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奪ふ男

――ジョーカー 2−16――


 西島は僕の隣の席に腰を下ろす。
「甘いんじゃないかな、智明君。これで陸奥先輩から谷岡さんへの暴力が終わりだと思っているなら」
 外で着ていただろう白いコートを膝にかけ、西島は笑みを見せる。
「どういう、意味」
 僕がそう訊くのがわかっていたようで、すらすらと西島は返す。
「だってそうでしょ。あんなに簡単にお金を貢ぐような人を、どうして陸奥先輩が手放すと思うの? 谷岡さんは谷岡さんで、陸奥先輩と別れられないみたいだし?」
「別れるに決まっているだろう。あんなことをされて」
 押し殺した声には、知らずに怒りが漏れている。
 別れるに決まっている。別れるに決まってる決まってる決まってる――
「冷静に考えようよ。お金を貢がせられて尚、付き合い続けた谷岡さんだよ? 暴力を振るわれたことが別れる理由になるのかなあ。あばたもえくぼ、惚れた欲目。谷岡さんはほんっとうに陸奥先輩のことが好きなんだねえ。あたしだったら、絶対、即座に別れるのに」
「勝手なことを言うな。そんなわけがない」
「何が?」
「別れるに決まってる」
 西島は吹き出して笑う。
「決まってないよお、そんなこと」
 僕はその瞬間、この女の首を絞め、黙らせたくなった。全部可能性にすぎないくせに、本当のことのように言いやがって! ルリが誰かに恋していると話してきたときもそうだった。西島は、ただの仮定にすぎないことを、本当のことのように話す。
 ルリが別れないかもしれないのも、好きだというのも、万に一、億に一の可能性に過ぎないくせに。
 その可能性を、僕の見たくない可能性を、提示されること自体に腹が立つ。
 それでも、一度示されたその可能性は、僕の頭の中から消えはしない。真っ白い和紙に墨が染みこむように、僕の頭を占めてゆく。
 ルリが再び血を流す可能性。金をむしり取られる可能性。それでも付き合い続ける可能性。
 何一つ、僕の望まない未来。強く相手を否定できないルリならば、あり得る可能性。それとも、暴力におびえて、別れを切り出せないルリという可能性。陸奥にたぶらかされたままで、僕の聞く耳を持たずに付き合う可能性。望まない可能性は、決して消えてくれない。
「このままで一件落着なんて、甘いんだよ」
 望まない可能性は、このままでは消えない。それは確かなんだろう。
 可能性の芽を、限りなく潰さない限り。最後の念押しが、必要なのだろう。
 やはりルリには、僕が必要なんだ。
 僕が守らなくてはいけないんだ。僕だけが。
 ルリに真実を告げるのはまだ先に延ばそう。もしかしたら陸奥と付き合い続ける状態で、僕の言葉を聞いてくれないかもしれない。それより先に僕にはすることがある。ルリと僕のために、しなければならないことがある。
「――それでね、ここからが本番の話なのよ。榊から話を聞き出して、わざわざここまで来たのは、ここからの話をするため。ここからがあたしと智明君の話。あたしと付き合ってくれたら、谷岡さんと陸奥先輩のことをどうにかする手段を……」
 僕は、隣で耳障りに何かを長々と訴えている西島の話を、これっぽっちも聞いていなかった。ルリの悪い可能性以外の話なら、後はどうでもいい。解決するため、他の人間の手を借りるなんて考えてないのだから。
 僕は一人で考える。そして一人で実行するだろう。ルリのためにすることを。
 目の端に映るクリスマスツリーの頂上では、星の飾りがぎらぎらと黄金色に輝いていた。


