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奪ふ男

――ジョーカー 3−2――


 ルリと再び話せるようになった次の日、僕は階段の踊り場で女同士の修羅場に見舞われていた。
 向かい合っているのは、西島と、藤城。
 今日僕が顔と名前を知った藤城という女は、鋭いまなざしでにらむ西島の剣幕にひるみつつ、納得できない様子で逃げずにその場に立っている。
「あんたどういうことよ。『西島さんみたいに、金原君の気持ちを考えないようなことはしてない』って」
「……そのままの意味ですけど」
 藤城は西島に刃向かった。
 僕は舌打ちしたくなった。長引かせる気か。いい加減にしてくれ。
「はあ? あんた喧嘩売ってる? 今までろくに何も行動してないクセに、人への批判だけは一人前ってわけ」
「西島さんのやり方がよくないってことは確かじゃない」
 二人ともヒートアップしてきている。
 それにつられて、人がちらちらと関心を持ち始めてきた。
 勝手にやってろ。
 ……そう思うけれども、もはや僕だけ知らないふりで逃げることはできない状態だった。二人の間にいるという立ち位置が最悪だ。
 これ以上人を寄せ集めたくない。
「西島さんも、藤城さんも、落ち着いて」
 苛立ちをこらえ、できるだけ優しげな声音を作る。
 ――二人とも僕のことを考えてくれたんだね、ありがとう、責めるようなことを言って悪かったよ――
 白々しい、思ってもない言葉を並べ立てる。
 僕が悪いのだと言うと、二人とも自分の醜態に気づいたのか、逆に相手に喧嘩をしかけたことを謝ってきた。どうせ形ばかりだろうが、これ以上巻き込まれないことにほっとする。
 ちょうど良く、チャイムが鳴る。うんざりしていた僕は、ここぞとばかりに二人を教室へ促した。
 ついでに念押しとばかりに、双方にお互いに聞こえないように、教室に戻る途中にフォローする適当な言葉を告げる。双方に、言ってくれて助かった、僕も同じ気持ちだ、と。双方に、相手に係わっても君にとってよくない、とも告げた。ほんの少しの本音を織り交ぜて。
 でも僕の本当の本音は、二人ともに係わってほしくない、ということ。
 僕だって現実はわかるから、それはなかなか難しいとわかっているけれど。
 
 
 次の時間の授業が終わると、榊が僕の机に近づいて、こっそりと訊く。
「……さっきの休み時間のアレ、何だよ」
 どうやら目にしていたらしい。ちらりと教室を見回す。前回の授業は選択科目のため、同じクラスでも西島も藤城も、それからルリもいない。前者二人はともかく、ルリがいないことでつまらない授業だった。
 そもそも何が原因か。
 先ほどの喧嘩のきっかけを思い出す。
 僕が藤城が誰かということを調べ、彼女に階段の踊り場で話をしたいと言ったことがはじまりだった。
 昨日までは名前も覚えていない存在だった藤城。
 ルリに余計なことを言って怒らせた、ということを知らなければ、それが僕のせいだという冤罪をかぶせられそうにならなければ、きっと知らないままだったろう。……と言っても、すぐにもう忘れるだろうけど。
 火の粉がかかりそうになったのだ。僕は藤城に一言いってやらなくちゃ気がすまなかった。
 人気のない場所に呼び出したら妙な誤解をされると思って、階段の踊り場で話をしようとしていたのだけど、話は思った方に進まなかった。
 僕はとにかく二度と同じようなまねはするな、と言いたかった。でも、以前西島に泣き真似をされたときのようなことになるのは嫌だった。だからやんわりと言ったんだけど、それが悪かったのか。
 藤城は、自分のしたことの何が悪いのかわからないようだった。
『どうして? 私は金原君のことを思って、谷岡さんに言っただけだよ?』
 それが余計なお世話だと気づかないらしい。
 最悪だったのは、それに続けて言ったことだ。
『悪意を持って何かをしたわけじゃないよ? 西島さんのように、金原君の気持ちを考えてないようなことはしてない』
『どういう意味よそれは』
 不機嫌な様子で当の本人が現れ、空気が凍る。
 そして、藤城と西島がにらみ合うようなことになったのだった。

