奪ふ男
――ジョーカー 3−4――
それは小さな取るに足らないことだった。
「智明、母さん半年ほど海外に行くから」
遅くに帰って来た母さんは開口一番こう言った。
仕事の関係で北欧で学んだり働いたりするらしい。父さんには話し済みで、最後に告げたのが僕なんだろう。
出発は一週間後。急に決まったのではなく、優先順位の低い僕に言うのが遅すぎただけに違いない。
ばたばたと忙しそうに荷物を集める母さんに、
「わかった」
とリビングのソファの上で雑誌を読みながら答えた。
答えるまでの間何を考えていたかというと、家庭訪問や三者面談での良い断りの口実ができたな、ということだけだった。
だからといって何が変わるわけもない。
普通に僕は生活し続けた。ルリと登下校を共にして、ルリと同じクラスで勉強する。
ルリとのことは順調だった。
時間の限りルリと一緒にいるようにしている。
ルリは、演技じゃないかと疑っていた頃と変わらず、僕が笑顔を向けると静かに微笑んでくれる。静かに、控えめに、瞳の奥に深い色をたたえて、どこかずっとずっと遠い場所を見るように。
そんなある日のこと。
放課後を迎えるとすぐに、ルリは急いでカバンに教科書などを詰め込んでいる。
「ルリ、一緒に帰ろう」
「ごめん、すぐに帰らなきゃいけないから」
そう言ってすぐさま教室を出て行く。
家同士が近いのだから、急ぐなら僕だって急いだのに……。
けれど、次の日もルリは急いで教室を去り、また次の日も同じだった。
部活動も休んで、ルリは学校をすぐに出て行く。
「デートじゃないかなあ」
そんな余計なことは西島は言い、イライラとさせた。
こんな調子でルリがさっさと放課後にいなくなるのを見るのも、西島の発言で心を迷わされるのも悶々とするのも、まだるっこしい。
もっとすぐにわかる方法がある。
単純に、ルリの後をつければいいだけの話じゃないか。自分で確かめるのが一番だ。
最も名案に思えて、すぐにそれを実行した。
やはりその次の日も早くにルリは学校を出たから、気づかれないように後を追った。
ルリは学校の門を出てすぐの交差点で、家とは別方向に曲がった。
どこに向かうというんだ?
まさかまたバイトを始めたのか? 去年していたバイトはやめたらしく、その後バイトをしたいともするとも聞いていなかったけれど……。
一定の距離を離れて追うけれど、どうも本当に急いでいるらしい。結構早足で歩いている。
三十分以上歩いてたどりついたのは、病院だった。大きな病院で、内科だけでなく、いくつもの科がある。
……ルリは病気なのか?
不安が胸に巣くい始める。
急いで病院の中に入る。受付のロビーは広くて、ルリの姿が見えないか見回していたところ――
「智明? どうしたの、病気?」
当の本人であるルリに見つかってしまった。ああしまった。もっと日頃から尾行に慣れておくべきだったな……。
「熱でもあるの? 学校では元気そうだったけど、無理してたの?」
ルリは澄んだ黒目で僕を見やり、僕が病気なのかと心配してくれている。心配そうなその表情を見ると、僕の心が満たされてゆく。
僕のことを考えて、僕のことを心配してくれているんだね?
嬉しい。嬉しいよ。
でも。
「そう言うルリは? 病院に来るってことは、病気なんだろ?」
僕の心配をしてくれるのはすごく嬉しいけれど、ルリの方こそ心配だ。
「私? 病気じゃないよ。お見舞いに来ているだけ」
「誰の?」
ルリは少しためらいながら、おじいちゃんの、と答えた。
どうやら、少し離れた場所に住むルリの祖父が、家の階段から足を滑らせて骨折し、入院しているのだとか。
怪我をしてからルリは毎日見舞いに来ていたらしい。
ルリの祖父というのは、僕も昔会ったことがある。子どもの足でも歩ける距離に教会があり、そこの牧師だった。その教会は僕とルリの遊び場の一つだった。
話を聞いて、なるほどだから最近急いでここに来たのか、とわかった。
けれど。
…………。
とりあえず、それは置いておいて、ルリと一緒にお見舞いに行こう。それから話そう。
日が暮れて街灯が点いて、日が完全に落ちた頃、
ルリと一緒に見舞っての帰り、僕は不満だったことを口にした。
「どうして僕に言ってくれなかったのさ」
そうしたら、デートだとか考えて不安にならなかったのに。
僕の不満に、ルリはとまどっているようだった。
「え? あ、うん。家族のことだし、あまりおおっぴらにすることじゃないかなって。すぐに退院するっていうし」
「…………」
家族のこと、ね。
僕は唇を噛みしめた。
僕はルリのことなら何でも知りたいのに、そこに壁が横たわっている。僕が、他のどうでもいい他人と同じ扱いを受けている。
悔しくて悔しくて、たまらない。
そんな理由で、僕には知らされなかった。知る機会もなかった。
――嫌だ。
他と一緒なんてごめんだ。
どうにかしなくちゃいけない。このままではいけない。
どうにか……。
そのとき僕の頭に、ふと一つのことが浮かんだ。そうだ。あの話をうまくすれば……。いやでも、そんなにうまく事が運ぶか……?
