奪ふ男
――ジョーカー 3−3――
うっすらとルリの唇が開く。言葉は出てこない。
「こんなのは嫌だ」
そう言うと、ルリの瞳が動き、すぐ目の前にいる僕でなく周囲に目を向ける。
目を背けられたようで、それがひどく嫌だった。
ルリの顎に手をやり、僕の方へ顔を向けさせる。
「他のものは見る必要なんてない」
ルリと目を合わす。布ずれの音すらせず、二人の息の音だけがあった。
「……なにが、嫌なの」
声は小さかったように思う。だけどよく聞こえた。
「形だけの仲直りなんて嫌だ。形だけ仲良くなったって、意味がない」
ルリは柳眉を寄せ、考え込む。その思案の結果を口にした。
「誰かに言われた? 私の態度が悪かった?」
「他のやつらなんて関係ない。僕が、嫌なんだ」
大事なところを強調する。
「形だけ仲直りしたって、心の奥底で何を考えているのかって、いつも悩むだけだ。正直なことを言ってほしい。だからって、前のように無視をされるのだって嫌だ。あれはもうごめんだ。以前のように、心からのルリの笑みを見たい。以前のように、本当の意味で仲良くしたい」
「……本気で言ってる?」
あきれたような言葉が返ってくる。
「ワガママすぎるよ。確かに智明がワガママだってことはわかっていたけど。それにしたって」
この望みが何だろうと、僕はもう耐えられない。
「無茶なことを言うね。智明はこう言っているの? 私に、心から、智明のことを許せって」
「そうだね」
つまりはそういうことなのだろう。肯定したら、ルリの顔がこわばる。
「ずいぶんと簡単に言ったね。……どうして私が許さなきゃいけないの。何のために、誰のために。他の人は関係ないんでしょ」
「僕のためにだよ」
「…………。じゃあ、私が、智明のことを許して、前のように心から仲良くするとして。智明は何かしてくれるの」
何か――? 代償を求められることは、想定していなかった。
「私にとっては簡単なことじゃない。じゃあ、智明はそれに見合うようなことをしてくれる? たとえば――二度と誰とも付き合うなって言ったらできる? プライドを捨てて私の足を舐めてって言ったらできる?――できないでしょ。智明が言ったのは、それぐらい、私にとっては難しいことなんだよ。だからそんな無茶はあきらめて。私にはできないから――」
僕はルリのおとがいに掛けていた手を離す。そして身体を引き、割り入れていた膝も引く。
「わかってくれたなら、よかった」
静かな、どこか落ち込んだような声がする。
それを機に、ルリは視線を外し、腰を引いて体勢を立て直す。座った状態になって、そしてマットに手を置いて立ち上がろうとしたとき、再びルリの体勢が崩れた。
「! 智明、何……」
僕は立ち上がりかけたルリの片足に手を掛け、持ち上げていた。
無論のこと、片足がそんな状態で立てるわけがない。
スリッパをはぎ取ると、ルリの足を隠すものは付け根のスカートだけとなる。ハイソックスなんかは、きっとこのプールのある建物の玄関口で履こうと思ったのだろう。だからそれを脱がす手間が省けた。
白い足は、色めいた脚線を描いている。くるぶしのあたりを撫で、そのまま下へ、かかとを包むように指をたどらせる。
「と、智明」
うわずった不安そうな声が前から聞こえてくる。だけど顔は見えない。
なぜなら、僕は顔を、まるでガラスの靴を待っているシンデレラのようなルリの足へ近づけていたからだ。
そして、恍惚とした気持ちで、足の甲へ、唇を寄せた。
「っ!! 智明っ、なに、何を」
混乱したような声。ルリは僕から離そうと足を引き寄せようとする。けれど、僕は足首をしっかりと捕らえていたので、離れることはない。
名残惜しく唇を離して、混乱に答える。
「ルリが言ったんじゃないか」
彼女は絶句した。
そして再び、僕はルリの足に吸い付いた。
ルリが言ったことなのに、ルリ自身は受け入れなかった。何度も逃げようとした。
だけど、
「だったら全部許してくれる?」
と言ったら、ルリは口を閉ざした。
その無言の否定は残念だったけれど、続けることに僕の心は昂揚していた。いや、続けることに、というよりも、続けることでルリを翻弄することに、だ。
淫靡な空気が部屋を包む。
それを打ち破ったのは、声だった。
「……谷岡さーん……? まだ着替え終わってないのー……」
「あれー? 金原さんもいないよー……? 確かこのあたりにいたのに」
「とりあえず、更衣室行ってみようか」
複数人の女の声が聞こえてきた。ルリは息をのむ。
どうやら水泳部の女子で、いつまでも出てこないルリのことを探しに来たのだろう。部屋のすぐ外を足音が通り過ぎてゆく。
「あっ」
ルリのあげた声に、足音が止まった。
「……今、声が聞こえなかった?」
ルリは両手で自分の口を覆う。
「そうかな? 気のせいじゃない?」
足音は再び遠ざかった。
遠くになったのを聞き、ルリは静かに安堵の息をついた。
それからルリは、僕の手をつかんで、止めさせる。そしてごくごく小さな押し殺した声で、僕に訴えた。
「智明本当にやめて。こんなところを人に見られたら、どんなことになるか、わかるでしょう」
こんな状態の僕とルリを見られたら、どうなるか。学校中の噂になるのは間違いない。
だけど、
「それがどうかした?」
声を潜めることなく、ルリに告げた。
ルリの顔色が、暗い中でもわかるくらい、青ざめた。
声を抑えたまま、僕にだけ聞こえるように激しく捲くし立てる。
「なにを言ってるのか、わかってるの。このままだと身が破滅するんだよ!?」
噂は良いようには伝わらないだろうね。
それにしたって、ルリは周囲を気にしすぎているように思った。
周りなんてどうでもいいじゃないか。
ルリと僕がそういう関係だと知れることは、悪くない。無視されている、なんて噂より、はるかに良いものだ。
僕は再び、同じ言葉を口にする。
「それが、どうかした?」
そうしてゆっくりルリの手を外して、逆に両手をマットに縫いつける。
僕の意図がわかったのだろう。ルリは離れようと、身体をひねるようにしてもがく。
「更衣室にいなかったね。どこに行ったんだろう」
声と足音が、再び近づいてきていた。
「……なんか、そのあたりの部屋から音がしない?」
ルリは目を見開いて、暴れるのをやめた。
打って変わって、僕が膝頭を撫で、それより上へ手を伸ばす。
足音は近づく。ルリはこれから起こることに、全身を震えさせていた。
「ともあき、お願い、やめて、お願い」
懇願に、僕は答えなかった。その代わりに膝裏に手をやり、そこへ顔を寄せた。甘噛みに、小さな声が上がる。
両手を押さえつけられているルリは、声をこらえられないようだった。
足音が、部屋のすぐ前まで近づく。
「……っ、わかった、わかったからっ。智明の言うとおりにする。無視しない。演技もしない。仲良くする。何でもする。だからお願い、やめて、こんなの見られたら……」
――言ったね?
