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翼なき竜
16. 竜族の秘(1)
年が明け、レイラ=ド=ブレンハール女王陛下の治世が、七年目を迎えたばかりの頃。
正月だけあって、王城ではもろもろの行事に追われていた。
その行事で華やかなのが、同盟を結んだ国々から貢ぎ物を持ってくる使者の来訪である。
これは受け入れる我が国も、莫大な費用がかさむ。使者の歓迎を示すための行事、宿泊施設などなど。帰っていく使者へ、それなりのものを手みやげにして送り返さなければならない。
大国としてのプライドがある以上、貢ぎ物を受け取るだけ受け取ったのではすまないのだ。
宰相が宰相として就任してから、この行事にかかる費用を減らすことに苦心している。費用を減らし、なおかつ国の威信を損なわないというのは、なかなか難しい。
「それでは次は、ドウルリア国からの使者です。使者としておもむいてこられたのは、王弟オレリアン様。……今年の貢ぎ物は、昨年の二倍の金額をかけてこられたようです……」
貢ぎ物にかける金額や量を減らすよう各国と調整してきた宰相は、貢ぎ物のリストを見て、暗澹たる思いだ。
こんなに金をかけられたら、こちらもそれ以上に金をかけなければならない。
しかし、今回は仕方がない。
エル・ヴィッカの戦い後、ドウルリアを攻めようと女王は言った。撤回したとはいえ、ドウルリアとしてはそれで済む問題ではない。
貢ぎ物の量を増やすことで、疑いを解いておきたいところなのだろう。
――事実はともかくとして。
女王は謁見の間の玉座で宰相の発言を聞きながら、隣に愛竜ギーをはべらせている。
ずらりと並んだ臣下の中から、老臣が前に出た。
「ところで陛下、その使者のオレリアン様について、何か知っておられるか?」
「……? ドウルリア国王の政務を助ける、優秀な弟だと聞くが?」
老臣はにんまりと笑む。
「それがもう、大変な美男子だそうで」
女王は一気にげんなりとした顔をする。
「そうかそうか。それはお嬢さん方の眼福になるな。よかったよかった」
おざなりな女王のあしらいに、老臣はむきになる。
「真剣にお聞き下さい! どのようなことが暗に匂わせられているか、おわかりでしょう! ドウルリアは結婚を申し込んでいるのではなく、愛人でいいと言っているのじゃ」
「あああ愛人!?」
宰相が頓狂な声を上げた。
「王弟ならば、正々堂々と結婚を申し込むのが普通。愛人とまで妥協し腰を低くして王弟を差し出すドウルリアとの関係のためにも、貢ぎ物と一緒に受け取っておくのが、得策かと」
ドウルリアの使者・オレリアンが特別謁見室に来る合図の、ラッパが吹き鳴らされた。
オレリアンとの謁見が済んで、女王は執務室で一人、ペンをすべらせていた。
部屋の前には兵士が立ち、扉が閉じている。
その重い扉を幽霊のようにすりぬけ、ぬっと現れた子どもがいた。
女王は顔を上げると、名を呼んだ。
「ギャンダルディス」
『……女王を続ける、だって?』
ギャンダルディスの顔は冷え冷えとしている。
『君はばかだよ。僕の言うことを聞かなかったのかい。君は王でいる必要はない。王国に、君は必要ないって。あんなに言ったのに』
「……何を言われようと、私は王を、もうやめない」
ギャンダルディスは小さな手を彼女の頬に伸ばした。
『痩せたね? それに睡眠不足みたいだ』
「……睡眠時間は、減ったな」
竜の幻影は書類の山を眺める。以前より格段に増えた書類。戦後処理の分、正月の行事のための分。
女王の手元にあるのは、戦死者の家族に宛てた手紙だった。……戦死者がどれだけいることか。それ全員のものを書いていたとしたら、時間がなくなるのも道理だ。
『自由なんてなくて、ぼろぼろになって、必要もなくて、それでも王を続けるって?』
「そうだよ。父上が託されたものだ。私は生涯、王でいるだろう」
『たかがあの男が死んだくらいで、何を言っているんだよ。あいつだって、君を必要として、王でいてくれと頼んだんじゃない』