 考えているうちに、どれほど時間が経ったのだろうか。
 ふいに、僕の名前を呼ぶおばさんの声で、顔を上げる。
「遅れちゃってごめんね。あの先生若いせいか、時間がかかっちゃって。……あら?」
 おばさんは後ろにルリを連れていた。おばさんが持っていた青い帽子を被っていて、その下にはちらりと白いネットのようなものが見える。うつむいて、表情はよく見えない。
 おばさんがためらいながら、尋ねてきた。
「そちらのお嬢さんは、お知り合い?」
 隣にいる西島に目を向ける。すぐさま西島はふざけて答えた。
「智明君の彼女やってる、西島ひとみって言いまーす」
「冗談です。西島さんはただのクラスメートです」
 怒りをこらえつつ、すぐさま僕は否定したが、おばさんはあっけにとられたようだ。ルリはうつむいたまま黙っている。ルリがどう感じているのか判別つかない。
「あら、まあ、そう。……でも困ったわねえ。うちの車は荷物を乗せているせいで、四人しか乗れないのよ。人数が……」
「結構ですよ。あたしは智明君と二人で帰るんで!」
 どうしてだ。
「僕はルリと帰るから、西島さんは一人で帰れば?」
「ひどーい。あたしを一人にするなんて」
 さっきから勝手に一人で喋りまくってたんだから、満足もしたろう。一人で来たんだから一人で帰れ。僕はルリを待っていたんだ。ここまで来て、どうしてルリと話もできずに帰ることになるんだ。
「タクシーでも呼んであげるよ。方向だって違うんだから、別々の方がいいんだよ」
「それくらいならここの駐車場に留めてるウチの車で帰った方がマシじゃない」
 西島が頬をふくらませて不満顔を見せるが、僕はさっさと追いやりたくて仕方がなかった。
「家の人がわざわざ車で送ってきてくれたなら、なおさら僕たちと帰るわけにはいかないじゃないか。ね。ほら、またね」
「そうね。さすがにそれは、ご自宅の車で帰った方がいいわね」
 おばさんが同調してくれて、西島の反論を封じ込めてくれた。
 西島は最後まで不満げな顔を崩さず、駐車場の方へ大股で歩いていった。
 おばさんも、「じゃあお父さんを呼んでくるわね」と、ルリを預けて先に行った。
 残った僕と、ルリ。
 常にざわめいている待合室の中で、ルリはうつむきがちに静かなままだった。帽子のせいで、余計に表情が見えない。
「……座って待ってる?」
 少し焦った僕の問いに返ってきたのは、無言。一歩も動く気配がない。
「そうだね。すぐおばさんは戻ってくるもんね。座る必要はないよね」
「…………」
「傷は、どう? 今も、痛い?」
 これもまた、何の反応も返してくれなかった。
 僕はことさら、現状の中で楽観的な考えを口にした。
「あ、そうだよね。今は僕と会話するだけで疲れるよね」
 怪我を負って、元気だってないに違いない。僕と話すだけでつらいのだろう。
 向こうにいた子供たちが、僕たちの方へと近づいてくる。どうやら鬼ごっこをしているようだ。まてーとか、やあだよとか、叫びながら近づいてくる。
 最も子供たちが近づいてきたとき、隣からぼそりと聞こえた。
「……どうして来たの」
 騒ぎの中の聞き間違いかと思った。
 だって、暗いその言葉には、僕が来たことをいやがっているような雰囲気さえ見えたのだから。
 …………。そんなわけ、ない。
 ないに決まっている。震えそうになる手をごまかすように、ルリに見えない場所で強く握りしめる。
 その後、おばさんが戻ってくるまで、僕たちの間に言葉はなかった。


