何のために来たのか、何の問題が起こったのか説明せず、ただ「女王陛下に会って至急話さなければならないことがある」と言った。
 宰相は説明した。女王が病気であること。精神的な疲労が原因であろうこと。
 これ以上精神的な負担をかけると、さらに病気が悪化しかねないこと。
「ですから、私に話してください。火急の用件で、国政に関わることであるならば。もしくは、陛下が病気から回復されるのを待ってください」
「…………。陛下はいつ頃回復される?」
「それはわかりませんが、侍医によると、一月以上は長引くのではないか、と」
 精神的なものが原因の病気は、治りが遅いそうだ。
 デュ=コロワは舌打ちをして、黙った。
 彼は黙考し続ける。それは長い時間だった。悩んで悩んで悩んだ末、デュ=コロワは、
「……宰相。絶対に誰にも盗み聞きされない、二人きりで話せる部屋を用意してくれ」
 と言った。

 王城の端にある部屋を用意すると、まずデュ=コロワは周囲に人がいないかを確認して回った。
 角部屋であり、壁も厚い。周囲の部屋に誰かがいても、聞こえることはないだろう。窓の外はマロニエの木があるだけで、視界は見渡しやすい。
 それでもデュ=コロワは確認して回った。それほどまでに極秘の話かと思うと、宰相の顔も引き締まる。
 十分すぎるほどに確認した後、二人は向かい合って、しかも声が漏れないよう、失礼にあたるほど近寄る。
 デュ=コロワは小さな声で、言ったのだ。
「女王陛下にお子がいる」
 窓の外はあかるく静かで、蝶が舞っていた。
 蝶はマロニエの白い花を取り囲むようにたわむれ、羽根を震わせていた。

 ――何を言っているのだ?
 最初に聞いたとき、まずそう思った。聞き間違いだろうかとも。
「なん、ですって?」
 ようやく、それだけ声が出た。
 デュ=コロワはささやくような声で、話し始めた。
「……女王陛下の子だと公言する子供が、我が領地の町に現れて……」
 それが、レイラ=ド=ブレンハール女王の御代を揺るがす重大事件の幕開けだった。




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