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翼なき竜
11. 無翼の雨(1)
街は浮かれ、沸き立っていた。
戦争に勝利したのだ。しかも、我らが女王陛下が率先して戦場で戦い、素晴らしい武勇を見せたのだという。これで浮き立たない方がおかしかった。
そして、その女王陛下が今日、帰還なされる。
街では今か今かと、陛下の凱旋を待っていた。
素晴らしい勝利、素晴らしい女王。
ただ一つ残念なのは、空は厚い雲がたれ込め、今にも雨が降り出しそうなことだろうか。
そんなお祭り騒ぎの街を尻目に、王城では宰相が、書類にうなっていた。
ラビドワ国軍は、予想よりはるかに多くの武器――それも最新鋭の――を所持していた。あきらかに別の国からの援助を受けていたのだ。
ラビドワ国が滅んだ今、その援助をした国というのが問題なのである。ひそかに、我が国に敵対しようという国――かなり重要な問題だ。
部下や間者に調べさせたところ、一つの国が浮かび上がった。
南方のドウルリア国。
我が国と同盟を結び、貢ぎ物をもたらす従属国である。
本当にそうなのか、さらに調べを進めているところだが、真実ならば外交上の大問題。
へたをしたら、さらなる戦争――……
「失礼します、宰相閣下」
扉が叩かれ、部下が入ってきた。
女王が街に到着したのか、祝勝会の準備に何かあったのか、と立ち上がる。
「エミリアン様とセリーヌ様が、正殿へお越しになられました」
神の右に人、左に竜、という神話の絵画が円い天井に描かれた正殿に、この場では珍しい人物が二人もいた。
セリーヌの服は西風のドレス姿で、頭はたっぷりとした巻き毛である。丸いふくよかな顔はつややかでしわもなく、御年50には見えない。さすが、苛烈に美を競う後宮内で生き抜いた人物である。
「宰相、お久しぶりでございますね」
彼女は手を差し出してきたので、その手を取って、軽く口づけた。
「はい、王太后様」
先王・エミリアンの正妻であるセリーヌは、女王即位以後、王宮の片隅で暮らすようになっている。病を得た先王と共に。
宰相は心配そうに、先王の姿を見る。
ステッキを持ち、巻き毛のかつらをかぶるエミリアンは、骨の上に皮をかぶせたようにやせ衰えている。彼が王であったときに発行された銀貨に描かれた姿とは、格段に違う。
「お身体の方は、大丈夫でしょうか、エミリアン様。無理をなされているのでは……」
「一日程度、もたぬものではない。娘が――女王が凱旋なされるというのだ。寝ている場合ではなかろう」
先王の言葉ははっきりとしたものだった。ただ、ステッキを持つ手は、常に震えている。
やはり、10年前からの病は、確実に彼をむしばんでいるようだ。
「……今回の戦、立派なものであったな。女王陛下の采配のすばらしさよ」
そうでございますわね、と王太后がうなずく。
「宰相よ、今後も女王陛下の命令をよく聞き、よく実行せよ。天はこの国の王に正義を与えた。臣下の第一としてすべきは、その王の言葉こそ正義であり真実だと、重々知ることぞ」
そうでございますわね、と再び王太后がうなずく。
宰相は何かがひっかかった。それは違うのではないか、と思いつつ、あいまいに笑っておいた。
王太后セリーヌはひとしきりうなずくと、宰相の顔をまじまじと見上げる。
「何でしょうか、王太后様」
「……いえ、宰相様と似たお顔を、昔見たことがあるような気がして……誰でございましたかしら……」
王太后は頭の中を探るように、目を細め、口許に指をもってくる。
「宰相の父は、東のイルヤス家のサラフだ。きゃつの妻は、確か15人の兄弟がいた。その親族のうち、誰か宰相に似た貴族がいたのだろう」
先王が口を挟む。
「正確には23人ですが、そうです。これだけ多いと、私自身会ったことのない親族も多いんです。もしかしたらその中の私と似た方と、王太后様が会ったことがあったのかもしれません」
自分と似た顔の人物がいるというのは、奇妙な気分だ。宰相となってから、急に親族として会いにくる人々を目にしたが、自分と似た人物、というのはお目にかかっていない。
ただ、伯父・伯母たちだけで23人。その子供である従兄弟となると、何人となるのか数えたこともない。
