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翼なき竜


 13.英雄の場(1)


「宰相閣下! 南のジャキヤ地方で洪水です! 領主から救援の求めが!」
「閣下! 旧ラビドワ国領地の、カプル国との分割協議ですが……」
「逃走したラビドワ国王族が見つかったと……」
「商人たちから、関税を引き下げてほしいとの嘆願書が……」
 宰相の執務室は、王城で最も忙しい部屋となっていた。
 紙が舞い、人があふれる。
「分割協議の報告書はそこに置いておきなさい。関税引き下げの嘆願書は見ておきます。もう少し待つよう伝えるように。ラビドワ国王族はその場で留めておきなさい。洪水の件は、物資の支給を」
「領主は、王軍の派遣を要請していますが」
「王軍の派遣の権限は、女王陛下にあります。宰相の私にはできません」
 苦しい顔をする宰相は、こぶしを強く握りしめた。
 宰相はひとつひとつ判断を下し、できる限りの命令をしていったが、その命令にも限界があった。先延ばしにするためのものばかりだ。
 宰相と王とは、権限が違いすぎる。
 国の大事をなす事柄についての判断は、王に委ねられている。王権を守るためには、宰相は苦しい先延ばしをするしかなかった。
「宰相閣下、限界です! 関連部署で、問題が続発しております!」
 国王絶対主義体制を築いたのは、女王の父・エミリアン先王である。20年の在位の間に、国の体制は、王なくしては動かないように作り変えられた。
 そう。王なくして、この国は立ち行かない。
 そんな体制なのに、女王は政務を一切しなくなった。
 退位する、と言って。
 だがそれを、はいそうですか、と受け入れられるはずがない。エル・ヴィッカの戦いの英雄たる彼女が急に退位するなんて、誰もが認められるわけがなかった。
 それに何より、次の王の問題だ。
 女王には兄弟がいない。先王にはギョームという弟が一人いるが、彼は女王との王位継承戦争に負け、北の塔に幽閉されている。彼はそのとき、王位継承権を失った。そしてギョームには子どもはいない。
 現在、直系の王位継承者が存在しないこととなる。
 そんなとき王位はどうなるか、法の文言では、北に広大な領地を持つ、ゴセック家から王位継承者を選び出すことになっている。ゴセック家の遠い先祖は、人竜戦争のときに和平を築いたアルマン王の弟だ。
 女王から急に退位するとの話が出て、一番驚いたのが、ゴセック家の人々だった。
 ゴセック家はのんびりとした領地経営をおこなって、王位だとか謀略だとかとは無縁で平和な生活をしていた。だから急に次の国王を出せ、と言われても、領主自身が固辞するし、息子たちも震え上がるし、まさか何かの罠なのでは、と家中が混乱の渦と化している。
 宰相としてはありがたいことだった。
 次の王が決まらないうちは、女王は女王であり続ける。
 女王が退位するとは、おおやけに発表はされていない。だが、王城ではかなりの噂となっている。女王が政務を執らないことで、大きな影響が出ているのだから、当たり前だ。
 ……けれど、そんな噂だってどうにでもなる。女王が再び女王として働くようになれば。
 次の王が決まらない間は、説得する時間がある。
 ……ゴセック家が混乱の渦にあるとの報告を聞いたときは、宰相はほっとしてそう思えた。
 しかし、女王はあくまで退位するつもりのようである。
 彼女は、王城から、ほとんど姿を見せなくなったのだ……。
「女王陛下を探しなさいと言っているでしょう! 兵は何をしているのです!?」
「ま、街から外へ出ていないのは、確実です。ですが、どこの宿屋を探しても……」
「城下をくまなく探し回らせなさい! ……私も探しに、城下へ……!」
 宰相は苛立ちながら立ち上がる。
「閣下、お、落ち着いてください」
「何が落ち着いていられるんです! 女王陛下が見つからないんですよ!?」