「まあとにかく、もうぶつかり合うような感じじゃないんだな?」
 榊は話を聞いて、安堵の息をつく。
「教室で第2ラウンドされたらたまんないしな」
 それが心配なことだったらしい。
「二回目があるかは知らないさ。僕だって巻き込まれるのは勘弁だ。適当な嘘でも言ってその場を収めさせ、喧嘩に巻き込まれないようにしたかっただけだ。人間関係のトラブルって面倒で嫌だからね」
「引き起こしまくりのお前が、よくそんなこと言えるな。しかも適当な嘘って」
「僕はそういう些細なことに係わっている状態じゃないんだ。ああいう人間関係のトラブルに巻き込まれるのを防ぐためなら、真っ赤な嘘を言っても、どんなことをしても、最短で解決する方法をとるさ」
 そう。
 それどころではないんだ。
 今の僕には、藤城や西島と係わっている場合じゃない。
 僕が全力で取りかからなければならないもっと深い問題が横たわっている。
 はっと、顔を上げる。
 いつの間にかルリが教室に入っていて、僕に近づいてきていた。
 ルリが教室に入っていたことに気づかないなんて。僕は考えに囚われて周りを見ていなかった失態に唇をかむ。
 僕の席に近づくと、ルリはにこりと笑ってくれた。
「次の授業は英語だよね? 今日提出のプリントやってきた?」
 おまけに話しかけてくれる。――以前のように。
 でも、胸に甘いものはやって来ず、傷口をえぐられるように痛い。
「……ああ。そう言うってことはルリもやってるんだよね。見せあいっこしようよ」
「そうだね」
 僕たちは、以前の通りだった。
 無視されることなく、仲良く会話を交わす。
 僕が望んでいたこと。渇仰していたこと。
 だけど。
 だけど。
 プリントを持ってきて比べあうルリ。
 その笑顔は、本当の笑顔じゃないの?
 その親しげに話しかけてくるのは、全て演技なの?
 ルリの内面を探ろうと思っても、わからない。瞳の中に見えるかと思って見つめ続けても、
「なあに? 何かついてる?」
 と、これもまた笑顔で交わされる。
 無視されていたときよりも、ずっと苦しかった。
 一瞬の嬉しさはその一瞬後に地に落ちる。真実はどこにあるの? ルリの心からの笑顔は、どこにあるの?
 偽りの関係。偽りの笑顔。
 僕には自然な姿にしか見えない分、つらくてたまらなかった。
 ほしかったのは、偽りでもよかったのか? 形だけでよかったのか? 笑顔さえ見られればそれでよかったのか?
「あ、榊君も比べてみる?」
 ルリが近くにいた榊を見上げて誘った。ざわりとする。
 榊は僕とルリが以前のようであることに目を丸くしているようだった。でもそれを口にはせず、
「んじゃ、見せてもらおっかな。俺全然やってないんだよね」
 と答えた。
 胸がざわめく。
 ルリが榊に声を掛けたのは一言。顔を見たのは数秒。
 だけど、ルリは、やつには真実の姿を見せるんだ。
 やつだけじゃない。僕以外のもの全てに。
 僕だけが、本当のルリの姿は見られない。
 誰よりも欲している僕だけが。
 胸が、血を吹き出すかのように激しい痛みを訴えている。呼吸するのすらつらい痛みがとまらない。苦しい。嫌だ。こんなのは嫌だ。僕が望んだのは、こんなことじゃない。
 僕はルリの一挙一動に、微細な表情の変化に、本当の姿を探り続ける。
 だけど、わからなかった。
 どれだけ見つめても、ルリは自然に見えて、僕に自然に話しかけ、僕に自然に笑いかけてくれているように見えて、とても僕を無視したがっているようには見えない。僕の願望が、目を曇らせているのか? だとしたら、こんな役に立たない目はえぐり取ってしまおうか。
 どうしたらいいんだ。
 僕は、無視されている時よりももっと、焦っていた。
 