誉れ高い芸術の道を志した人物もいれば、罪を犯した人物もいる。
親族にもいろいろいる。そして大体はみな、貴族だ。その貴族が、王太后と会ったことがあっても、おかしくない。
だが、その当の王太后は眉を少しだけ寄せる。
「でも……私、貴族と会う機会はございましたが、それはほとんど、先王陛下と共にいたときでございますわ。常には後宮におりましたし。私が知っている貴族となると、先王陛下もご存じのはずでございます」
先王は不愉快そうな声で返した。
「無駄なことをいつまでも申すな。わしは知らぬ。話はここで終わりだ」
申し訳ありません、と王太后は一歩下がる。
女王が街へ到着したとの報告が入ったのは、そのときだ。
街の大通りでは、凱旋パレードが始まっていた。
国章の刻まれた鎧に身を包み、馬に乗って進む女王に、大観衆が声を上げ、手を振る。
女王は手を振り返すこともなく、笑みを浮かべることもなく、ただまっすぐ顔を向け、王城へ進んだ。栗皮色の髪が、秋の風に時折揺らめく。黒いマントがはためいた。
頬には布が当てられていて、『泰平を築く覇者』の印を見たかった人々は、少しだけ残念そうである。
女王のずっと後ろでは、大きな檻に入れられ、眠らされた竜のギーがいる。
普通の人々は本物の竜を目にする機会はない。せいぜい神殿の彫像くらいなものである。珍獣を前にして、人々は驚き、興奮していた。
女王陛下万歳! という声があちらこちらで上がっていた。道を囲む人の群れから、窓から身を乗り出す人から。
その大観衆の誰も、女王の暗い双眸に、気づかなかった。
王城に到着した女王は、ずらりと並ばれた臣下に迎えられた。
女王は鎧の音をさせながら、あぶみに足をかけ、降りる。
目の前に向かってくる女王は、確かに女王であった。
夏に見送った白い顔は、日に焼けて秋に戻ってきた。竜のあざは、布が当てられて隠れている。
どれほど無事を神に祈願したことだろう。どれほど、前線に出たとの報告を聞いて、胸を痛ませただろう。
だが、全ては、戦いは終わったのだ。彼女は頬にかすり傷ひとつで、帰ってきたのだ。
今はただ、よかった、という言葉ひとつが胸を埋め尽くしている。
「ご無事で何よりです! 陛下!」
感慨をにじませて、宰相は走り寄った。
「……宰相か」
女王の声には何の感情もなかった。
宰相の満ちあふれた喜びの言葉とは対照的とも言ってよかった。
「陛下、お帰りなさいませ」
臣下たちは笑みを浮かべて、帰還を喜ぶ。先王も、王太后も。
だが女王はつまらなさそうにして、一片の感情も動いていないようだった。
「……ま、まあ、とにかく、こちらへどうぞ。祝勝会の準備が……」
焦りながら招こうとしたが、
「祝勝会だと? 暇なことを」
と鼻で笑われた。
困惑しながら、もしかして疲れ切っているのかもしれない、と思った。
エル・ヴィッカ地方での戦いは、一度どころか何度も繰り返されたという。戦いの連続の後、馬での長距離の旅。
騒いで喜ぶより、まずぐっすりと眠りたいのかもしれない。
「そ、そうですね。ではお休みなされますか?」
「こんなときにそれどころではないだろう。浮かれている場合か!」
女王は睨むような視線を向ける。
「次の戦争の準備はどうした」
場が緊張した。
「次の……戦争……?」
宰相は絞り出すように問う。女王の瞳は微塵もゆるがない。
「そうだ。お前が知らせてきたのだろう。ドウルリア国がラビドワ国の味方をし、武器を援助していたと。これは敵対したも同じだな?」
確かに知らせた。
だけどそれは。
「まだ調査中です。確定したわけではありません。次の戦争だなんて、早計すぎます」
「早すぎるだと? こうしている間に、ドウルリア国は戦争の準備を始めているだろう。のんびりとしている場合か」
「ドウルリアが戦争の準備を始めているなんて情報はありません……それに、敵対したとの証拠もなく同盟国に攻め入れば、他国からの非難は免れません」
「証拠か。ならば作ればいいだろう。我が国が攻め込む理由にたる証拠を」
女王は言葉を途中で区切り、何かを思いついたように笑みを浮かべた。それはまがまがしい微笑みだった。