 部下たちは、心配そうに宰相の顔を見る。
「私たちが探させますから。……宰相閣下、お疲れでいらっしゃいます。睡眠時間もあまりとっておられないのでしょう? 少々、お休みになってください」
「休みなんて……!」
 と言いつつ、宰相は部下の言うとおりであることを自覚していた。身体が重い。頭が痛い。
 このままでは重要案件があっても、へたな判断を下しそうで怖い。
 宰相はもう一度椅子に座り直した。
 顔を上げて、目許をほぐす。
「……これ、宰相閣下の館の方が、閣下に渡すようにと預かった、手紙です。どうぞこれを読んで、政務から離れて、落ち着いてください」
 部下がすっと手紙を差し出す。
 そういえば、最近館には帰っていない。就寝前に届けられた手紙を読むのが習慣だったが、それも最近していない。
 手紙の裏を見てみると、宰相の目が見開かれた。
 急いでペーパーナイフで開け、中の便せんを開く。
 それは、兄のラシードからのものだった。
 東のイルヤス家の領地を受け継いだ兄。子どもの頃は病弱だった兄。
 子どもの頃を思い起こさせるようなやさしい昔話が前菜としてあって、明るいニュースがメインに書かれていた。
 兄が結婚するという。
 以前父のサラフが来たとき、結婚をしぶっていたというが、その父の勧め、そして宰相が望んでいると知って、結婚することを決意したと。
 年が明けたら結婚するとか。
 宰相は知らず知らずのうちに、微笑みを浮かべていた。
 ここ最近で、最も嬉しい話だ。
 宰相は昔、イルヤス家の領主継承問題で、兄と微妙な時期があった。
 普通なら兄が受け継ぐのが当然で、次男のイーサーにはまったく関係ない。
 しかしその兄が、病弱だった。大人になるまで生きられないだろうとも言われていた。
 だからこそ、イーサーに次の領主を、と言う人も親族には少なからずいて、それが当然だとさえ思う人たちもいた。
 イーサーは領主となることを意識をして、領地経営、財政について学び、そして莫大な財政赤字を解消することまで成し遂げた。
 しかし、兄は病気から回復した。不治の病だと言われていたが、治療法が見つかったのだ。
 そのとき、二人の兄弟は微妙な関係となった。
 二人の兄弟の思惑を越え、親族間で、やはり長男だからラシードに継がせるべきではないか、いやイーサーもこれまでがんばってきたのだから、しかしそれは次男としては出過ぎたまねではないか、と、議論が紛糾した。
 これまでしてきたことがラシードの重荷となり、立場を辛くすると知ったとき、イーサーは領主とならないと宣言し、家を出ることにした。
 ちょうど財務顧問にならないかとの話が出たから、王城へ向かうことにした。時期がよかった。ただ家を出ると言ったら、ラシードは自分のせいだと責めるだろうから。
 それが最後に兄を見たとき。生まれ育った東の領地――険しい山々がどこでも見える場所、石造りの家々の町、羊のいる村――を最後に見たとき。
 ラシードは言った。
『お前は理想家だから、いつか現実の辛さに向き合って、心が折れてしまわないか、心配だ』
 権謀術数の極地、王城へ向かうイーサーに、そう心配する声をかけた。
 兄はやさしい人だ。だからこそ、イーサーは快く全てを譲ることができた。
 ――その兄が、結婚する。
 手紙を読みながら、宰相は心から嬉しそうに笑う。
 兄の手紙は、お前が式に来れないだろうことが残念だ、とあった。
 宰相も残念だ。
 年明けがどうなっているかはわからないが、どうなっても、東の領地に帰るつもりは二度とないから。
 自分は家を出た。イルヤス家にとって、いてはいけないと思ったから、家を出た。生半可な決意をしたつもりはない。
 兄の居場所は、イルヤス家にしかない。これからは結婚し、多分子どもができて、そして次世代のイルヤス家の系譜を紡ぐことだろう。
 そして宰相の居場所は東の領地ではなく、この王城にある……。

