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翼なき竜


 12. 無翼の雨(2)


 秋だけあって、雨は冷たい。人間ならば、すぐに体温を奪い取ってしまうだろう。
 ギャンダルディスは、目の前の彼女に、木の下へ入れと言ってやりたかった。だが、せっぱ詰まった問題があり、それどころではなかった。
「ギャンダルディス、聞こえない! 起きているか!? 私の言葉が聞こえるか?」
 竜は目を細める。
 しっかりと、いつも通りに言ったはずだ。
 だが聞こえなかったとなると……。
 雨の打ち付ける音も激しくなってくる。余計に聞き取りにくいだろう。
 竜は尾を振った。木の幹に打ち付ける。木は揺れて葉がはらはらと落ちてきたが、竜の身体からも、うろこが一枚はがれ落ちた。
 透明さのあるうろこは、色を変えながら落ちてゆく。
 地面へと落ちたとき、そこから人の姿がぬっと現れた。頭、顔、肩、腕、胸、腰、足……と、徐々に地面に落ちたうろこから、身体が浮かんでくる。
 背丈は女王の胸ほどの、子供だった。
 黒髪が、地面へとつくほどに長い。
 服はゆったりとして、袖が長く、すそを引きずる。布自体は上から下まで同じ布で、これもまた黒い。茶の細い帯で腰を締めている。
 足下に視線を下ろし、姿が出てきたうろこを手に取る。
『この人間型の幻影は見えるかい? 声は聞こえるかい?』
 女王は目を大きくして、激しく首を縦に振る。
「見える! 聞こえる! わ、私の竜の翼は残っているか……?」
『最後の最後、ぎりぎり、残っている。……もはや、再生能力すらないようだけどね……』
 再生能力どころか、竜の言語を聞きとらえる能力も減退している。
 ギャンダルディスはレイラの竜のいる頬に触れた。どの指の爪も長く、先がとがっている。触れ方によっては、簡単に彼女の肌を傷つけそうである。
 頬の竜は、かすかに、片翼の跡が残っている。
 ――本当に、ぎりぎりだった。
 翼がない竜というのは、同族として見て、痛々しい限りだ。いや、痛々しいと思っているうちはまだいい……。
 ギャンダルディスは長い爪で、自身の手のひらを傷つけた。赤い血があふれ出す。
 幻影にもかかわらず血が出るということを、昔レイラは不思議がっていた。
 結局のところ、これは正確には幻影ではない。血肉を分け与えた分身のようなものなのだ。
 血が付いた爪の先を、レイラの頬――片翼の跡に当て、なぞる。なぞればなぞるほど、血が広がる。
 彼女は黙って耐え、ギャンダルディスが手を離したときには、血で片翼が描かれていた。
『我、竜族の一、ギャンダルディス。弱り病む眷族・レイラ=ド=ブレンハールへ、血をなかだちに、力を分け与えん』
 そう唱えると、女王の頬の血は肌に取り込まれてゆき、元の通り、片翼のあざができあがったのである。
 女王が頬をこすっても、血はどこにもない。ギャンダルディスの持つうろこを鏡代わりにしてみても、そこには片翼の竜がいる。
 女王はほっと息をついた。
 しかし、徐々に彼女の表情が固くなった。
 雨が打ち付ける。だがぐっしょりと濡れるのは女王だけだ。ギャンダルディスの人型は、雨に濡れない。
『レイラ、木の下へ。濡れるよ』
 女王はその場で立ち続ける。
 固くなった表情は、青さを通り越し、白くなった。
「私は、なんてことを……」
『…………。ようやく、正気に戻ったかい。記憶は全部残っている?』
「ああ。全部……」
 うつむき、顔を覆う女王。
「私は……たくさんの人を殺した……」
『うん』
「お前も、たくさんの人を……食べたな……」
『食べてはいないよ。たくさん人がいたから、せいぜい爪や牙で傷つけた程度。それでも死んだ人間は多いだろうね』
 血がしみつき、けして薄れることがないほど、彼女と竜は戦いの場にいた。
 運が悪かった。
 頬の『泰平を築く覇者』の印は布で覆われ、戦時中はほとんど見れなかった。徐々に消えゆく片翼を見れば、彼女は我に返れただろう。これほどまでに翼の消失を早めなかっただろう。
 運が悪かったのだ。……と言っても、彼女のなぐさめにはならないかと思い、ギャンダルディスは言わない。
「私は……王失格だ……」
『そんなことはない。王失格と言われる人間はいないさ。賢王も王なら、愚王も王なんだから』
 ギャンダルディスは明るく言ったが、彼女は顔を覆いながら首を振る。
「私は、愚王になるために女王になったんじゃない! 『泰平を築く覇者』……そう呼ばれるにふさわしい王に、なりたかったんだ……! 立派で、父上のような、素晴らしい王に、なりたかったんだ……! こんな、自分勝手な欲におぼれ、意味もなく戦争をしようと言う王なんかでは、断じて……!」
 女王は泣き崩れそうだった。
『仕方ないさ。君が片翼である以上、これからも愚かなことをして、愚かなことを言うよ。愚王にしかなれないよ。それに、翼は完全回復したわけじゃない。僕の力をちょっとあげただけ。翼自体は、もうぼろぼろ……後はないよ』
 秋雨は激しさを増す。
 女王は顔を上げた。栗皮色の髪はぐっしょりと濡れ、しずくが落ちていた。
「そんな王で、いたくない……」
『それなら――』
 ギャンダルディスは、子供らしい笑みを浮かべた。