「そうだ、作ればいいんだ。証拠なんて、いくらでもでっち上げられる。ドウルリアも、カプルも、レージャも、ボーリアも、ジャスロも……全て! 理由なんてでっち上げて、攻め込むんだ。殺し尽くし、滅ぼし、世界を手に収めるんだ。あはは、はは、あはははは……!!」
狂喜する彼女は、狂気に冒されていた。けたたましく嗤い続ける。
宰相は言葉をなくして立ちつくす。
何があったというのか。何が彼女を変えたというのか。
決して、こんなことを平然と言う人間ではなかったのに。
呆然としていると、手を打ち鳴らす音が響いた。
先王・エミリアンである。
「素晴らしい王のお考えだ」
宰相と同じく呆然としていた人々も、エミリアンにならって、拍手をする。
素晴らしい考えです、感服しました、そんな讃美の言葉と一緒に。
……何を言っているんだ、この人達は。
言っている心情は、わかる。
話の中身なんて関係ない。女王が言ったことだから、中身がどんなものであろうと褒め称えているのだ。
だが、宰相はその讃美の波に乗れなかった。
「……本気で、言っているんですか……?」
「ははは、そうさ。さっさと進軍の準備をするんだ。兵を集め、一路ドウルリアへ向かわせろ。私も行く。殺し尽くし、灰燼と化してやる!」
「本気、ですか。他国と友好関係を築き、平和な国を作る、というのはどうなったんですか」
女王は常々そう言って、それをもとに、今まで外交戦略を立てていた。浅はかな考えから侵略しても、利はない、と……。
だが彼女は口の端を上げる。
「そんなもの、嘘さ。そんな建前を信じていたのか。私はいつも、他国を侵略し、殺し、戦いたかったんだ」
衝撃が、宰相の胸を貫く。信じていたものが、ぐらりと崩れた。
「戦うんだ。殺し合うんだ。屍の塔を築き上げるんだ。さあ、戦争の準備をさせるんだ、宰相」
女王は指を差し命じるが、宰相は動けなかった。
「……何が、あなたを変えたんです?」
「宰相、口を慎め。意見も諫言も必要ない。臣下は王の命に従っておればいいのだ」
先王は厳しくとがめた。
だが宰相はここで、物わかりのいい紳士のように慎むつもりはなかった。
「あなたはそんなことを言う人ではなかった。断じて、なかった! 不用意に意味もなく人を殺せと命じる人ではなかった! 重要なことはじっくりと考え、人の意見を聞き、最も良い道を選ぼうとする方だった! これが最良ですか!? 私にはとても、そう思えません」
女王は鼻で笑う。
「お前が、私の何を知っているというんだ。お前の知らない私なんて、いくらだってある。――何故、反対しようというんだ? どうせ人間は死ぬんだ。赤子だって、老人だって。それを早めてやるくらい、何が悪いというんだ? いまいましいが、人間なんていくら叩き潰しても、ウジ虫のように沸き上がり増殖する。戦争を起こし、少しでも駆除してやることの、何が悪いって?」
聞くうちに、めらめらと燃え上がる火が、宰相の身体の内ににできあがった。女王の言葉はその火を消すどころか、木材を投じて火事のように大きな炎を作り出す。
――だめだ、いけない。
――だが、だが……。
パァン、とその場に軽い音が響く。
――許せない。
宰相は震える手で女王の頬を叩いていた。
周囲は、唖然としていた。青ざめている者もいた。だが誰も声どころか物音一つ、立てない。
この静かなるブリザードと炎が混ざり合ったような状況、それに彼らは呑みこまれていた。
「このっ……!」
声を上げたのは、当の宰相でも女王でもなかった。先王エミリアンである。彼は顔を真っ赤にして、ステッキを振り上げる。
「この痴れ者が!! 王に手を上げるとは、万死に値する!!」
その声に、兵士達はどよめき、動き始めた。じりじりと、宰相へ近づいてくる。だが彼らは急いで捕らえようとせず、困惑しながら近づくのである。
宰相は、家族のことを思い、力なく腕を下ろしている。
――ラシード兄さん、迷惑をかけてすみません。いつもあなたには、悪いことをしていますね。許してくれとは言いません。ですが、せめて、生きて逃げてください。
――父さんも、すみません。さぞかし落胆し、嘆くでしょう。親不孝者で、申し訳ありません。
――母さん、迎えに来てくれますか?