「閣下! 朗報です!」
 扉が急に開かれる。
 しんみりと思い返していたイーサーは、きりっとした『宰相』の顔となる。
 あまりに人の出入りが多すぎるもので、ノックをされることが最近ない。宰相も注意をする暇さえなかった。
「女王陛下が見つかりました!」
「! どこですか!?」
 その答えは、意外なところだった。
「エミリアン様のお部屋です。お見舞いに訪れたようです」
 探し回っていると知っているだろうに、王城内に戻ってくるとは大胆な。
「絶対にそこで留めておいてください! 私も向かいます!」


 先王エミリアンは、広いベッドで半身を起こしていた。
 カーテンが閉められて、明かりが乏しい。おかげでかけられている絵画も緻密なカーペットの図柄も、あまり見えない。
 げっそりと痩けたエミリアンの頬を見て、女王は沈んだ顔をした。
「父上……お痩せになって」
「……女王陛下よ、わざわざ父の元へ来るなと、玉座を譲ったときに言っただろう。王は絶対なのだ。王が誰かの元へ出向くなど、あってはならん。誰もが王の元へ出向かねばならんのだから。陛下が会いたいと言うのなら、わし自ら出向いた」
 女王はゆるく首を振った。
「私はもう、王ではありません。身体を悪くされていると知って、どうして出向くように言えるのですか」
 エミリアンは女王退位の噂は知っていた。
 それでも、娘の口からそれを聞き、憤慨した。
「王ではない、だと? 何を馬鹿なことを言うのだ。王であって、何が不満足だと言うのだ。満足できないものがあるというなら、全てお前の思うとおりに変えてしまえばいい」
「……私は、私を変えられません」
 エミリアンは、それこそ鼻で笑った。
「なぜ王が変わらねばならん。王が変わらねばならんことなど、何一つない。国は王のためにあるのだ。王は神だ。誰よりも公平で、誰よりも正義、誰よりも厳格。不都合があるなら、国を変えればよい」
 女王はまぶしそうに目を細める。
 そう、王は神だ。
 その王が王をやめるなど、あってはならないのだ。誰よりも満足を得られる地位なのだから、王が満足を得られずやめるなど、あってはならない。王を一片も否定してはならない……たとえ王自身であっても。
「父上は、いつも自信がたっぷりおありなのですね」
「当たり前だ。わしは20年、正しく公平な王であったのだ。誰にも否定されぬ」
「……でも、私は」
 女王はうつむく。
 なぜ王がうつむく必要がある。ただ胸を張っていればいいものを。
 静かな部屋に、こんこん、と扉を叩く音があった。
「宰相閣下がお越しになられました」
 入ってきたのは、いかにも走ってきたといわんばかりの男だ。
 青銀の髪が少しほつれている。蒼い瞳は、女王を食い入るように見ていた。
 ……あの日、女王に手を上げた男――!
「貴様! まだ宰相であったか! 兵を呼べ! すぐに殺せ!」
 エミリアンは激高し、叫ぶ。
 そんな女王は、彼をなだめた。
「父上、やめてください。彼を殺す必要はありません」
「必要がない!? ばかな! 女王に触れることはおろか、手を上げたのだぞ! 殺すのに十分だ!」
「父上。私自身が、女王である私が、いいと言っています」
 女王の言葉はきっぱりとしていた。
 エミリアンは詰まる。王の言葉は絶対だ。
 だが腹の底で怒りが渦巻くエミリアンは、王に手を上げた存在をそのままにしておけない。
「……なぜ生かす。即座に切り捨てれば済む話だ。代わりなどいくらでもいる!」
「いません。……私は、父上のようにはできないのです」
 女王は泣きそうな声だった。
「父上のように一人で正しく決断し、一人で公平でいて、一人で厳しくあれたなら、どんなによかったか。六年……王でいました。それで学んだことは、私は一人で王でいられないことです。父上のようにいられないんです」
「それは周囲にいる連中が悪いのだ。お前は王なのだ。王は正しい。王以外に自らの考えで動く者など、必要ないのだ」
 女王は何度も首を横に振った。
「私は……父上のような王には、なれなかった」
 エミリアンは娘の強情さに目を剥く。
 娘はいつでも父に対して従順であった。父を一心に信頼し敬愛する娘を、エミリアンは愛していた。
 王座を譲るときには、きっとこの娘は父と同じ考えで父と同じように国政を動かすことと思っていた。
 そうなされなかっただけでなく、王をやめるなどと言う……エミリアンは許せなかった。
 国政の担い方に関しては、百歩譲ろう。王の判断ならば。
 しかし、王をやめる、などという言葉が許せなかった。王の否定は、絶対に存在してはならない。
 なぜ、なんて疑問はない。それは絶対の真理だから。
 王は神。神の否定が許されないように、王の否定も許されない。
 エミリアンは娘の肩をつかもうと、手を伸ばす。
 だが女王は離れた。
「父上、また見舞いに来ます」
 女王は背を向けた。
「陛下、待ってください!」
 慌てたように、宰相が後を追う。
 エミリアンも追おうとした。しかし、病に冒された身体は思うように動かない。約十年、この病と共にあったが、このときほど恨めしく思うことはなかった。


「陛下、待ってください!」
 女王は廊下を颯爽と進む。
 扉の前の兵士に、
「扉を閉じなさい!」
 と宰相は命じた。
 慌てて兵士は閉ざす。しかし女王が、
「開けろ」
 と言うと、兵士は二人にきょろきょろと目を向けながら、結局扉を開けた。
 万事その調子で、女王は簡単に王城から出て、馬車に向かう。
 逃げ回っているのに王城に来るなんて、と思ったが、それは間違いだったと気づき、宰相は舌打ちする。
 そうだ。女王はこの王城の主。宰相の命令より女王の命令が優先されるようにできているのだ。
 城下に潜伏して、たとえ兵士に見つかったとしても、女王が黙っていろと命じるなら、そうする兵士もいるだろう。
「……待ってください、陛下」
 女王は馬車の前で振り返った。
「私を留めていたいか? ――だったら私を退位させてしまえばいいんだよ。王でなくなれば、いくらでも命令するがいい。ゴセック家にせっついて、次の王を決めさせろ」
 それではまったく意味がない。
「陛下が女王として元通り仕事をしていただければ済むんです! 私が、補いますから!」
 女王とエミリアンの話を聞いて、宰相は考えた。
 一人で正しく公平で厳しくいられる――神のような人間なんて、どれだけの数がいるのか。
 宰相であるということは、神でない人間の王を補うことではないか。
 諸国征服を命じた彼女は悔いていたが、それは、彼女を補うべき宰相の咎でもあった。責めて済む話ではなかった。
 女王は黒い双眸で宰相を見上げる。
「……今更、元通り、なんて言うのか。そんなことができるものなら……『元通り』……そんなことができるものなら……」
 女王は自嘲気味に遠い目をして笑いながら、馬車に入っていった。
 そしてそのまま、馬車は走ってしまった。




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