   *

 女王を追ってきた宰相は、竜の遊び場までたどり着いた。ここを管理し守っている者に聞くと、制止も聞かず、女王は愛竜のギーに会いに行ったという。
 宰相はロルの粉を振りかけてから、竜の丘へ向かった。
 ここは、女王と竜が会えて遊べるところを、と、作られた場所である。
 ときたま女王はここへ来ているようだが、宰相自身は、来たことがなかった。
 丘を登ると、雨にただ濡れている女王の後ろ姿がある。凱旋のときにはためいていた黒いマントは、だらりと下がっている。人の姿は他にはない。
 走るスピードを上げて近づくと、木の下に竜がいるのが見える。思わず恐怖で、身体がこわばった。反射的反応だ。
 ロルの粉を振りかけている。竜には襲われない。
 でも……女王には襲われるかもしれない。
 呼び止めれば、話をする間もなく、大剣で斬られる可能性がある。――死。
 宰相は静かに深呼吸して、心を落ち着ける。
 そして、声を出した。
「女王陛下!」
 彼女は振り返った。
 先ほどのような歪んだ表情を思い浮かべていた宰相は、いつも通りの静かな彼女の表情に面食らう。
 そして、頬には片翼が――あった。
 あれ……さっきはなかったのに……。見間違い……?
「倒れられた父上は……?」
 ぼんやりとまず、彼女は先王のことを尋ねた。
「セリーヌ様いわく、いつもの発作とのことです。私は陛下をすぐに追ってきたもので、現在の状況はわかりませんが」
「そう、か」
 女王はうつむく。ぽたぽたと雨滴が前髪から落ちる。
 意を決して、宰相はひざまづいた。
「陛下、どうかお聞き下さい。戦争をすることを取りやめてください」
 女王は黙している。暗い雲の下で、今、彼女がどんな感情を持っているのかわからない。
 心の臓がつかまれているような気がする。宰相は早口で、切実に言った。
「いたずらに戦をしかけることは、決して国益に叶いません。隣国に攻め入り領地を手に入れても、もろもろな費がかさみ、益とはならないのです。それ以前に、殺すために戦争を仕掛けるということは、絶対に、やめてください」
 雨は激しいままである。
「玉座にいて見下ろしていたら、人というものはみな同じ、ただ平伏するだけの存在だと思えるかもしれません……だけど、人は、一人一人、違う人生を歩み、違う考えをもって生きているものです。換えはきかないものです。その命を軽んじないでください。陛下はよく城下に降りているでしょう? そこで生活している人々は、陛下と同じ人間なんです」
 宰相は地に手をつけながら見上げる。
 暗い雲の下、雨に打ち付けられながら見下ろす女王の頬には、片翼の竜がいる。
「たしかに、陛下は『泰平を築く覇者』で、普通の人とは違います。でも、お願いですから、他の人を取るに足らない存在だと、決めつけないでください。……国民を、愛してください」
 雷光がひらめく。二拍して、重い音が鳴り響く。
 宰相にできるのは、ここで言葉を振り絞ることだけだ。思いとどまってもらうため、自分の正義を口にすることだけだ。
 兄のラシードは、宰相が王城に向かうとき、最後の別れのときに言っていた。
『お前は理想家だから、いつか現実の辛さに向き合って、心が折れてしまわないか、心配だ』
 と。
 折れるわけにはいかないのだ。
 理想と信念を、捨てるわけにはいかないのだ。
 ――宰相は、女王のことが好きだった。美しい姿に一目惚れした。
 微笑んでくれれば嬉しかったし、頼ってくれても嬉しかった。
 女王の望みは叶えてあげたいとも思っていた。
 だけど――自身の政策と対立するならば、宰相は意見を言ってきた。彼女は人の意見を聞き入れられる人だと思っていたから。むしろ、彼女は意見を言われることを望んでいた様子でもあったから……。
 でも。
 宰相は、先ほどの女王の言葉に、正直失望した。あんな言葉を言う人間だとは、思わなかった。
 あまりに失望が激しすぎて、まるで違う人間の言葉を聞いたような錯覚さえ起こっている。とても、信じられない気持ちで一杯だ。
 いや、信じたくないのか? この現実を直視したくないのか? これが、心が折れるということなのか……?
 女王は、ゆっくりと足を折って、宰相の肩にそっと手を置いた。
「お前の信念、よくわかったよ。ちゃんと、伝わったよ」
 手が温かく感じられた。
 女王は厳かにうなずいている。狂喜して笑っていた同じ顔とは思えない。
「先ほどの私の発言は、全て撤回する。ドウルリアへ攻め込むのもなしだ。もちろん、諸国への侵攻もしない。私の言葉全て、聞いた者に詫びよう」
 ずっと締め付けるように緊張していた胸が、緩められた気がした。
「……ありがとう、ございます。死ぬ前にそれを聞けて、よかったです」
 もう、これで首に縄をかけられても、後悔は少ないだろう。
 女王は目を見開く。
「何を言っているんだ。どうしてお前が死ぬことに」