 冬休みがあけてすぐ、始業式の翌々日の夕方だった。
 駅ビルの二階にある喫茶店へと足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ。お一人様でいらっしゃいますでしょうか」
 口ひげを生やした長身の男の店員がすぐさま現れた。僕は軽く手を振り、
「いや、先に連れが来てるんだ」
 と、男の脇を通り、奥へと進む。
 一番奥の席に、二人はいた。そのうちの一人に対して笑顔で手を振る。
「……なんで、智明がここにいるの」
 僕の方を向いていたルリは、顔をこわばらせていた。もうすでに、包帯は頭にない。ルリの前の席にいた陸奥も振り返る。
「つけてきたの、智明」
 非難するルリに、ひどい言い方だなあ、と軽くこぼした。
「心配していたんだよ。この前あんな目に遭ったのに、誰にも行き先を知らせずにどこかに行くんだから。言っておくけど、僕だけでなくおばさんも心配していたんだからね。おばさんから、ルリがいないって聞いて、探していたんだ。見つかってよかったよ」
 ルリはあごを引いて、口を閉ざした。
 それは本当だった。一時間ほど前、おばさんが急に家にやってきて、「瑠璃子がいないの」と動揺した様子で訴えてきた。普段だったら別に気にするほどのことじゃなかったけれど、ルリが怪我をした後のことだ。心配するのも当然じゃないか。
 それが、四方八方探してみれば、こうしてルリは、陸奥と一緒にいるわけだ。喫茶店に二人で入る姿を見つけたとき、唖然としてしまった。
「ルリもすごいねえ。あんな目に遭って、それでも陸奥といるんだから」
 僕の冷たく妬みの含まれた声に、ルリの肩が震えている。うつむいて顔を上げないルリに、僕はかわいそうだと思えた。
 そうだよね。陸奥が脅して無理矢理連れてきたに決まっているよね。
 ……そうでなければ、西島の言うとおりってことになってしまう。ルリが、暴力を振るわれてもなお、陸奥と一緒にいたいと思うほどに好きということになってしまう……。そんなわけが、あるはずがない。
「ごめんね。ルリが陸奥と一緒にいたくているわけじゃないのにね。厳しく言い過ぎたね。ごめんね」
 とても優しい気持ちになれてそう言ったのに、ルリは首を横に振った。
「そうじゃない。わた、私は、陸奥先輩と、私自身がちゃんと話したくて、ちゃんとしたくて、陸奥先輩を呼んだんだよ」
 その瞬間、西島のカンに障る、ほらね、と言わんばかりの笑い声が僕の頭の中で響いた。
「……別れたんだろ?」
「えっ?」
「ルリと陸奥は別れたんだろ! なあ!」
 驚いて固まっているルリ。剣幕に圧されたのか、陸奥は何度もうなずいた。
 別れたのに……。
 何て言った?
 ルリが、望んで、陸奥を呼んだ?
 あんな怪我をして、それでも?
 僕はまだぬるかった? まだ足りない?
 このときになって僕はようやく、ルリの前に座っている男に目をやった。本当は目にも入れたくないけれど。
 顔を引きつらせている陸奥。こいつのせいで。すべて、全部、こいつのせいで!
「ルリ、出てってくれない?」
 返事があったのは、一拍を置いてからだった。
「……え? なんで……?」
「うん、僕と陸奥とで話があるから。ルリがいるとできない話があるから、出てってくれるよね?」
 ルリは大きく見開いた目を僕に向けていた。
「何それ。私が邪魔ってこと。私に一緒にいるなって言っておいて、自分は別なの」
「だって僕は話さなきゃいけないことがあるから。ルリがいると話せない」
 どうしてこうも、ルリはここに留まろうとするんだろう。陸奥なんて顔も見たくないと思ったって、おかしくないのに。
 そう考えてから、思い出した。
 冬休みの間、ずっとルリとは会えなかった。ルリの家に行ったけれど、ルリは部屋にこもっていたから。怪我があって外に出たくないんだろうってわかっていた。
 会えるようになったら渡そうとしていたものがあったことを、いまふいに思い出した。
「渡し忘れていたよ」
 封筒を取り出し、ルリに手渡した。
「陸奥に騙し取られた分のお金だよ」
 陸奥が何かを言いかけたが、睨みつけて黙らせた。
「ね、これでルリが陸奥と話す必要のあることは終わったでしょ。もう別れたんだしね」
 ルリが陸奥とのことで気にかけていたのはこれだよね。そりゃあ無理矢理とられたお金のことは気になるよね。
「こんな、こんな……」
 ルリは手を握りしめて、その中にあった封筒もひしゃげた。
「こんなもの、私、私は」
「もういいよね? お金以外にルリと陸奥の間で何があるの? 何もないでしょ? これで全部清算したんだから、もう陸奥と話す必要なんてないよね。何かあるっていうなら僕が全部なんとかする。だからルリはすぐにでも出て行って。そして陸奥の前に、二度と顔を出さないで」
 畳みかけるように言うと、ルリは唇をかみしめる。何が悔しいのか、僕にはわからない。
 ルリはくっと顔を上げた。そして乱暴にコートとバッグをつかみ、喫茶店の出口へと駆けていった。
 ……ルリが視界から見えなくなるということは、いつだってつらく締め付けられるように切ない。
 それでもルリがいてはできないこと、というのがある。
 先ほどから身体をこわばらせ、一言も口をきかない陸奥に目をやる。
 そして胸ぐらをつかんで、一気に床に引き倒した。
 隣にあった誰もいない机も一緒に倒れる。遠くの席から、悲鳴が上がる。
「何しやが」
「理由は自分でわかっているよな。こうして呼び出してまた貢がせようとしていたのか。その神経の太さはすごいね」
 身体を起こそうとしていた陸奥の手の上に足を乗せた。踏みつける。
「やめろ、やめろ! 手はやめろ!」
 ギターが、俺の手が、とかわめいている。うるさい。
「じゃあ、喉にしようか?」
 陸奥は片方の手で喉を押さえた。
「二度とルリに会うな。二度と話すな。もちろん二度と貢がせようとするんじゃない。手をあげるなんて論外だ」
 足に力を込めながらゆっくり告げると、悲鳴のような声を上げた。
「ああ、わかった、わかったから!」
 本気で言っているのか疑わしくて、一層力を込める。
「本当だ! もうお前らとのトラブルはうんざりだよ!」
「お客さん!」
 店員が僕を後ろから羽交い締めにして、止めに来た。陸奥は手をかばうようにしてうずくまっている。
「喧嘩はご遠慮ください!」
「悪かったね」
 僕は背中を押されて店を追い出された。
 もう用はなかった。
 ルリをこの場から立ち去らせたのは、彼女はきっと止めるだろうからだ。陸奥をどうしても脅さなければならなかった。可能性を滅した今後のために。どんなときだって側にいたくて側にいてほしいルリを外に出したのは、僕にとって苦渋の決断だった。この胸の痛みを、誰かに理解してもらおうなんて考えていないけど。
 服を整えて歩き出した僕に、時間を置いてから店を出てきた陸奥が遠い後ろから叫んだ。
「お前、何なんだよ! 何がしたいんだ! 意味わかんねえよ!」
 離れてからじゃないと言えない小心さにうんざりしながら、僕は一言も答えず、振り返りもしなかった。
 こいつに僕の気持ちなんてわかるものか。かけらも言う気にもなれない。
 もう二度と、話したくない。見たくもない。

