奪ふ男
――ジョーカー 3−1――
花びらを含んだ風が、僕の背を押す。
甘くいざなうようにやわらかに僕の頬をかすめてゆく。
校舎の入り口にいる人物の存在に、思わず歩みを止めた。
花びらの中にいるルリは、美しかった。爽やかな空気にとけこむような佇まいで、桜を見つめている。髪と制服のスカートの端を揺らせながら、何を考えているのだろう。ルリの考えることが僕にすべてわかればいいのに。
ああだけど、そんなことがわかれば、僕はルリの頭の中を一時でも占める対象への嫉妬のあまり、死んでしまいそうだ。ほんの少しの間だって、僕以外の誰かや何かのことを考えてほしくない。
そんな思いに囚われていると、ルリが振り返り僕を見た……ような気がした。髪を耳の後ろに掛けて、そのままルリは校舎へと入っていく。
僕の歩みを後押しするように、風が吹く。
僕は駆けるようにしてルリの後を追う。
やわらかな花を含んだ風の吹く、僕とルリが高校二年に上がったばかりの、四月のはじめのことだった。
「マジでこのクラス編成考えたやつ誰だ……」
教室に入ろうとしたところで、ぼそりと後ろでそんなため息混じりの声が聞こえた。
どうでもいいことだったけれど、思いもよらず目に入ったその声の主は、榊だった。
ふうん。確かに榊と同じクラスなのは面白くないし、他にも面白くない要素はある。
しかしそんなこと、どうでもいい。
二年と三年は、ずっと同じクラスだ。進路の関係で、三年ではクラス替えがおこなわれない。つまり、今決まっているクラスで、二年間過ごす。
それを思うだけで、顔がにやけそうだ。
勢いよく扉を開けると、廊下に近い席に、二年間の幸福の源――ルリは座っていた。
ルリは僕を見るなり顔をこわばらせたような気がしたけれど、僕は満面の笑みを向けた。挨拶の代わりに。
……相変わらずルリは僕に言葉をくれない。
話しかけるな、と言われたから、あれから話しかけるのは抑えている。
それでも僕は幸福を噛みしめていた。
陸奥とのことで、ルリが転校するかもなんて一時期は危惧していたけれど、そんな様子はない。陸奥に暴力を振るわれた、なんて噂が全く出回っていないためかもしれない。あのとき陸奥の名前を出さず、転んで怪我をした、ってことで押し通したのは、噂にならないためだったのかもしれない。
――まあいい。終わったことだ。
ルリと同じ空間で勉強して、ふとした表情を見る機会が増えた。間違えた字を消しゴムでこすって肩をかすかに揺らしていたり、前に落ちた髪を耳に掛けていたり、といった仕草を斜め後ろの席から見ることができるようになった。なんだかそれは新鮮で、見ることができるだけで嬉しさで満たされていた。
二年になってからは、文系か理系かで、同じクラスなのにコースが分かれ授業が細分化された。
僕は文系で、ルリは理系だ。違う授業を受けることもある。共通の授業を一緒に受けられる分だけ、ルリのいない教室の授業が、どれだけ味気ないものかがよくわかった。
それでも、一緒の空間にいて、同じ授業という時間を共有することができる。
いつかはそれだけに満足できない日々がくることがわかっていた。話がしたい、もっと一緒にいたい、と。けど、それはそのときに考えればいい。
ただ、今、僕はルリと同じクラスになって、それだけで、とてもとてもとても、とても、嬉しかった。
たとえ同じクラスに榊や西島やルリの友達がいようとも、関係ないと思うくらいに。
そんなあるとき、僕の机の中に折りたたまれた手紙が入っていた。
いつものことだったから、面倒だなと思いながら手紙を開けた。そのまま開けずに捨てたい気持ちだったけれど、以前一度それをして、どうして来なかっただのひどいだの、後からもっと面倒なことになった。おかげで、とりあえず目を流すだけ流すことにはしている。
開いたら、思いの外、短かった。びっちり書いてくるものも少なくないから、少し驚く。
『今日の放課後、十六時半に化学実験室で話があります。大事な話です。
もし時間があれば来てください』
その二行が真ん中に書かれていた。
そしてそのずっと下に、書き手の名前があった。
『谷岡 瑠璃子』
思わず、はじかれたようにルリの方を見た。
休み時間だから、ルリは立って眼鏡とお団子の二人の友達と話して笑っている。まるでこんな手紙なんて知らないかのように。
読み間違いじゃない、よね。
何度も読み直しても、文面は変わらない。
もしかしてルリの名を騙ったイタズラか、とも思ったけれど、この筆跡はルリ本人のものに間違いない。『子』の字のはね具合が特徴的だ。
おまけに便せん自体も、ルリの好きな猫のキャラクターが片隅に小さくいるものだ。
ルリが、僕に。
手紙を持つ手が細かく震える。
こんな手紙を数多くもらって、僕は話を聞いてきた。それとほぼ同じ内容をルリが告げようとしてるかと思うと、身体が打ち震えてくる。
本当に? 本当に?
