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奪ふ男

――ジョーカー 2−15――


 血痕は絶え間なく、廊下から階段へ、そして再び廊下の上を這っていた。
 最終的にたどり着いたのは、一階にある保健室だ。きっとルリは頭の傷を診てもらおうと考えたのだろう。ルリらしい、常識的な判断だ。
 保健室に近づくにつれ、保健室の前にいる男に気づいた。榊は、廊下で四つん這いになっていた。
 何をしているんだ、こんなところで。
 そう思ってすぐ、わかった。廊下に垂れている血を雑巾で拭いているのだ。床に残る血を跡形も残さないように強くこすっていた榊は、大分近づいてから僕の足に気づいたようで顔を上げた。その眼が僕を捉えると厳しいものへと変わった。
「どこで何をしていたんだ」
 こいつの問いに答えることよりも、ルリの行方のことが気になる。
「ルリはどこに? 保健室か?」
 目の前の保健室の扉へと目をやる。
「もういない。手当を受けて、保健室の先生と一緒に病院へ行った」
 やっぱり怪我は重いものだったのか。いてもたってもいられない。
「どこの病院だ?」
「市立総合病院だってさ。でも俺たちはここで待っとけって。多分、終業式をサボってたことを怒られるんだろうな」
 そんなどうでもいいことで足止めされることが耐えがたい。ルリは今、どうしているんだろう。怪我が悪化していたら。まさか、手術を受けるなんて重い事態になっていたら……。
 考えるだけでたまらない。
「榊、なんとかこの場を取り繕っておいてくれないか? 今すぐ病院に向かうから」
「やだね。講堂から帰ってくる他の生徒にこの血を見せたら、大騒ぎになる。お前にも手伝ってもらわなけりゃ、時間的に俺一人で終わりそうにない。それに、谷岡さんのところにお前を行かせたくない」
 榊のまなざしは厳しいままだ。
「『智明がひどい』って、谷岡さんはずっと言っていた。何も思い当たることはないのか」
 榊の眼は疑いを宿している。まさか、ルリのあの凄惨で怒りを覚える怪我を、榊は僕が負わせたと誤解しているんじゃないだろうな。全部、陸奥が悪いってのに。
「僕がルリに怪我をさせるわけがないだろ。陸奥がやったんだ」
「それは知ってる。谷岡さんは、この怪我はお前のせいじゃないって、強く言っていたから。かといって、誰がやったかってことは言わずに、自分で転んだとか嘘をついていたけどな」
 どうして陸奥の名前を出さなかったんだ? 陸奥をかばっているのか。あんな目にあって、まだ心が残っているのか。あんな男に。僕よりはるかに程度の低いあいつを!
「お前が殴ったなんて思ってねえよ。谷岡さんも、さんざん、そこだけは誤解しないでほしいって言っていた。でもな、じゃあお前は、『ひどい』と繰り返し言われるようなことをしなかったと誓えるのか。……お前、谷岡さんを傷つけるようなことをしただろ」
 傷つける? 僕は守ろうとしただけだ。やっぱり最悪だった陸奥を、ルリから引き離そうとしただけだ。暴力から守れなかったことは認めるけれど、引き離そうとしたことを後悔するものか。もっとしっかりとすれば良かったと思うばかりだ。
 ルリに『ひどい』と言われたのはきっと、怪我をして錯乱しているためだろう。あの陸奥をかばい、僕を糾弾するなんて、ありえない。
「大体何をしたか予測できるけど、反省の色なしかよ。最悪だろ。それでよく、好きだとか言えるな。お前は最低だよ」
 聞き捨てならない。僕の揺るぎない気持ちを踏み躙るような発言だ。
「最低っていうのは陸奥のような奴のことだ」
「そいつも最低だけど、お前も最低だろ」
 陸奥と僕を同レベルだというのか。
 ルリではなく、あくまで榊の一意見とはいえ、そんなふうに言われたことで、榊へまっすぐ向けていた視線が揺らぐ。榊が、まるで自分が正しいと言わんばかりの口調だからだ。誰だって、悪くなくとも、詰問されれば動揺する。
「谷岡さんがかわいそうだと感じないのか? 付き合っていた奴と不本意にも別れることになって、しかもそれが身近にいる奴が浮気相手になるなんて」
 榊は僕を攻撃しようとしている雰囲気だが、悠然と答えてみせた。僕は僕の思ったとおりに行動し、恥じるところはない。
