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奪ふ男

――ジョーカー 2−14――


 怪我をするということ。大怪我を負うということ。血を流すということ。暴力を振るわれるということ。
 毎日毎日、どこかで誰かの事件は起こっている。ブラウン管から何度も流れてくる傷を負った事件の情報。耳から耳へすり抜けるとしても、意味は理解していた。
 僕はその言葉の意味を知っていた。
 知っているつもり、だった。
 僕は本質を知らなかった。想像もできていなかった。言葉でしか理解していなかった。
 怪我を負った人間の悲惨な状態を、何もわかっていなかった。
 初めて、深い怪我をした人を見た。直接この目で見て、僕は初めて理解した。怪我を負うとはどういうことか。大怪我を負う、血を流す、とはどれだけ凄惨なことか。
 僕は凝視していた。
 水で薄まったとはいえ、床や花を濡らす赤い赤い血の色を。大きく広がる血の量を。その強い匂いを。大きな痛みとショックで横たわり、恐怖のためなのか全身を痙攣させているルリを。
 僕は初めて聞いた。
 暴力を振るわれた人間の悲鳴を。あまりに激しい痛みに耐える人間の泣き声を。
 これらの初めて知ることがルリに、よりにもよってルリにもたらされたものだということに、頭のどこかが麻痺しそうだった。
 僕は、陸奥が暴力を振るった過去があると聞かされたとき、この現実をまったく理解していなかった。前の彼女と同じようなことがルリに起こるかもしれないと思ったときも、そうしたら彼女と同じように引っ越してしまうかもしれないと、本当に憂慮すべきこととは別のことを考えていた。
 陸奥が暴力を振るい、ルリから血が流れる結果となる。
 そうなることは十分考えられることだった。
 そしてそれは、引っ越しだとかそれ以前に、何にもまして考えて、避けようとしなければならないことだったのに。僕が守らなければこうなることは一つの当然の結果だったのに。
 僕は今まで何も理解していなかった。何も、何も!
 僕が本当に理解していなかったのは、僕自身にもわかる。血を流して横たわるルリを目にするだけで、大きなショックで動けないのだから。
 ルリはしゃくり上げ続けている。もうやめて、殴らないで、そう言っているかのように、床の上で身体を丸めて。
 非日常の望まない光景が存在することが、僕の中に隅々まで行き渡り、ようやく僕は声を出せた。
「ル、リ」
 反射的にルリは、ひっ、と声を上げて余計に身体を丸める。僕だとわかっていない。
 ゆっくりとルリの横に膝をつく。割れた花瓶から流れた水で、ズボンの膝が濡れたけれど、気にしている場合じゃない。ルリ自身は頭から水をかぶり、制服の上から胸までも濡れている。
 ルリの両手は握りしめられていたけれど、雪の中にいるかのように震えていた。片手で、そっと、その手の上に置いた。
 もう片方の手で、ゆっくりと、ルリの顔にかかった髪を後ろに梳きやる。
 涙が頬を覆っていた。額には血が流れ落ちている。額自体には、傷は見えない。多分、頭を怪我している。でも髪の毛で覆われて、どこを怪我しているかは判別つかない。
「……とも、あき?」
 しゃくりあげる合間に、僕の名をルリは呼んだ。視線はうつろに僕の方へ向いてくれていた。
「もう大丈夫だよ、大丈夫だから、安心して」
 なぜだか、僕の声も震えそうだった。安心させたいのに。
 強張って激情に支配されそうな顔を無理やり笑みを作ってみせる。もっと自然に笑わなくちゃいけない。こんな時に笑えず、何のために今まで、笑いたくなくても笑ってきたのか。笑え、笑え、ルリの緊張を解き、もう大丈夫だと知らせるために。脳から表情筋へ強く訴えかける。
 もっと安堵させなければならない。どこが傷かわからないから頭は触れず、頬を撫でる。そして何度も繰り返した。大丈夫だよ、安心して、と。
 涙は頬から横に流れた跡が幾筋もある。その上に、更に涙は溢れた。
「あ、う……」
 ルリは僕だけを見つめる。涙を流しながら。僕は応えるために、笑顔を作り続けた。瓶に水が溜まるように臨界点がやってきたのか、ルリの顔が崩れた。歯を噛みしめて、目を瞑る。その美しい睫毛の下から涙が溢れて止まらない。
「ともあき……!」
 何かが決壊したように、ルリは大声で泣き始めた。僕の名を呼びながら、慟哭する。
 握りしめられた手が、僕に向かって広げられた。