 
 ルリはあれからずっと、やわらかなほほえみを僕に向けてくれる。その下にある本当の姿は、僕には見えない。
 僕たちは以前のようだった。
 いや、同じクラスということで、もっと近づいたように思う。……表面的には。
 ルリの僕に対しての変化を感じ取ったのは、榊だけじゃない。
 ルリの友人たちもそうだった。
「瑠璃子ちゃんって、金原君のこと、その、苦手なんだと思ってたよ」
 眼鏡をかけた方の友人が、言葉を選びながらそう言っていた。
 僕は同じ教室の少し離れた場所で、ルリがどう返答するかを考えて緊張していた。
 ルリは苦笑しながら、
「ちょっと喧嘩してただけだよ」
 そう答えた。
 僕たちは表には、喧嘩していた幼なじみが仲直りをした、というように捉えられていた。
 本当は、ルリの演技だというのに。
 本当は。
 もう考えたくなかった。
 ルリのほほえみを真実だと思いたかった。
 心を探って疑いたくなんてない。
 演技を本当に、してはくれないだろうか。こんなふうに仲良くしていればいつか、それが真実になってくれないだろうか。
 願望は、僕たちが話すようになってから一ヶ月も経つと、より大きく膨らんでいた。
 胸の痛みは僕の願望とルリの笑みの前に、少しずつ薄らいでくる。
 ほほえみが、もっと見たい。
 もっと話したい。
 以前のようになった僕たちだけれど、登下校は一緒ではなかった。いつの間にかそうなっていた。
 僕にはもちろん、それが不満だった。
 だからルリの部活が終わるのを待って、一緒に帰ろうと言おうとした。
 まだ肌寒いので、水泳部といえど、まだ泳いでいない。部活動の時間に体力作りのために走り込んだりしている。
 部活が終わったぐらいの時間にグラウンドに行ってみると、ルリは汗を流すためにシャワー室に行ったということだった。
 水泳部に割り当てられているシャワー室は、プールと同じ建物の中にある。
 その建物に行ってみて靴を脱いで中に入ると、シャワーを浴びて帰ろうとしている水泳部の連中が、続々と出てくるところだった。
 その中の一人にルリのことを聞くと、遅くなっていたから出てくるまで時間がかかりそう、ということだった。
 僕は待った。壁際にある椅子に背を預けながら、窓の外が次第に夕焼けのオレンジから暗い夜の闇に変化していくのを見ていた。
 どれだけ待っただろう。他の連中が出て行って、音は遠くにある時計からしか聞こえない。
 ぱたりぱたり、とスリッパで歩く静かな音が聞こえた。
 すっと、はじめに目が入ったのは、スカートから伸びた白い足だった。ハイソックスを履いていない。暗くなった屋内に、それはぼんやりと白く浮き上がって見える。
「あれ、智明?」
 首をかしげるルリは、おそらく体操服などが入っているだろうバッグを持ちながら近づいてくる。
 立ち上がると、ルリの湿っている髪が目に入った。一時期明るすぎるような色に染めていたけれど、今は落ち着いた色をしていた。
「どうしたの?」
「一緒に、帰りたいと思って。いい?」
 ルリは、うなずこうとしたに違いない。首が動きかけた。
 でも、止まった。
 そして周囲に目をやったのを、僕は見た。僕以外に誰一人いないことを、ルリは知ったのだろう。
 そして、言った。
「――どうして?」
 いつもより一オクターブ低い声だった。
 僕は悟った。
 それが、本心なのだと。
 周囲に人がいるなら、喜んで頷いたのだろう。だけど誰もいないから、ルリは本心をさらけ出した。
 どうして、一緒に帰らなければならないのだ、と。そうすることがさも、奇妙なことだとでもいうように。
 甘い願望は、鋭い氷の刃で打ち砕かれた。
 痛みは、あまりに激しくて、それを感じる心が麻痺しそうだった。
 ルリは僕の横をすり抜けて、出て行こうとした。
 そのルリの白い手を、僕はつかんだ。そしてそのまま近くにあった部屋へ連れて行く。
 途中で、離して、何なの、というルリの声がした。でも聞かずに手を離さなかった。
 ルリを押し入れ、部屋の扉を閉める。どうやら体育用具を置いておく部屋のようだった。
 押し入れられたルリはマットに向かって倒れて、非難の目を向けながら起き上がりかけている。
 起き上がる前に、脇に手を立て、足と足の間に僕の膝を割り入れた。
 ごく至近距離で向かい合う形となる。ルリの瞳がとまどいに揺れている。
 真実と表面のほほえみは違うのだ、ということがさっき、僕にはよくわかった。
 だけどもう、耐えられない。
 願望に逃げることも、希望を持つことも許されない。この状況に逃げ場はない。
 でも、受け入れられない。受け入れたくない。――気が狂いそうだ。
 僕は正直な気持ちを、ルリに告げた。
「もう、こんなの、我慢できない」
 暗い部屋の中で、ルリの濡れた瞳だけが、よく見えた。


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