ふと、視線を目の前に戻すと、女王は沈黙していた。
叩いた左の頬は赤くならず、腫れてもいない。ほっとした。それほど力はこめなかったとはいえ、安堵した。
代わりに、叩いた反動で、右頬の傷口を押さえていた布が取れ、落ちていた。
そこには完治したのか、傷らしい傷はなかった。
だが、それ以外にも、なくなっているものがあった。
あるはずのものが、なくなっていた。
『泰平を築く覇者』の印。片翼の竜のあざ。
その竜の、残り一つの翼、その翼が――なくなっていたのだ。
女王の視線は、鏡に向かっていた。自身の頬を――翼を失った竜を、食い入るように見ている。
その目は驚愕に満ち、「あ、ああ、あ……」と、まるでこの世の終わりとばかりに呟いている。よろよろと後退し、目だけは鏡の中の竜を見ている。
「陛下――」
宰相が言いかけたところ、怒り狂った言葉がかぶさる。
「何をしている! 宰相を捕らえよ! いや、この場で殺せ! 許さん、許さん、許さんっ……う!」
エミリアンのしわがれた声が、うめいて止まった。
先王は胸を押さえ、そのままうずくまるようにして倒れた。
「先王陛下!」
「発作が!」
「医者を呼べ!」
場は、一気に騒ぎとなった。
兵士達に運ばれ、先王は別室へ行く。みなみなは先王へついて行ったり、医者を呼びに走り回る。
その騒ぎの中、女王が別方向へ走り去る。
「陛下、どこへ――」
問いかけの言葉は、騒ぎのうるささにまぎれ、彼女には届かない。
彼女の焦りが見える後ろ姿を追おうとしたところ、凛とした声で名を呼ばれた。
「イーサー様。追って、どうなさるおつもりでございますか?」
王太后・セリーヌは、冷静な目で、女王の走り去る姿を隣で見ている。
「セリーヌ様……。先王陛下の側にいなくてもいいのですか?」
少しばかり驚いて訊くが、彼女はほんの少し微笑んだ。
「私がいたところでどうにかなるわけではございませんわ。先王陛下のあの発作はいつものことですもの。それより、宰相様、女王陛下を追うつもりでございますの?」
宰相は硬い表情でうなずいた。
王太后は目を細める。
「……先王陛下がまだ玉座についておられたとき……陛下専属の理髪師が、毎朝、陛下のひげを剃っておりましたの。けれど極度の緊張を強いられたせいか、彼はある日、陛下の肌を傷つけてしまいましたの。ほんの、ほんの少し。宰相様、彼がどうなったのか、おわかり?」
「……死んだのでしょう」
「そう。彼は死にました。先王陛下によって、その場で斬られました。どんな弁解も聞き入れられず。レイラ女王陛下は、そのエミリアン先王陛下の娘でいらっしゃる。……私ならば、すぐさま逃げますわ」
王太后の立ち姿はぴんとしてさすがに威圧感があふれているが、まなざしはやわらかかった。
彼女は先王と共に、王宮の片隅に住んでいる。そのため、宰相と会う機会はめったにない。
親しいわけでもないのに、ここで助言をくれた。それには感謝する。
「……でも、私は宰相です。女王陛下の臣です。陛下を追わなくては」
王太后は息を呑む。
「殺されますよ?」
「……そうかもしれません」
戦いたい、殺したい、人間なんて虫けらも同然、と言った女王なら。
それでも、行かなければならない。
逃げ出せば、代わりに家族はどうなる?
逃げては何も変わらない。……命に替えても、諫めなければならない。考え直してもらわなければならない。
宰相が歩き出す。窓から見える空は、さらに重く雲がたれこめていた。
*
眠りから覚めて顔を上げると、曇天が広がっている。
戦場での疲れから、女王の愛竜が、丘の上で眠っていた。
丘は一面の芝生。そして丘の上に一本の大きな木。ねじれ上がった幹が伸び、枝が目一杯広がっている。丘全体を覆おうとしてるかのようだ。葉は人間の赤子の手のひらほどである。それらは赤く色づき始めていた。
その丘周辺に、竜以外の姿はない。ここは王宮内の、竜のための遊び場だ。丘から少し離れたところには、人間が間違って入らないよう、柵が取り囲んである。
だから、ここに人間が来るとすれば、びくびくとおびえた飼育係がエサをやりに来るときか、もう一人かのどちらかだ。
丘に誰かが走り寄る震動が響いていた。人間のである。
飼育員ならば、ロルの粉を必要以上に振りかけてやってきて、丘の近くで引き返す。
だが、その人物は丘を走って来る。ロルの粉の臭いもしない。
「ギー! ギー!」
悲痛な呼び声に、ギーは首を上げる。
「ギー、いるんだろう!? ギー……ギャンダルディス!」
正式な名を呼ばれれば、その人物が誰かは確定する。ギーの正式な名を知るのは、現代の人間では、一人きりだからだ。
はたして、やはり走り寄ってくるのは、女王レイラであった。
竜はゆっくりと腰を上げ、木の下から彼女のいる方へ、一歩出た。
レイラは青ざめた顔をしている。右の頬を押さえる手は、確実に震えている。
竜の前まで来ると、女王はその手を離した。
「ギャンダルディス! 私の、私の翼は全て、失われたか……?」
ごろごろとした雷の重低音が響く。
竜は眠りから覚めて開けたばかりの青い瞳で、彼女の頬を見つめる。
そして、竜の口の奥にある喉の器官をすり合わせ、高音を作り上げた。
『まだ少しだけ、残っているよ』
直後に、冷たい雨が降り始めた。