 ――しかし、陸奥の中に疑問を残したままでいたのを、深く、深く後悔することを、そのときの僕は知らない。

 駅ビルから出ると、沈む寸前の夕日の光が鋭く目に飛び込んできた。
 太陽に目を奪われるのは一瞬。気づくと、すぐ隣にルリがいた。
 たぶん、僕のことを待っていたんだ。
 じっと見上げてくる目を見れば、わかる。
「これを、陸奥先輩に渡してほしい」
 僕に差し出してきたのは、さっきルリに返したばかりの貢がされたお金の入った封筒だった。
「これはバンドの資金として渡したもので、私に返す必要はないの。手切れ金としても、ほしくない。私が先輩と会ってほしくないんでしょ。もう会わないし、話もしないから。会わないってことは信じてもらっていいよ。誓ってもいい。私だって二度と怪我なんてしたくないし、そんな人と話したいわけじゃないんだから。だから、智明から渡して」
 予想外のことだった。ルリはお金を渡すと約束をしてしまっていたのかもしれない。ルリは約束を結んだとき、頑固に義理堅くあろうとするから。
 二度と会わないと誓われたことは、純粋にうれしかった。
 ああ、僕の苦労が報われたんだ。
 でも、返すために陸奥に会うつもりもなければ、陸奥に返させるつもりもなかった。
「どうせバンドで必要だっていうのもでまかせにすぎないんだから、財布に戻しておいた方がいい。僕に渡されても、陸奥にはもう会わないから渡せないよ」
 ルリが不思議そうに首をかしげた。
「智明と陸奥先輩は、その、付き合ってる、んでしょ?」
「冗談。どうしてあんなやつと僕が。もう二度と会いたくないね」
 こうやってルリと陸奥が別れた以上、必要ない。
 ルリは口を開けて、呆然としていた。そしてこめかみを押さえる。
「こんな早くに別れるなんて」
 言ってからかすかに自嘲気味に笑い、早さについては私に何も言う資格はないね、とつぶやいた。
 久しぶりに見た、彼女の笑み。ああ、うっとりしてしまう。満面の心からの笑みでなくてもいい。それだけを求めるなんて狭い心は持っていないのだから。
 いまのルリは誰のものではない。
 ……そして、僕のものでも、ない。
 無性に、誰よりも早く気持ちを伝えたくてたまらない衝動があった。
「大好きだよ、ルリ。誰よりも。僕はいつだって、ルリのことしか考えていないよ」
 手を取って、甘く誘うように囁く。
 僕の一億分の一の気持ちだけでも伝わってほしかった。
 手の甲を、指の股を、指先をゆっくりと順に大事に撫でていく。
 ふと顔を上げると、くしゃくしゃの顔をしたルリがいた。
 僕の手を振り払い、距離を取って、ルリは震える声で告げた。
「冗談はやめて。いい加減で嘘ばっかりの言葉で、私を迷わせないで」
「嘘なんて」
「聞きたくない。どれだけ、どれだけ、私のプライドを根こそぎ奪い取れば気が済むの。そんな話をするならもう――話しかけないで」
 ぴしゃりと言い、僕の口を封じる。
 ルリは残光に染まりながら、駆けていく。
 怒りの理由もわからなければ、どうすればいいのかもわからない。
 なんで、僕の気持ちがそんなに嫌だってこと? ……そんなことないよね?
 ルリの気持ちを知りたい。
 でも言われた以上問い詰めるわけにもいかない。話しかけるなというなら、話しかけるわけにはいかない。
 僕はただ彼女の姿が小さくなるのを見ることしか、できなかった。

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