「……それでも、父上は私に頼んだんだ。ギャンダルディス、もういいんだ。私は決めた。もう、二度と王をやめるなんて言わないって。……この話はこれで終わりだよ」
ギャンダルディスは苛立ちながら、なおも言いつのろうとしていた。
そのとき扉が開かれた。宰相だった。
「陛下、ドウルリアのことですが……」
他の人間にはギャンダルディスの幻影は見えない。
女王は、行け、と言うように少し顎を上げる。
苛立ちをますます募らせながら、ギャンダルディスは、部屋を出た。
ギャンダルディスは物音一つ立てずに歩いている。苛立ち、床を蹴るような歩き方であるが、幻影ゆえに音はない。
『悪巧みは失敗したようだな、ギャンダルディス』
くくく、と笑いながら声をかけたのは、窓の外の樹に腰掛けている、別の竜の幻影だった。
『久しぶりだな。覚えてないか? お前の親の、シルベストルだよ』
彼の身体はギャンダルディスをそのまま成長させたようなものだった。青年の身体で、黒髪はギャンダルディスと同じく足先まで長い。服装もまたギャンダルディスと同じで、ゆったりとすそを引きずるようなものだった。
一度歩みを止めたギャンダルディスであるが、面白くなさそうに、再び歩き出す。
シルベストルは風のように軽く飛び、窓から王城へ入り込む。そしてギャンダルディスの隣を歩いた。
『こうして会うのは何百年ぶりかな? 他の竜から聞いていたが、本当に、無意味としか思えないことをしてるんだな。さっきのアレが、人間の王なんだよな? アルマンとは違うなあ』
『……何の用があるの? まさか本体が近くにはないよね?』
『本体は北の大陸。ここに来たのは、ただの暇つぶしさ。お前の邪魔をしに来たわけじゃない。……と言っても、邪魔するも何も、お前の悪巧みはうまく行かなかったじゃないか』
ギャンダルディスは王城の端のテラスまで来ると、そこから身を躍らせ、猫のように地面に降りる。シルベストルもそれにならった。
ギャンダルディスは庭園を歩く。目指すは本体のいる、竜の丘だ。
『他の竜にも重々伝えておいて、シルベストル。この王城近辺には、本体を絶対に近寄らせるなって』
シルベストルは寒々しい葉一枚ない枯れ木の下で、歩みを止める。
『ギャンダルディス、お前はあの女王を全部食べたいのかい?』
呼びかけるようにして、シルベストルは尋ねた。
竜の丘を目指していたギャンダルディスは立ち止まり、振り返った。
子どもの姿に似合わぬ、凄みを利かせた表情で。
『ああ。僕はレイラを食うよ。皮も、肉も、骨も、何一つ残さず、全部僕が食べてやるんだ――邪魔をしたら、許さない』
ギャンダルディスの青い目が、ぎらぎらと輝く。
自らの子を見ながら、シルベストルは苦笑する。
『やっぱりお前は、竜族の中でも異端者だよ』
『……僕の言うことは、許されない?』
『いいや。我ら竜は、人間とは違う。無意味な同族間の戦争もない。どんな異端な意見だろうと、迫害せずに聞き入れる。正直、お前の意見は理解しがたいけれど、君もまた同胞の竜だ。最大限、お前の意見と望みは許されるだろう。望むとおり、アルマンの末裔を、来るべき時、全て、食べるがいい』
「陛下、ドウルリアの王弟・オレリアン様のことですが……」
女王は扉をしばらく見ていたが、宰相に視線を戻した。
「ああ。あの評判通りの美男子な」
ぴくり、と宰相のこめかみがひきつる。
先ほど謁見したオレリアンは、確かに、見目麗しい青年であった。金髪は太陽の光を集めたように輝き、甘いマスクで微笑む。
「……で、その、あ、ああ愛人のことですが……」
「そのことだが」
女王は宰相の言葉を遮った。
「一切、お前に任せる」
「任せるって……」
「よく聞いてくれ。私は今後全て、外交に関わる権限を、宰相に委譲する」
「ちょっと待ってください、どういうことですか」
「つまりお前が戦争をするというなら戦争開始。友好関係を築くとするなら、相手国と仲良くするための手だてを取る。今回の件で言えば、ドウルリアとの友好関係を磐石のものとしたいというなら、オレリアンを私の愛人にするよう、命じればいい」