「陸奥はルリにはふさわしくなかった。何もかもが。さっさと別れた方がいい男だった。そのために動いたにすぎないよ。ルリのためを深く、深く想って、守ろうとしてね。僕は行動したのが遅すぎるくらいだった」
 前の奴だってろくな奴じゃなかった。付き合っても、ルリに害を与え、価値を下げる、いない方がずっとマシな奴ら。前の奴だけで終わるかと思いきや、二人目が出てくるなんて、もっと目が離せない。
 今は混乱していても、後になったらルリはわかってくれる。ルリを守るためのことだと。きっと。
 だけど僕の返事は、榊のお気に召さなかったらしい。たまりかねたように奴は目を見開き、怒鳴ってきた。
「だから別れさせるのは正しいって言いたいわけか! 本音は谷岡さんが誰かと付き合うのを見たくないってだけの、エゴまみれの行動のくせに! じゃあ、谷岡さんのことを本当に好きで、大切に思っている良い相手なら、お前は何もしなかったってことか? さっきの話を聞いていると、そういうことだよな!」
 ありえない。
 そんな例は、僕には突拍子がなく思えた。
 榊の剣幕に少し戸惑ったものの、すぐに立て直す。こいつに隙を見せてはいけない。
 その仮定する『良い相手』とやらは、僕とルリの確固たる絆を引き裂こうという人間だ。その時点で『良い奴』ではあり得ず、最低最悪な重罪人と言ってもいい。ろくでなしの、ルリを食い物にする、恥知らずの人間に決まっているんだ。
「そんな奴はルリと付き合おうとなんて考えないよ。本当に良い奴なら、僕とルリとの間の空気を読んで、間に入ってくるような真似をするわけがないじゃないか」
 榊は目許をぴくぴくとさせ、さらに怒鳴ってきそうな気配を漂わせた。しかし、一度きつく目を閉じ、大きく息を吐くと、榊は背を向けた。手に持っていた雑巾を洗いに、バケツへと歩く。
 しゃがみこみ、乱暴に洗う榊の背から、低いながらも激しさはない声が届く。
「――もういい。お前の考え方は、ようく、わかった。めんどくさいから、もういい」
 そっちから喧嘩を売ってきておいてのその態度にむかっ腹が立つが、それならそれでいい。僕だって、こいつに糾弾され続けるのはおもしろくないのだから。榊の攻撃を押し返し、後退させたことに、かすかに満足感が生まれた。
 榊は、だけどな、と背を向けたまま低い声で続ける。
「きっと谷岡さんはお前よりずっと良い奴と付き合うよ。お前と谷岡さんの関係性を知れば、良い奴ならなおさら、谷岡さんをほっておけるわけがねえもん。……ちゃんと谷岡さんのことを考え、守ろうとする、そんな奴が相手なら、お前の横暴の『言い訳』はなくなる。そのとき、お前は言ったことの責任を取って、何もするんじゃねえぞ。ただ見てるんだ。他の、失恋した普通の人間がするように、何もせずに、邪魔をしないでいるんだ。……それが嫌なら、今、谷岡さんに言え。『自己中心的に考えた結果、谷岡さんの幸福を邪魔している。決して谷岡さんの未来と幸せを考えてのことじゃない』ってな。さすがに谷岡さんもお前と絶縁するだろうから」
 僕は、一歩も動かず、榊の不吉な『予言』を耳にしていた。
 響く水音は僕の胸へさざ波を引き起こしている。
 追い込まれてしまった、と直感した。それも逃げ場のない場所に。
 反論を口にして、打開しようとも考えた。僕はルリのことを考えている。言い訳なんかじゃない。一番考えている僕だから、ルリを守るために行動に移した結果にすぎない、と。
 しかしそれを口にしても、『だったら良い奴と付き合うとき、邪魔はするはずないよな』と返されるのが目に見えている。
 その『良い奴』という言葉への定義を争っても、逆に追い詰められそうな気がする。榊は同時に、僕を攻撃するだろうから。
 榊が最後に言ったようなことを、ルリに絶対に言いたくない。
 かといって、もし榊の言うとおりの事態になって、何もしないでいる、というのは、想像するだけで耐えられない。ルリと誰かを見守り祝福するなんて、背筋に悪寒が走る。榊の話にうなずきたくはない。
 無視をすればいい――とは安易に考えられなかった。僕がその通りにしなければ、そのとき榊はルリに言う。絶対に言う。僕が今までルリのことを考えて動いたわけではないと、ただ幸福を邪魔したいからしているのだと。そうではないのに。
 それを明言されれば、しかも榊に言われれば、ルリに上手く取り繕えるだろうか。それが嘘八百の、考慮する価値のないものだと、ルリに信じさせられるだろうか。ただでさえ、憎らしくも、榊のことを信頼する部類に置いているルリだというのに――。
