奪ふ男
――ジョーカー 2−13――
「ねえ、何の話してるのぉ?」
西島が後ろから僕の肩越しに甘ったるく問いかける。困った顔をした榊を尻目に、僕は笑顔を作り上げた。
「ごめん。西島さん。ちょっと榊とサボるから、うまくやっておいてくれないかな? 西島さんにしか頼めないんだ」
他の奴にだって頼めるけど、今ちょうどやって来たのが西島だったから、そう頼んだ。西島がいると榊は話せないような内容らしいし、邪魔でもあった。
西島は僕の言葉に頬が緩んでいた。
「智明君にそんなこと言ってもらえるなんて嬉しいな。うん、わかった大丈夫、任せて。って言っても、一人や二人、いてもいなくてもいいような式だけどね」
すでに一学期の終業式を経験している身としては、よくわかる。
適当なものだったし、式に出席しようがしまいが、気づかれないだろう。
僕のクラスの列は講堂へと進んでいく。
教師に見つからないようにと、渡り廊下から離れて校舎の影へと僕と榊は向かった。
「どういうことだ、ルリがやばいって」
人気のなさを確認したと同時に僕は榊に迫った。
「俺たちが入学する前にその陸奥って奴には、校内に付き合っていた人がいたんだってさ。でも、二股だとか三股だとかしていたらしいんだ」
それは褒められたことではないだろうけれど、僕としては、だからどうした、という感じだ。陸奥に前に彼女がいたとか、興味ない。これがルリの話だったら、身を乗り出して聞くだろうけれど、興味のない人間の過去なんて、それこそ本当にどうでもいい。
それに、二股三股するような陸奥だから、ルリと別れる結果となったのだから、一概に悪いとは言えない。前の奴と同じく、最悪でルリと付き合う価値もない男だとは思うけれど、まったく僕の誘いに乗らない男よりは、いい結果を生んでくれる。
「タチが悪いっていうのはそれだけじゃなくて……タカってたらしいんだ」
「何を」
「金をだよ。付き合っていた彼女に、バンドに必要だからって言葉巧みに金を貢がせまくっていたんだと。客が来なくてバンド存続の危機、お前しか助けてくれる奴はいないんだよ、とか言って」
……金?
何かがカチリと噛み合いそうな気がした。
でも僕は榊の次の言葉に耳を傾け、思考に浸らないことにした。
「当時、校内で付き合っていた彼女さんはさ、さんざん貢がされた挙句、二股三股かけられたことを知って、本気の別れ話を持ち出したんだ」
そんな陸奥の昔の彼女の話なんて興味ないんだけど。陸奥自身にも興味ないのに。
「何を言われようと別れる、二度と顔も見たくない、って言われた陸奥は、激怒したんだよ。自分が悪いってのを棚に上げて。それで、暴力を、振るった」
乱暴な男なんだな。
ライブのときに感じた、危険だという心の警告は、このためなのか、と腑に落ちた。
陸奥の人間性が良いものだと信じていたわけではない。逆に、やっぱりね、と感じる。ルリと付き合う価値のある人間ではなかったのだと、再確認できた。僕よりはるかにレベルの低い男と、別れさせたことは良かったのだ。
でも。
「それがどうしたっていうんだ。僕やルリに何の関係が?」
昔、そんなことがあったと聞いたって、別に何とも思わない。興味のない人間と、見知らぬ人間の間のことだ。世の中、殺人事件も傷害事件も腐るほど起こってる。興味のない人間の起こすことを、いちいち気にしてられるか。
表情一つ変えない僕に、榊は不愉快そうに顔をしかめた。
「どうしたって? ちょっとは想像力を働かせろよ。陸奥は彼女さんに暴力を働いたんだ。痴話喧嘩のレベルじゃない。顔ばかりを殴られた挙句、病院まで運ばれて、手術しなければならなかったんだ。そんなことを平気でする奴の、今の彼女である谷岡さんが、同じ目に遭うかもしれない、って考えられないか?」
ルリが、同じ目に?
顔に青あざを作って、血を流す?
想像すると、ぞっとした。笑顔の素敵なルリが、そんなことになるなんて、まさか。心配の病が胸の中で暴れ出してきた。
「一応、学校で問題になったんだ。退学とか停学とか騒がれたけど、結局うやむやのうちに、陸奥は反省文一つで終わり。なぜだか彼女さんの方が悪いみたいな噂が急に出回って、居たたまれなくなったのか、彼女さんの家は引っ越して転校。どうやら陸奥の家はこの学校に寄付金を大分積んでいる家みたいで、その結果らしい。俺が噂で聞いたのは、そういうこと」
血の気が引いていく。その程度では、陸奥が、二度としない、と反省しているとは思えない。普段の学校での反抗的な態度を見ても。
『彼女さん』とルリが重なってゆく。ルリもそんな目にあって、同じく転校してしまったら?