 ルリを抱き寄せようと、花瓶の破片や切り花を横にやる。そして、床と彼女の身体の間に腕を滑り込ませ、上半身を起こさせた。
 花瓶の水は床に広がっていたようで、ルリの背を全面的に濡らしている。水滴が間断なく落ちてゆく。抱きしめ、背をさする。水に濡れていたけれど、ルリの背は熱かった。背だけでなく、抱きしめて触れた場所全てが熱い。
 何度も何度もささやく。
「もう大丈夫だから、もう、こんなことはないから、僕が守るから」
 二度と、こんなことをさせられるものか。こんな痛みを負わせるものか。
 目頭が熱くなってくる。
 誰であろうと。これから、僕は守るから、何をしても。どんなことになっても。絶対に、僕が。
 ルリは顔を僕の胸に押しつけ、泣き続けている。でも先ほどよりも安心したのか、泣き声は小さくなって、少しだけほっとする。
 でも、ルリの後頭部に目を向けると、息を呑んだ。
 髪の合間から見える白いうなじから制服にかけて、赤い血が伝い落ちている。血が止まっていない。
 ハンカチを取り出したものの、確かな傷口の場所がわからない。このあたりだろうと見当を付けて、傷の触りに気をつけながら、ルリの頭の僕から見て右側を押さえた。
 青いハンカチはみるみるうちに紅く染まってゆく。
 ハンカチを押さえている手の上から、別の手が重ねられた。
「頭の傷は、深くなくても、他の場所の、き、傷より血が多く出るって、聞いたことあるから。そんなに心配しなくて、いいよ」
 冷静さを少し取り戻したルリは、僕の腕を叩き、僕を安心させようとする。
 でも血が流れ続けているのは変わらず、ルリの顔色は悪く、声も震えてたどたどしくなっている。
 傷は、ハンカチで止められるようなものじゃない。
「保健室、いや、病院に、救急車を……」
「大げさな」
 背後で、鼻で笑われた。
 かっとなって立ち上がり、振り向く。陸奥の襟元を掴み、そのまま黒板へ背を押しつけた。
「よくもそんなことが言えるな、お前」
 このまま絞め殺すべきだ。いや、そうするのが遅すぎたくらいだ。後悔すら覚えている。こいつは殺しても殺し足りない。
 本気でそう思って力を入れるが、陸奥は僕の腕に手を掛け、必死にそれを留めようとしてくる。
「一体どういうことだ、あ? 別れたって言わなかったか? 僕に納得させられるような言い訳があるのか?」
 言いながら力を加え続ける。
 別れたはずが、どうしてルリに傷を負わせる状況になっているわけだ? ルリの前から姿を消したはずじゃなかったのか?
 陸奥は苦しみから逃れようとしながら、
「違う、違うんだって。話すから、手を離せ」
 僕は耳を傾けず、手を緩めない。
「俺は悪くない! ソコの女が別れてもしつこくしてきて、俺は困ってただけだっ。ないがしろにしたつもりはねえよ。お前は違う。な、だから手ぇ離せ、ホラ」
 驚いた様子でルリが声をあげた。
「陸奥せんぱ……」
「お前は黙ってろ!!」
 陸奥が遮るように叫んだ。
 僕はひとかけらも心を揺さぶられなかった。
 どっちみち、陸奥の言うことなど全く信用する気はない。嘘をつくのに慣れていると知った以上、こいつの言葉を何一つ信じるつもりはない。
 いらいらとしてくる。
 こいつの言葉は、どんなものであろうと憎さが増してくる。
 僕が陸奥に追及しようとしたとき、後ろから小さな声が上がった。
「……先輩が智明をないがしろにしない、ってどういうこと?」
「うるせえ黙ってろっつっただろ!」
「何で、陸奥先輩と、智明が? どうして、何で、どうして?」
 ゆっくりと振り返る。すぐさまルリと視線がかみ合った。
 ルリは、ハンカチで頭を押さえながら、僕を見ていた。
 僕だけを見ていた。
 何かを悟った目をしていた。それでも、それが間違いであることを、僕に求めている。違うでしょ、と目が訊いている。
 答えに一瞬の躊躇もしてはいけない、と僕の中の何かが言ってきて、その内心の警告に従ってすぐさま口にした。
「誤解だよ」
 でもその言葉を発した瞬間、ルリの目が、濁った。
 赤い血で汚れたルリの顔が歪む。
「ひどい」
 ルリは僕だけを見て言った。泣きそうな声で続けている。
「ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、ひどい」
 ルリが、涙をこぼす。僕の嘘を見抜いたルリは、壊れた機械のように言葉を紡ぎ続ける。