 僕は上手い対処方法を思いつけなかった。せめても、笑みを浮かべて余裕ある風を装った。
「僕より良い奴なんて、現れるわけがないけれどね」
 言ってから、それはそうだと思えた。今までルリの付き合ってきた男はろくでなしばかりだ。榊の予言が正しければ、僕とルリはいつも一緒だったのだから、今までだってそういう男が僕からルリを守るために、なんてほざいてルリと付き合っていてもおかしくないのに。好きでもないのに最低野郎ばかり付き合ってきたルリなのだから、ルリをほっておけない『良い奴』とやらが現れていたならば付き合っていた可能性は高いんじゃないか? 想像もしたくないけれど。でも、ルリはクズ野郎としか付き合っていない。榊の予言の信憑性が薄れてくる。榊の想定する『良い奴』なんているのか? 僕よりルリのことを想い、行動する男が。
 たとえ、僕からルリを守ろうと考える『良い奴』とやらがこの広い世の中に万が一いたとしても、その前に、僕とルリが付き合えばいいだけのことだ。もう二度と邪魔する存在を作らないために。
 ルリに、僕以外の男へ流れてしまうようなところがあったとしても、二度と他の奴と付き合わせるものか。これ以後も、何度も同じことを繰り返したくはない。これで終わりにすれば済む話なのだ。そうすれば、榊の仮定は無意味なものとなる。
 僕とルリが結びつけば、全てが済む。
 自然に、病院にいるだろうルリのことを想った。怪我は大丈夫なのか。
 最低最悪な奴と付き合ってしまったから、こんな事態を招いたという面もある。ルリが悪いわけじゃない。あの陸奥が、甘言を弄して、ルリは騙されただけだ。
 二度と同じ目に遭わせないためにも、ルリと他の男が付き合うような事態を起こしてなるものか。僕は固く誓いながら、榊と同じく雑巾を手に取った。
 この血の跡が残れば、ルリは学校中で噂になり、居たたまれなくなって、ひいてはそれが転校へとつながってしまうかもしれない。
 ルリのことが心配でないわけじゃない。でも、今、僕がルリのためにできることをする。これからの二人の関係を考えながら、僕は廊下を拭いていった。
 


 市立総合病院は、この界隈でもっとも大きな病院だ。教師の説教を聞き流し、僕は即座に学校を抜けこの病院へと走り、駆け込んだ。
 この白く四角張った病院の中では、多くの人が待合室で座り、周囲で子供が遊び回っている。
 ルリがどこにいるかを尋ねると、どういった関係の方でしょう、と逆に尋ねられた。
 無遠慮に無神経に問われて、すぐに答えられなかった。僕がルリに対してどんな感情を持てあましているか、それを簡単に言うことは難しい。けれどそれ以上に、僕とルリの関係を、家族や恋人といったふうに単純に言い表すのは難しい。それが、妙に悔しい。
 内心でその質問の答えを考えていると、ルリのおばさんが、「あら智明君」といつもと変わらない様子で声をかけてきた。おばさんは近くのスーパーにでも向かう途中のような飾り気のない格好だ。見慣れない、つばの広い青色の帽子を手に持っていた。
「もしかして瑠璃子に会いに来てくれた? ありがとうねえ。瑠璃子も喜ぶわ。あんまり表には出さないけど、あの子、そういうのすごく嬉しがるから」
「いえ……それで、ルリは、どう、なんですか」
 おばさんは顔を曇らせた。どこか困ったような顔をしながら、
「うん、それほど悪くはないから、大丈夫」
 僕は安堵できなかった。
「本当に、大丈夫なんですか」
 おばさんは青い帽子を両手で弄びながら、いつになく固い視線を下に向けている。ちらりと、答えを待つ僕の方を見て、口を開いた。
「……そうね、しっかりしているように見えたね。傷口も縫って、というか、留めたっていうか。うん、ともかく傷口はふさいでもらったのね。あとは念のために、検査とかしてもらうような状況なの」
「検査って」
「一応頭だからね、脳への影響がないかとか、いろいろとあるのよ。こればっかりはちゃんと検査されなきゃわからないから、何とも言いようがないんだけど」
「傷跡とかは大丈夫だったんですか」
 おばさんは帽子に視線を向ける。
「ええ、そのあたりはね」
 低くつぶやくような声音を、おばさんは意識的に変えて、僕がいつ帰るのかを訊いてきた。僕は、できれば検査が終わるまで待って、最悪でも一目だけでもルリを見てから帰るつもりであることをおばさんに告げると、