もし、同じようにルリが中傷されても、僕は誰よりも守ろうとするだろう。だけどそんな僕の努力でも無理で、心が癒されないまま、ルリが引っ越してしまったら。
きっとルリとは二度と逢えない。
その絶望的な未来像に、僕は何とか光を見いだそうとしていた。
「……でも、ルリはもう陸奥と別れた」
それは一筋の光明だった。
陸奥と無関係であるということ、『彼女さん』と同じ運命を辿らないことへの。
榊は胡乱な目で見てきて、腕を組んだ。
「それは本当か? 谷岡さんがそう言ったのか?」
ルリ? ルリは……。
ルリから、そんな話はなかった。ルリは一言もそんなことを言わなかった。
前のときだって僕に別れたなんてことを言ってくれやしなかった。だから、今回も、って思った。
だけど……。
「本当に別れたっていうならいいんだ。でも、金原。お前知っているかどうか知らないけれど、最近谷岡さんは部活も休んで、必死でバイトに励んでいるんだ。欲しい物があるわけじゃない、って言いながら。そんなに働いて、そのバイト代がどこに消えようとしているんだろう。なあ、金原、本当に谷岡さんは別れたのか?」
知っている。ルリは授業中に眠りながら、それでもバイトに集中していた。何のためかは教えてくれずに。
事実が二つあった。
ルリからは、別れたという話を聞いていないこと。
別れたと言ったのは、嘘をつくのに慣れた陸奥だけだということ。
その二つの事実が、僕の前に横たわっていた。
僕の考えすぎならばいい。バイト代はぬいぐるみやケーキ代にでも消えるつもりならばいい。単純に貯金に回るなんてこともいい。
だけど、そんなことはないんだ、きっと。悪夢の予感が確かに背筋を上ってきていた。
「……ルリから、別れたって話は、一言も聞いていない」
かすれた声しか出なかった。榊は、そうか、と答え、心配そうに渡り廊下へと目を向けた。
「なら、なるべく早く谷岡さんへ話した方がいいんだろうな。きっと谷岡さんはこの噂を全然知らないだろうから」
僕にできること最善は、一刻も早くルリに知らせることしかない。
僕たちは渡り廊下へと戻った。渡り廊下では、だらだらと列が絶え間なく進んでいる。
ちょうど、ルリのいるクラスの列だった。終業式を待っていられない。ルリは式が終わればすぐさまバイトへ行ってしまう。
式をずる休みしてもらっても、いち早く知らせなければ。列の中からルリの姿を探し始めて、愕然とした。
僕ほどルリを探すのに長けた人間はいない。どんな集団の中にいたって、一番にルリを探し出す自信がある。
でも、どこにもいなかった。ルリがいない。
どうして? どこに? どこにいるのルリ。
首を回して、目を皿のようにして探す。いない。いないいない。どこにもいない!
「あ、金原君。こんなところでどうしたんですか?」
後ろで楽しそうに聞いてきたのは、名前を覚えていないルリの友人。お団子頭のルリの友達だった。
「ルリは?」
「え、瑠璃子ちゃん?」
お団子頭は意味深な笑みを深くする。それから口許を押さえて笑い始めた。
「ふふ、瑠璃子ちゃんはですね、式をサボるつもりなんです」
「サボる?」
あのルリが?
意味もなく式を欠席するルリではないことを僕は知っていた。
「陸奥先輩と、大事な話があるって。だから瑠璃子ちゃんは、誰もいない教室で、いま、彼氏と二人っきりなんですよ」
お団子頭は、同じくルリの友人の眼鏡の子ときゃあきゃあ笑っていた。
二人の女子の間でテンションが上がるのと反比例して、僕の身体から血がどくどくと抜けて体温が下がっていくようだった。
ルリが陸奥と二人っきり?
大事な話って、何を? 陸奥に? 危険としか言いようのない陸奥に?