手紙は夢のように消えやせず、僕の手にある。でも、夢のようだ。
放課後を迎えるまで、いつも以上に僕はルリを注視してしまった。ルリは放課後話そうとすることのそぶりは全然見せなかったのだけど。
放課後になると、声を掛ける他のクラスメイトを無視して、真っ先に化学実験室へ向かった。
中に入ると、誰もいない。窓から小雨が葉を打っているのが見えた。
腕時計は、待ち合わせ時刻の五十分前を指し示している。
今まで何度となく、こんな風に呼び出されてきた。
それらに一片も心を動かされることはなかったけれど、今は待っている時でさえそわそわせずのはいられない。
どんな言葉だって、至上の想いの言葉と聞こえるだろう。絶対に生涯忘れないだろう。
もうすぐ来る幸せな時間を楽しみに待ちながら、ふと気づいた。
そういえば僕は、断ったことしかない。うまい断り方は考えたことはあっても、うまい肯定の返事は考えたことがない。こういうとき、どんな返事がルリの一番いい笑みを見られる結果となるのだろう。
そんなことを窓際で小雨が落ちる様を見ながら考えていると、ルリがやってきた。
ルリはすでにいる僕の存在に目を丸くする。
「早く来ていたんだ」
久しぶりにルリに話しかけられた。陸奥とのあれ以来――三ヶ月と十日ぶり。しかも、疑問系で訊かれている。僕に答えを求めている。僕との会話を求めている。
「待ちきれなかったんだ」
そう気持ちを込めて答えた。
ルリは、あれ以来、教室の中でもどこでも、絶対に僕に話しかけなかった。
無視をされ、話しかけることもできず、地獄のようで、胸が痛くて食欲もまったくわかなかった時を思う。四月になってからは同じクラスになれたから、まだ少しはいいけれど、それまでが本当につらかった。
僕に言葉を向けてくれたことが、純粋に、嬉しい。これで終わりだということが、本当に。こんな手紙で呼び出すくらいなんだし、もう無視する理由もない。
「……呼び出した理由、わかるよね?」
問いのためというよりとも確認のためのように訊かれた。
わからないフリをする理由はない。うなずく。
「そう。なら話が早い」
薬品の陳列している棚に背を預け、軽く腕を組み、ルリは僕をまっすぐに見てきた。
二人だけの空気が、一瞬のうちに不穏なものとなったのを感じた。
「ずいぶんなことしてくれたね、智明」
いつもと同じ周囲を和ませる表情をしているルリは、口調に皮肉なものを織り交ぜて言った。
外が次第に暗くなり、教室も影が増す。
……この一言で、ルリが話しに来た内容は、僕の想定していたものと違うのだとわかった。
かといって、具体的に何の話なのか、全くわからない。
今更、陸奥の話もないだろう。もうあれから三ヶ月も経った。ルリは会っていないようだし、僕も会っていないし、あいつのことで話すこともない。
……同じクラスになってつい頻繁に見つめていたことが気に障ったのだろうか。
だけどそんなことしょうがないじゃないか。
同じクラスになったのは五年ぶりだ。
ようやく五年経って一緒のクラスにいられることに狂喜乱舞している。更に話しかけることもできない。のに、意識せずにいられるだろうか。見つめずにいられるだろうか。耳を澄まさずにいられるだろうか。
こればっかりはどうしようもないじゃないか。
さっそくルリに弁明しようとした。順を追って話せばわかってくれる。
でも、先に口を開いたのはルリの方だった。
「何も知らない他人に言わせるなんて卑怯じゃないの」
眉をひそめた。
……何の、話だ?
他人? 誰のことだ? 榊? 西島? ルリの友達?
「……何の話か、わからないんだけど」
話の見当もつかずに問う。ルリは目を細めた。
「藤城さんのことだよ」
……名前を聞いても思い出せない。そもそも人の名前を覚えるのは苦手だけど、クラスメイトかそうじゃないのかすらわからない。とにかく、その藤城とかいうやつが、何かしたってことか?