「智明、唇から血がっ」
慌てたように、ルリがハンカチを取り出している。
あ。悔しさのあまり唇を強く噛んでいたから……。
ルリは手を伸ばし、優しくハンカチ越しに僕の唇に触れる。
触れた場所から、ルリの指の温かさが流れ込んでくるような気がする。思わず陶酔してしまう。
その温かさを手に入れるためにも、僕は動かなくちゃいけない。
ルリも、それを望んでるに決まってるよね。
行動は早かった。
僕はルリの祖父が入院したことは知らなかったけれど、知っていることだってある。
ルリの家で毎朝新聞をポストから取りに来るのがおばさんだってことは、当然のように知っている。
「おはようございます、おばさん」
「おはよう。今日も元気ね」
僕はジョギングの帰りだった。ほぼ毎日僕はジョギングしている。集団の競技はあまり好きではないけれど、一人でするものは嫌いじゃない。
おばさんと少しばかり世間話をして、そして切り出した。
「少しおばさんに相談したいことがあるんですけど、いいですか?」
「相談?」
「はい。……おばさんにしか相談できなくて」
おばさんとは、ルリと同じだけ長いつきあいだ。
おばさんが世話焼きであることも、僕をかわいがってくれていることも知っている。そしてルリの家の中で、おばさんの発言力は強い。
「どうしたの、智明君がそんなこと言うなんて初めてじゃない。言ってごらん。おばさん、できるだけのことはするから」
「本当ですか?」
後は僕の誇張充分の話をどう言って口八丁で丸めこむか、ということに尽きる。
真剣なおばさんの表情を見れば、成功率は高いだろう。
「実は……僕の母さんが半年も海外に行くことになって……」
「どうして言ってくれなかったの」
その日の学校からの帰り道、ルリの表情はいつも通り静かだったものの、心なしか不機嫌さがにじみ出ていた。
「え?」
何のことか、わからなかった。
僕とルリの動き続けていた長い影が止まる。
「おばさんが海外出張するんでしょ?」
なんだそんなことか。きっとおばさんから聞いたんだろう。
「僕も数日前に聞いたんだ」
それに、僕自身にとってもどうでもいいことだった。
「数日前?」
「そうだよ。多分すぐにでも行くんじゃないかな」
「……随分急なんだね」
急じゃなくて、早くに言う必要がないと判断して言わなかっただけだろう。
「私のお母さんから聞いていると思うけど」
ルリはひたと僕の顔を見つめる。
「うちに住むの?」
おばさんに提案されたのはそれだ。
食事や生活のことが大変だろうから、もしよければ、と。
その場で即答するのは避けた。
「ルリは、いや?」
ルリは目を見開いて、首を大きく横に振った。
「良かった。ルリがどう思うかだけが心配だったんだ」
「そんな。私は嫌がらないよ?」
「うん、わかってる、わかっていたよ」
ルリの反応が気になって、と言うより見たくて、僕はおばさんに即答しなかった。
断ったり嫌がったりするはずがないとはわかっていた。母親が長期間いなくて家事も何もかもが大変になる、という誇張した事情がなかったにせよ、ルリが僕を拒絶するわけがない。
でも、それでもその反応が見たかったのだ。
やっぱりルリも僕との間に壁があってほしくないよね。
もっと単純にこれ以上ないくらい密接な関係となる方法もあるけれど、ルリはいいとしても、僕の年齢的な問題があるしな……。
今の僕に、ルリと近づく方法は限られていた。これが一つの方法だ。
「ルリも、もう隠し事はしなくていいんだからね。一緒に住むんだから」
僕の言葉の意味を理解してなさそうだったけれど、それでも、うん、とうなずいてくれた。
一緒に住む――なんてぞくぞくする言葉だろう。甘やかで、とろけるような。
今日の夕日のように、爛熟した輝きを持っていた。
母さんは一も二もなく賛成した。父さんもそもそも出張が多く家に帰らない日も多いから、文句はないようだった。
僕の家とルリの家は数メートルもない距離しかないから、荷物を運ぶのは楽だった。近すぎるものだから、邪魔になりそうなものは金原家に置いてきたままだ。どうせすぐ近くだから簡単に戻れる。
そうして呆気なく僕の引越は終わり、僕は谷岡家の一階の客室に寝泊まりすることに決まったのだった。
良いことは続く。
僕が谷岡家に住むようになったことは、この後ルリの身に起こることで、僕とルリに良い効果をもたらしたのだ。……とても、良い方に。