「そんな! 陛下の考えはどうなのですか」
「私に意見を求めるな。いいか、外交に関して、私は何の命令もしない。戦場へ出ろと言うなら出る。結婚しろというならする。私は意見を言わない」
かたくなな話であった。
「……オレリアン様を、愛人に迎えても、いいんですか」
先ほどの発言どおり、女王は何の意見も言わなかった。
もどかしい気持ちだった。女王が何を望んでいるか、わからない。
「……なら、私が、オレリアン様を陛下の愛人にするよう決めたら……陛下はそれでいいのですか……?」
宰相の望む答えは決まっている。こんなふうに訊く自分が愚かだと、わかっていつつも訊いてしまう。
期待する答えを待ちながら、反対の答えが返ってきたらどうしようと思う。
女王は目を伏せた。
「いいよ」
「!」
足が震えそうになった。
「そっ、そうですか」
言葉は棒読みになる。
簡単に、ごく簡単に認めた……。
呆然として、何の言葉も出なかった。
鋼のように重く、針のように痛い沈黙が落ちている。
ぽた、と何かが落ちる。
女王の座る執務机の上。水滴がこぼれ落ちている……女王の頬をつたって。
「!」
「お、お前が、いいって言うなら、いい。わ、たしに、愛人を作らせても構わない、って言うなら、お前がそう、言うなら……」
顔を伏せた女王に、宰相は近寄る。だが、どうやって誤解だと知らせるか、どうやって慰めるか、考えあぐねている内に、扉が叩かれ、開かれた。
「……おや、陛下だけでなく、宰相殿も?」
入ってきたのは、宰相が一番見たくない男だった。
甘く優雅に微笑む、オレリアン。
執務室の一種変わった雰囲気を感じ取り、オレリアンは見回す。
「……お邪魔でしたでしょうか?」
「いや、構わない。それで、オレリアン殿、何の用で?」
女王はぐい、と涙をぬぐい、立ち上がり、機敏に彼に近寄った。
オレリアンは不用意に近づいた女王の手をすくい取り、身体を折り曲げ、唇を落とす。
「ブレンハールの女王陛下。ぜひ、個人的に二人でお話ができればと」
「……すまないが……」
「ドウルリアから持参しました、珍しきものもご用意させていただいております。ぜひ」
オレリアンは唇を落とした彼女の手を持ち続けている。女王は再び、「すまないが」と言おうとしたが、オレリアンの後ろから、老臣たちが顔を出した。
「それはよろしいことですな! さあさ陛下! ぜひ二人で歓談を!」
「そうじゃそうじゃ!」
女王は彼らの圧迫に、「わかりました」とうなずいた。
オレリアンは優雅に女王の手を引き、老臣たちの間を通って、部屋を出る。
「そんな、ちょっ」
宰相が言いかけたら、ぐるりと老臣たち全員が宰相の方に向き直る。
「宰相。女王陛下が愛人を作ってもいいんじゃろ? さっき扉の向こうから聞いたぞ」
「なっ、それは、私がそう決めたら陛下はどうするか、と訊くつもりで……!」
「陛下はいいと言ったじゃろうが。な、ら、ば、おぬしが二人を邪魔する権利はないよのう? 陛下自身もいいと言っておるのだから、なあ?」
「……!」
ふぇふぇふぇ、と老臣たちは互いに顔を見合わせ、笑い合った。
宰相は図書室にいた。ここはいつも静かである。
本の匂いが満ちあふれている。
長椅子に座り、小さな丸いテーブルに向かい、仕事をしている。広い四角いテーブルもあるが、備えられた椅子があまり好きではない。こういうのは好みの問題だろう。
普段の仕事は、もちろん執務室でやる。
しかし、今、宰相は気分を変えたかった。
執務室でしていると、能率が悪くなっていた。理由は、女王とオレリアンのことを想像するためである。
その想像はどんどん悪い方向へ向かうので、宰相は気分を変えるために、図書室に来ている。
報告書に目を通しながら、サインを書き入れる。
サインを書き入れる欄が別にあって、それは女王のための場所だ。
「こんなところにいたのか」
大剣の音をさせ、女王が近づいてきた。
宰相は立ち上がる。
いつの間に、図書室にいたのだろう。
いや、それよりも。
「……オレリアン様は?」
女王は一人である。楽しく歓談中であったのではなかったか?