部屋の扉が開き、光が入り込む。
「あれえ?」
女子たちが入ってくる。
「誰もいないじゃん」
「体育用具室みたいだし、人なんかいるはずないしねえ」
「ごめん、気のせいだったみたい」
「気づかないうちに帰っちゃったのかなあ」
「金原さんもいないしね。先に帰ったのかも」
足音と声は遠くなっていき、そして再び扉が閉じられた。
僕たちは、部屋の奥の跳び箱の陰にいた。
行ったのを確かめてから、立ち上がる。
「行ったみたいだよ」
傍らにはぐったりとしているルリがいた。三角座りをして膝に顔をうずめている。
「……先に、帰ったら。わたしは、しばらくここにいる。……疲れた」
顔をうずめたまま、ルリはそう言った。
それならと、僕は再び腰を下ろす。
「僕もいるよ。一緒に帰ろう」
夜は暗い。これより遅くにルリ一人で帰したら、心配しすぎて手につかないに決まっている。
「帰りなよ。暗くなるよ」
言われて思わず軽く吹き出した。僕が言うならともかく、ルリからそんなふうに言われるなんて。
「同じ事をルリに言うよ」
「わたしのことは平気だから」
そう言われても、僕はそこに留まった。先ほどの淫靡な空気が残る中、ルリはずっと膝を抱えて顔をうずめていた。じっとうっとりと見つめ、背に手を伸ばそうと考えていたら、耳の色に気づいた。
視線を感じたのだろうか、ルリはぎくりと身体を震わせ、おもむろに立ち上がる。
「暑いから帰る」
そう言い捨てるようにして、扉を開けて、出て行く。
「なるほど、暑かったんだね」
そう言いながら、僕も笑みながら追いかけた。
外に出たらすでにあの女子たちの姿は見えなかった。
見上げると空は思ったより暗くなっている。
ルリと帰りながら、僕たちはぽつりぽつりと話をした。桜が散ってしまったこと。家の近くにビルが立つこと。そんなたわいもない話。
だけど嬉しかった。
以前のように戻れたようで、嬉しかった。
ルリは約束を守って、他に誰もいないのに僕と以前のように接してくれた。それが苦だというそぶりも見せない。
「だって難しいことじゃないから」
それとなく口にすると、ルリはそう答えた。
「……習慣なんだろうね。智明とこうして、『普通』に話をしたりするのは。本当のところ、しばらく前から、ほとんど演技なんてしていなかったよ。意識しないと、私自身演技をしていることを忘れてしまうくらいに。……私たちも、ほとんど生まれたときから一緒だし。家族のようなものだものね」
家族のような、という言い分にはひっかかった。
けどルリのこれまでが演技じゃなくてよかったことの方が大きい。
あの微笑みが、心からのものだったんだ。自然な様子に見えたのは、本当に自然だったからなんだ。僕の目が曇っていたわけじゃない。心からルリは笑って、心から、自然に、接していたくれたんだ。淡々としている様子に喜んでいるようには感じないけど、今までと変わらないということなら当然なんだろう。そんな様子だからこそ、ルリの言うことは本当なんだ。
ああ、良かった!
ぐっと拳を握りしめる。
家の前まで来て、淡々とした様子でルリは僕に言った。
「良かったね」
きっと僕の心の内を理解してくれたのだろう。それとも、僕の心情が表に出たのだろうか。
「うん。良かった。ありがとう。嬉しいんだ、ルリと以前のように話ができて。……いや、前からそうだね。でも僕はずっと疑って、心が痛かった。僕たちの関係が演技じゃなくて、自然なものだって確認できて、やっと心が落ち着くよ」
満面の笑みを向ける。
ルリは表情を変えない。
「そう。……面倒な人間関係のトラブルが解消できて良かったね」
他人事のように言いながら、じゃあまた明日ね、と別れの挨拶を告げてルリは家に入っていく。
一瞬、するりと冬の名残のような冷たい風が通り過ぎていった。