「どうしてって……だって私は、陛下に手を上げました。エミリアン様もおっしゃった通り、万死に値する罪でしょう……」
 いくら信じられなかったからって、失望したからって、人間としての怒りが湧いたからって、王に手を上げたのだ。死刑執行中に石を投げられても文句を言えない。
「そんなばかな。お前のおかげで助かったのに」
「え?」
「……いや、何でもないよ。死刑になんてさせない。もちろん、宰相もやめさせない。お前を殺させるわけがないよ」
 甘いささやきだった。
 女王は宰相の背に手を回し、抱きしめた。
 手と同様、彼女は温かい。雨の中、かすかに彼女の香りがあった。
 抱きしめ返したい衝動に襲われながら、宰相はそれをこらえた。
「……私は、助命を願うために、こういうときのために、陛下に好きだと言ったのでは、ありません」
 死刑にさせないと言ってくれるのは嬉しかった。手を上げてしまった当人に許してもらえて、胸の中にあったものが軽くなった。
 だけど、どう見ても王に手を上げるというのは、死をまぬがれない行為だった。
 それを私事でねじ曲げられては、自分の中に打ち立てた芯が、崩れてしまう。
 女王に好意を抱かれているだろうと、思う。
 その好意から死刑を赦されるというのは、その純粋な好意というものが、利用されるために存在するように思えた。
 政治でうまく動くため、何かあったときに助けてもらうために、告白したのではない。それだけはしないと、心の中でかたくなに誓ったことだ。
 でも今、自分の命を助けてもらえば、こういうときに利用するために言ったかのようだ。
 そうやって純粋なものが汚されるなら、まだ死刑を選びたい。
 女王は目を伏せる。自嘲気味なため息が聞こえた。
「……なるほど、私が私情を交えて、死刑を赦そうとしていると、そう思っているんだな? 王として、お前に死刑を科す必要はないと判断したとは、思わないんだな。……当然か。あんなことを言ってしまって、お前の中で、私の王としての信用は地に落ちたからな」
 女王は背に回していた手をはずした。
「そうだな、私だって、あんな発言をする人間が王だったら、国は終わりだと思うよ。クーデターを起こされても仕方のないことを言ったからな」
 彼女の発言は、自分のことを言っているとは思えない言い方だった。
「エル・ヴィッカの戦いで亡くなった国民は、怪我を負った国民は、ラビドワ国の人々は、さっきの私の言葉を聞いて、どう思うだろう。恨むだろうね。この犠牲は何だったのか、って。……あれは、無礼で許されない言葉だった。国民を守る王として、失格の言葉だった」
 女王は冷静で、心底悔いているようだった。雨がしたたり落ちる中、唇を噛んでいる。
 まるで、別人。
 本当に別人に思える。
「陛下……あなたは、さっきと変わりすぎてます。さっきはどうしたんですか? さっきは錯乱していたのですか?」
 戦争から帰ってきた人が、戦場でのショックで精神的に異常をきたすというのが、たまにある。
 女王は前線で戦っていたという。竜に乗り、最も血なまぐさく非常に耐え難いものを見て、戦っていたという。
 精神的に、かなりまいっていたのではないだろうか。
「さっきは、戦場でのショックで錯乱し、正気を失っていたのではないですか?」
 だってあまりに違いすぎる。
 今の静かに悔いている姿は、同じ人間とは思えない。
 それともこれも、見たいから見ようとしている幻想?
 女王は立ち上がった。背を向ける。
「……たとえそうだとしても、言ってしまったことは変わらない。たとえ私があの言葉を撤回しても、言ってしまったことは、あれだけの臣下達の耳に届いてしまったのだから。私がああいう考えをしていると、思われてしまったのだから……。そして、あんなことをもう言わないとは、私は否定できないんだ」
 雨は一時期の激しさは収まってきた。
 代わりに大粒の雨がぱらぱらと降りそそぐ。
「私はもう、自分を信じられない。一度あんなことを言ってしまった以上、私は自分を、信じることができない。なあ、そんな王の下で、そんな王の国に住みたいか?」
 宰相は立ち上がりつつ、一瞬つまってしまった。顔だけ女王は振り返っていた。
「お前の反応を見て、確信したよ。私は――王をやめるべきだって」
「え――王を、やめる……?」
「ああ。私は退位する」
「たい、い……!」
 徐々に、足下から衝撃が登ってくる。
 彼女が王をやめる。やめる、やめる――
「そんな……そんなこと……やめてください!」
 宰相は思わず叫んでいた。
「…………。なぜ?」
 女王はごく単純な問いを残し、竜の丘を降りる。
 宰相は追いかけた。理由も理屈も頭の中は追いついていなかった。だけど、やめてほしかった。それだけは強く思っていた。
 追いかける宰相の目の端で、竜が女王の決断に満足して、うなずいているように、見えた。




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