「そいつが何かしたっていうなら、僕は無関係だよ?」
何も知らないことでなじられたらたまらない。
「しらばっくれないでよ。じゃあ、藤城さんが勝手に言ったってこと? 『智明君を無視するのはやめてあげて。あんなにいつも笑顔を向けている智明君がかわいそうでしょ? 智明君が谷岡さんと仲良くしたいって思っているのはわかるよね。それなのに挨拶すら交わさないで、智明君に冷たすぎると思わない?』――なんて」
思わず目を見開いた。
頭が展開についていかない。
何だ? つまり藤城とかいうのが、ルリに勝手に、無視するのはやめてって言ったってことか?
何のために、とかいうのはこの際どうでもいい。
確かに、僕はルリが全く口を利いてくれないことで胸が痛かった。前のように話してくれたら、と願っていた。
しかしどこの誰かもわからない人間に勝手に僕の心情を想像され、勝手に行動されるのは気分が悪い。僕自身がそれを狙って仕組んだならともかく、今回、僕はまったく関知していない。どこぞの誰かが勝手に何かをして、そして火の粉が飛んでくるなんて冗談じゃない。藤城とかいうのは、どう責任を取ってくれるつもりだ。
案の定、悪い方に話が進んでいる。
「藤城さんをたぶらかしたんでしょう。迫って、口説いて、キスでもして、言わせたんでしょう」
ルリの眼の色がすっと濃くなった。
「僕は本当に何も知らない」
「嘘」
「何も知らない」
「……っ」
何かを言いかけ、うつむいてルリは目許を押さえた。そしてくらりと身体を傾がせ、倒れそうになったところを棚に手をつく。
ぞっと背筋に冷たいものが走った。すぐに近寄る。
「眩暈? 頭痛は?」
「……ただの、立ちくらみ」
「病院行くよ」
「そんな大げさな。最近寝不足で疲れてるだけなのに」
「大げさじゃない。言われただろ。頭の傷は、数ヶ月後に後遺症が発症することだってあるって」
それでもルリは渋っていたけれど、強引に僕は病院へ連れて行った。
* *
「言ったじゃない。ただの立ちくらみだって」
病院から帰るバスの中で、嘆息しながらルリは言った。
バスから見える空はすでに雨もやみ、太陽が沈み、真っ暗だ。
病院に行った結果、本当にただの立ちくらみだったみたいだ。
「本当に何ともなくてよかった。……でも、同じ事があったら、僕は次も病院に連れて行くよ」
座っているルリに、つり革に手を預けながら告げると、ちらりとルリが僕を見上げた。
顔色も悪くは見えない。
……そういえば、何の話をしていたんだっけ。
ああそうだ。わけのわからないやつがルリに変なことを言った、って話か。ルリの手紙で呼び出されて……。
思い出して、おもわず吹き出した。
「何がおかしいの?」
「ああ。ちょっと思い出して」
「何を?」
「……実はね、僕は、ルリの手紙を、告白のための呼び出しだと思っていたんだよ」
そんな勘違いをしていたことが少しおかしくて、と続けた。
ルリは瞑目して息をのんだ。
僕は艶然とした笑みを見せ、小さくつぶやいた。
「そうだったらよかったのに」
信号で停まっていたバスが走り始める。停留所が近いのか、低い声のバスのアナウンスが流れた。まだ僕たちの降りる場所までは遠い。
「智明は、ずるいね」
窓から外を見ながらルリが言った。窓に映るルリは、昔を想うように遠くを見、ほろ苦いものをこらえているように唇を噛みしめていた。
それも一瞬で、僕に振り返るときにはそんな表情は消えていた。だから、そんな表情は一瞬の錯覚じゃないかと思えるほどだった。
「……今日、私が言いたかったのは、もし藤城さんを使って私に言わせるんだったら、他人を入れずに、私に直接言ってってこと。違うなら、これはいいよ。それから、もし私の態度がクラスの雰囲気を悪くしていたのなら、そのことだけは謝る。ごめんなさい」
丁寧に頭を下げ、ルリは続けた。
「だから、これからは無視するような真似はしない。話しかけないでとも、もう言わない」
一瞬の驚きと、歓喜が胸に駆け上がってきた。
「私だって、感情を殺して話したくない相手とだって話せる」
遮るように告げた言葉は、水を掛けるようなものだった。
「無視をするのが子供の対応だというなら、大人の対応を取る。笑顔で挨拶もする。受け答えもする。ただのクラスメイトとして不自然な対応はしないよう振る舞う。周囲に気を遣わせたり、空気を悪くするようなことはしない。……これで、いいでしょう?」
ルリが、反論を許さない問いを向ける。
だって。
それじゃあ。
そんなのは。
ルリの、心は。
バスが、信号の前で、再び止まった。