「ひどい、ひどい、ひどい。何で、どうして、ひどい、智明……」
 絞り出す非難の言葉は、僕だけに向けたものだった。
 僕だけへの強い視線、僕だけに向けた強い感情の発露。
 それへの悦びにたゆたう暇はなかった。
 頭のハンカチを押さえたまま、ルリは立ち上がる。おぼつかない足取りで、扉へと向かって歩く。
「ひどい、もういや、ひどすぎる」
 僕は陸奥の首を締め上げる手を離して、慌ててルリの前へと立ちふさがった。
「血が出ているのに」
「それがどうしたの。智明には関係ない。智明がいないところに行くの。どいて。顔も見たくない」
 ルリの放った言葉のナイフは思いもよらない鋭さで、僕の内側を切り刻み、硬直させた。
 ルリはうつむいた顔を決して上げることなく、僕の横をすり抜けてゆく。
 このままルリが一人でどこかに行ってしまうのはわかっている。
 でも喉から声が出ない。開きかけた唇が閉じ、結ばされる。何と言って引き留めればいいのかわからない。
 頭の中が麻痺している。どうしたらいいのか、どう言えばいいのか、わからない。考えることができない。
 引き留めたい。どこかへ向かうならついて行きたい。
 だけど、僕はルリが教室を離れてしまうのを、不本意にも見送っていた。
 見送ってなお、先ほどの言葉のナイフは僕を切り刻み続けていた。鐘の音のように頭の中で反響し続けている。
 その言葉の意味を、理解できない、したくない。
 他の誰に言われてもいい。望む限りだ。
 でも、ルリにだけは言われたくなかった。
 聞きたくなかった。
 ああ違う違う。僕はルリの意図を理解していない。拒絶という解釈は、僕の思い違いだ。違う、絶対に違う。あり得ない。ルリは、きっと違う意味で、言ったんだ。拒絶だなんて、僕の存在の否定だなんて、あり得ない。あり得ない、あり得ない。
 ――もし。
 もし、そうだとしたら。
 ルリが、僕を拒絶し、僕のいない場所を希望し、僕のことをいなくなればいいと思っているとしたら。
 ――僕は。
 
「何だ、あいつ」
 むかつきを覚える声が耳に届き、我に返った。
 振り返ると、おもしろくなさそうに、ルリの去っていった方向を見ている陸奥がいる。
 改めて現実的に考え直すと、こいつが全ての元凶なんだ。ルリが付き合うことになったのも、ルリが金を取られ怪我をしたのも、僕がルリに拒絶に似た言葉を投げられたのも。
 陸奥は黒板に押しつけられて汚れた背中をはたき、チョークの粉を落としている。そんな油断しきった陸奥のネクタイをつかみ、僕は怒りを全てこいつに向けた。
「ルリから取った金を出せ」
「は、金って」
「しらばっくれるな。いくら貢がせた」
 ネクタイを強く引き、締め上げる。
 否定していた陸奥は次第に認め、金額を口にした。けれどその額は少なすぎると感じた。この程度だったら、必死にバイトをする必要はない。
 もっと締め上げると苦しさに耐えかねた陸奥が、弱々しい声で六桁の数字を答えた。僕の想像以上の額だった。おそらく、これまでのバイト代全てじゃないだろうか。ルリの必死で働いていた労苦の全てが、こいつのくだらないバンド活動に消えようとしていたのか。
 絞り上げて、全額出させた。ブランドものの財布には、その大金全てが入っていた。今日、バイト代が出たため、全額ルリから渡されたらしかった。後でルリに返そう。
 僕の中では、ルリの最後の低い声が澱となって残っている。
 誤解であればいい。でも少しでも拒絶の気持ちがあるのなら、その気持ちを何としても解かしたい。それへのほんの少しでも助けになれば、と思いながら、紙幣を大切に仕舞った。できる限りのことはしたい。
 僕がネクタイを離した陸奥は、赤い顔で、床に這うようにして喉元を押さえ、咳き込み続けている。締め上げすぎたせいかもしれない。そうでもしなければ、正直に答えなかっただろう。後悔は一片もない。
 こいつは、もうどうでもいい。こいつを視界に入れるのをやめ、廊下へ視線を向ける。もちろん怒りの炎は消えない。こいつと同じ空気を吸うことすら嫌なのだ。
 僕が唯一気になるのが、立ち去ったルリのことだ。
 咳き込み続ける陸奥を置いて、廊下に出た。
 その瞬間、どこへ向かったかは考えたり探したりしなくても済んだ。
 廊下には、血痕がてんてんと、続いている。

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