ルリは知らない。陸奥がどれほど危険なのか。
おそろしい予感ばかりが僕を満たす。
僕は笑顔を作ることすらできず、別れの挨拶もせず、すぐさま、校舎へと走っていった。
「おい、金原!」
榊の声が追いかけてくる。
渡り廊下を抜け、校舎の一階へ。講堂へ続く列を尻目に、僕は階段を昇り、ルリのクラスの教室へ向かった。
一気に扉をスライドさせて開けると、そこには人っ子一人いない。机と椅子が規則的に並んで、窓から見える木がうごめき揺れているばかりだ。
どこにいるんだ、ルリ。
榊から聞いた噂が、ただの噂ならいい。僕のこの杞憂が無駄になってもいい。
そう願いながら、僕は、ルリが今どこにいるかを考えていた。
この教室にいないということは、他の教室にいるということだ。
終業式のために誰もいないのだから、どの教室を使っていてもおかしくない。普通の教室だけでなく、実験室とかの可能性もある。
しらみつぶしに探すしかない。
からっぽの教室に背を向けて、出ようとしたところ、追いかけてきた榊とぶつかりそうになった。
「ここには谷岡さんいないのか。……二手に分かれて探すか? 俺は一階から四階、金原は五階から八階を」
何でこいつと。そう思いつつ、しぶしぶうなずいた。
今は早くルリを見つけるのが先だ。
エレベーターで四階まで昇り、隅から隅まで見回る。僕の起こす音以外、物音一つしない教室というのは、一種不気味だった。
四階はそんな静かな階だったから、五階に昇ったとき、小さな音に気づいた。
声がするのだ。低い、男の声。
遠すぎて誰の声かはわからない。何を言っているかもわからない。叫んでいるか、怒鳴っているようだ。
隅から隅まで順番に見て回るはずだったけれど、僕はその声がする方へと一直線に走った。
近づくにつれ、しだいに声がよく聞こえてくる。
やっぱり奴か。聞き取れた声は、陸奥のものに似ている。
「……この程度の……。まさか……」
怒鳴っている。でも相対している人間の声は全然聞こえない。まさか一人でいて、自分に向かって怒鳴っているわけもないだろうに。
僕は走っていた。心臓の音がどくどくと鳴り、聞こえてくる声を妨げている。心臓が訴えている。早く行かなくては、と。
途中で怒鳴り声が途絶える。しばらくして再開したとき、はっきりとよく聞こえた。
「……俺をバカにしてるのか!!」
その怒声の次の瞬間、悲鳴が上がった。
この階に来て初めて聞いた、女の声だった。
ルリの、声だった。
十六年生きて初めて聞いた、ルリの悲痛な哭声だった。
聞いた瞬間、石化したように足が止まりそうになった。でも、早く行かなくてはと、今も心臓が訴えていて、足は先ほどよりもっと速く動いてゆく。足が交互に前へ進むスピードは、自分の限界を超えそうな程に速まっている。
血液が逆流してゆく。血が上っているのか、下がっているのか、わからない。
考えられない。
怒号と悲鳴の教室の中で、何が起こり、何が渦巻いているのか。
何も考えられない。早く、行かなくては。早く、早く。
開けた扉の先には、一人の男が奥に立っていた。
黒板の近くに立っている男の背には茶髪が流れていて、どこの誰だかすぐにわかった。
僕は最初、ここには一人しかいないと思った。
さっきの悲鳴を聞いたのだから、そんなわけがないのに。
しかし、教室に入ったばかりの僕の目には、陸奥以外の人間は捉えなかった。
……この教室で、立っている人間は、陸奥しかいなかった。
振り返った陸奥の目が驚きを写し、無理やり自然な笑みを作ろうとしたのか、不自然に口許を歪ませていた。
陸奥は僕に何かを言ったのかもしれない。けれど僕の耳はそれを素通りしていって、記憶のかけらにも残らなかった。
扉を開けた瞬間は足を止めたものの、僕はまっすぐ陸奥の方へと向かった。
途中に立ちふさがっていた机や椅子にぶつかり、倒しながら。
ただ一直線に向かった。
陸奥に向かってじゃない。
陸奥の向こうに向かって。
小さな泣き声に向かって。
陸奥が身体を向けている教室の隅には、腰ほどにもない小さな棚がある。
すぐその下。教室の床板の上で、その棚に頭を向けて横たわる、ルリがいた。
ルリの頭のあたりの床は、ルリの髪ごと濡れている。
ルリの頭の上には、割れた陶器の破片と切り花が散らばっていた。
乱れた髪で隠れている口許から、喉を詰まらせたような喘ぎに似た、しゃくり声が聞こえてくる。
髪の上に落ちた、白いカーネーションのくしゃくしゃの花びらには、赤い液体がべっとりと付いていた。