「適当に相手をして、抜け出してきた。なぜだか部屋の外で臣下達が覗き見をしていたようだから、そいつらに歓談の相手を変わってもらった」
覗き見をしていた臣下とは、あの老臣たちだろう。
「彼らが……簡単に相手を変わったんですか?」
オレリアンと女王の仲を取り持とうとしていたようなのに、女王を抜け出させたのか?
女王は苦笑する。
「ちょっと無理やりに出てきたんだよ。オレリアン殿には悪いことをしたが」
無理やり。多分それは、全然『ちょっと』ではないのだろうなあ、と宰相は確信している。
女王は宰相の隣に座った。
処理し終わった書類を見る。女王のところへ回されるものもいくつかある。
女王はそれを取り、ペンを求めた。そして読み終わると、宰相のサインの上に自分のサインを書き記す。
どうやら隣で仕事をするつもりらしい。
ここ最近の女王は、休みなく働いている。……彼女の父親の、エミリアンが死んでからだ。
何度か休養も必要だと言ったのだが、彼女は聞き入れない。迷いなく女王としての仕事に集中している。
隣で仕事をする彼女は、ときどき疲れを払うように、首を振る。
しばらくしてから、重みがかかってきた。
女王が目を閉じ、寄りかかっていたのだ。
驚きながら見ると、女王は、はっと目を開け、ごしごしと目をこする。
「あ、ごめん。油断してた。つい……」
彼女の睡眠不足は、習慣病になっている。
図書室は大きな窓があってそこから光が差し込み、冬にしては温かい。静かでもあるから、眠りたくなるのはわかる。
「少しくらい眠ってもいいですよ」
そう優しく言ったのは、先ほどの寄りかかってくる身体の柔らかさが忘れがたかったから、という不純な動機もあるが、彼女の身体を気遣ってでもある。
女王はとろんとまぶたを下げる。
「……じゃあ、少し、だけ」
女王はもう一度目を閉じる。かかってくる重みを感じながら、宰相は報告書に目を移す。
静かで安らかな寝息が聞こえてきたのは、すぐだった。
その寝顔は責務に追われ隙を見せないようにしている表情より、はるかに幸せそうで優しいもの。
いい夢でも見ているのだろうか。
起こさないように、かつ長椅子から落ちてしまわないように、慎重に彼女の身体を支えようとした。
「…………」
息を呑む気配を感じて、扉の方を見た。
そこにはきらびやかな男がいた。鮮やかな金髪の、甘い顔の男――オレリアン。
「し、失礼。陛下を探していたのですが……」
大きな声の彼に、宰相は口の前に人差し指を立てた。
女王が起きてしまう。彼女は眠りが浅いタイプだ。仮眠をしているのを見たことがあるが、ちょっとの声で起きるのを何度も見た。
しかし今回は気づかなかったようで、すやすやと眠っている。
ほっとして、彼女の髪を撫でる。
そんな宰相を、オレリアンが何かを考えながら見ていた。
その日の深夜。
王城の北の後宮で、足音があった。
後宮は現在、女王が寝所としている他、住人はいない。
王の寝所は後宮の他にあるのだが、彼女は騎士団に入団するまでここで育ったもので、いつも後宮の寝所に眠る。
後宮を歩く影は、静かに、音をたてないように注意して、歩いていた。
その影が、女王の寝室の扉を外から開ける。寝所の前にいる兵士は壁にもたれかかりながらぐっすり眠り、気づかない。
侵入者は部屋に入り、足を止めた。
「何用かな?」
部屋の主が、侵入者にそう呼びかけた。
寝ぼけたところもない声。寝所にはテーブルがあり、火の点いた燭台がある。それを前に、優雅に椅子に座っている女王。ろうそくの火に照らされた彼女は寝間着に着替えている様子もなく、明らかに、侵入者を待っていた。
彼女の驚きもないはっきりとした問いに、侵入者は苦笑した。
「夜這いに」
微笑んで、扉を閉ざす。
そして寝所の奥、彼女の側へ近寄るよう、侵入者たるオレリアンは歩を進めた。