「お父さんが車でここに向かっているから、瑠璃子のことが終わったら、一緒に帰りましょ」
 そう簡単に誘った。
 そんなことがあり得るのか、と僕は呆然としていた。
 僕が怪我をしたところで、父さんも母さんも仕事を休んで病院にやってくるなど、絶対にない。でも、専業主婦のおばさんはともかく、おじさんは多分会社を途中から休んでまで、ルリのいる病院までかけつけようとしている。
 おばさんは、僕の表情を仰ぎ見て、何かを察したのか、優しく言った。
「もし、怪我をしたのが瑠璃子でなくて智明君でもね、おばさんはすぐに病院にかけつけたからね。それで、瑠璃子だって智明君と同じように、まっさきに病院に来るよ。多分きっとね」
 僕は、言葉を詰まらせた。
 おばさんの、この優しさこそが、理由なんだ。
 僕が、ルリの周囲の人間や物に嫉妬しても、ルリ自身に嫉妬してこなかった理由は。おばさんは昔から、僕とルリとを平等に、いやそれ以上だと感じるほどに心を配って優しく扱ってくれたから、僕はルリに取って代わりたいと思ったことはなかった。いや、大昔は多少は思っていた。すぐにそんな思考は頭の中から消えた、というのが正しい。
 だってルリは、おばさん譲りの、いやそれ以上の優しさで、僕の全てを理解し、全てを包み込んでくれたから。
 おばさんの言った仮定を想像する。何らかの理由で病院へ来ることになった僕。すぐに、僕と同じくらい心配して追いかけてくるルリ。
 おばさんの言葉には長年で培った信憑性があって、その想像が絶対におこなわれることのように思われて、僕の胸をくすぐった。
 瑠璃子のことを見てくるから待合室のあたりで待っていてね、と告げ、おばさんは青い帽子を手に去っていった。
 
 
 おばさんの言葉にほんのりと胸を温かくさせながら、待合室の椅子に座った。
 検査はどれくらい時間がかかるんだろう。もしかしたら明日までかかって、入院することになるかもしれない。そうしたら明日も来よう。入院が更に続いたら、明後日も、しあさっても、退院するまで毎日来よう。
 ふと、視界の隅に小さな子供が集まっているのが見える。普段ならどうでもいい、と意識しないけれど、あんまりうるさくて、そちらに目を向けた。
 子供たちの中心には、電飾や星で飾り付けをされた、鉢植えのもみの木が見える。
 ああそうか、クリスマスだからか。
 僕はすぐに視線をそらす。これほど嬉しくないクリスマスイブは初めてだ。
 ルリがあの害虫によって怪我を負ってしまった日。けど、待てよ。結果的にあいつと別れることになったのだから、悪いことばかりじゃない。
 問題はこれから。
 ルリと僕の関係修復だ。以前と同じ轍は踏まない。
 僕は全てをルリに告げるのも一つの方法だと考えていた。
 ルリのためを思って、暴力男と別れさせるためのことだったと。全てはルリのためだったと。
 あのひどい怪我を負わされたルリならば、わかってくれる。あいつの最悪さ加減を十分に思い知っているはずだ。その分、僕の想いの深さを十分にわかってくれるはずだ。榊の不吉な予言を、僕は頭の中から振り払う。
 突き詰めた問題は、以前のように無視され逃げられては、このことを話すことすらままならないということ。
 なら、ルリが怪我を負って逃げ場のない今、すぐに、話すべきかもしれない。
 早いに越したことはない。
 おばさんが入っていった部屋は見た。多分その奥にルリがいる。怪我を負って、かわいそうで、つらい思いをしたルリが。
 立ち上がり、勢い込んで一歩踏み出しそうとした足が、止まった。
「どーこ行くのお? 智明くん」
 後ろからいきなり抱きつかれ、身動きができなかったのだ。
 首だけ後ろに回すと、すぐ近くにあった猫のような眼とかち合った。
「……西島さん」
 僕は困惑の顔を、意図的に彼女に見せた。何でこの女、こんなところに。
 西島は、楽しくて仕方がないという笑みを浮かべていた。彼女は上機嫌に歌うように続けた言葉で、僕の足を完全に縫い止めた。
「あたしの話を聞いてちょうだい。もし聞かなかったら、智明くんは後悔するよ? 谷岡さんのこれからの、たぁいせつな話だから、ね」

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