奪ふ男
――ジョーカー 2−12――
しんと静まり返ったライブハウスだった。地下にあるため窓は存在しない空間。防音もしっかりしているらしく、外の音は届かない。
上に吊るされたライトは誰も照らすことはない。
しかしライトや音響設備は確かな意思をもって、ドラムやキーボードが置かれ中央にマイクが立たされているステージへと向けられていた。
僕は腕時計で時間を確認する。このライブハウスの外側の壁に貼られていたポスターに書いてあった「DANTE」のライブの時間にはやっぱり早い。
「いいライブ会場だろう? それなりに広くて安いし、音響もいい」
後ろから近づいてきていたのには気づいていた。僕は間を取りながら、ゆっくりと振り返る。
僕の姿を正面から見た陸奥は少し首を傾け、長い茶髪を揺らした。
「そのジャケット脱いだ方がいい」
どこかおかしい服装だろうか。黒地のシャツにレザージャケットを重ね、ジーンズを穿いている。それにシルバーアクセサリを身につけ、普段よりカジュアルさを出していた。
「客で満員になったら暑くなるからさ」
陸奥が口の端をつり上げ自信ありげに笑うのと対照的に、僕は眉をひそめかけた。
ルリによると、スランプで客も入らず困っている、との話だったけど。嘘? それともスランプを脱出したのか?
考えかけて、しかし僕は思考を切り替えた。まあいい。そんなことどうでもいい。
こうやって招待されたものの、いまだに僕はこいつの歌の良さなどわかりはしない。わかりたくもない。それを表に出すつもりはない分別はある。
聞きたくもないのに、うまく言い抜けることもせず、言うがままにこのライブハウスへやって来たのは、話があったからだ。学校ではまずい。ルリに見られ、話を聞かれる可能性がある。
「先輩、付き合っている人がいますよね?」
「何のことだ?」
陸奥の言葉にも、振り向いた表情にも、何一つ動揺は見られなかった。
僕の中で警戒音が鳴り響く。それに気をつけながら、話を核心まで迫らせた。
「谷岡瑠璃子、知ってるでしょ?」
そう言って初めて、陸奥は大きく息を吐いて天井を見上げた。
「……まいったな。何か言われたか? まさか噂になってるとか?」
僕はそれに答えない。
「付き合っていますよね」
僕の断定に観念したのか、陸奥は肩をすくめた。
「まあな」
ここからが本題だ。
「先輩、別れていただけますね?」
ピリ、とこの場に少量の電流が走ったような気がした。
しかしそんな空気はすぐに消える。
陸奥は壁に手をついて、身体を傾かせて立っている。僕はじっと見ながら待った。目はそらさない。望む言葉を引き出させるまで、睨み続けてやる。
何かを考えていた陸奥は、降参と言わんばかりに両手を軽く挙げる。
「わかった。わかったよ。今度会ったときに、ちゃんと言う。別れよう、って」
やっと。
やっとこの言葉を引き出せた。やっと、ルリは別れる。やっと、やっと。
長かったように思えた。一段一段積み上げて、ようやく目的の地へと到達したのだ。
「お前の目って迫力あるよな。マジで舞台映えする顔だし、お前も音楽やってみないか?」
「残念ですけど、僕は聞く方が好きなんです」
それに付け足す。
「先輩の歌を」
僕の答えを陸奥はお気に召したようだ。「今日のライブで本気の俺の歌を見せてやるよ」なんて意気が高揚したらしい。
やはりこいつの中心は音楽のようだ。
でも、単純で扱いやすいと考えるのは危険だろう。
先ほど、最初に『付き合っている人がいますよね』と尋ねたとき、陸奥の反応は、嘘をつくのを慣れている人間の反応だった。
もし僕がルリのことを知らなければ、うっかり信じてしまうかもしれないほどに、巧妙だった。
それに……。
こいつと会ってから胸の内で感じている危険信号。
理由がわからないものの、近寄ってはいけないと何かが訴えている。
しかし、ルリと別れさせるため、その警告を無視をしなければならない。完璧に計画を達成したとき、そのとき即座に離れよう。
計画のことを思うと、陸奥にもう一つ言っておかなければならないことがあったことを思い出した。
「先輩、それと、僕のことは誰にも言わないでください。絶対に」
「ああ」
「誰にも、ですからね。頼みます」
念押しのため、僕は陸奥の背に手を伸ばした。
とにかく、ルリに知られてはいけない。
前回の失敗を反省したところ、結局、僕が、付き合っている、なんてルリに言ってしまったことが最大の敗因だとわかった。
感情に溺れなければよかった。言わなければ良かった。
あのときのように、無視され続けるのだけは避けたい。
ルリと陸奥が別れる。そして僕が工作したことを知らないルリを慰める。僕が何をしたか知らなければ、僕とルリとの関係が壊れるはずがない。いや、今まで以上に良くなるはずだ。これで完璧だ。
そのためには、この男の口止めは必要不可欠。前回のようにすっぱりと離れたせいで、口をすべらされ、付き合っていると多くの人に誤解され、ルリにまで誤解されるわけにはいかない。だから、渋々ながら、ルリたちが別れた後でも、陸奥とはしばらく会わなければならないだろう。憂鬱なことだが、ルリのためだ。
僕はルリとのこれからのことを考えるばかりで、興味もない満員のライブの中身なんて全然覚えていなかった。
* *
休み時間にルリのいる教室へ向かってみると、そこには机に突っ伏したルリがいた。
僕が近づくと気づいたのか、ルリは顔を上げる。目をこすりながら。
「眠そうだね、ルリ」
「あ、智明。うん、バイトが忙しくて」
「人手が足りないの?」
「そうじゃなくて、シフトを目一杯入れただけだから」
ルリは眠い目をこすっている。この分だと、授業もちゃんと聞いていたか危うい。
――陸奥からは、すでに、別れた、と聞いていた。
「どうしてそんなにバイトするんだ?」
ルリはまごついて、机に視線を下ろす。
「ああ、うん。その、いろいろあってね」
いろいろね。
「しばらくは――今年中は、目一杯、働いて働いて働くつもり」
「身体壊しそうだよ」
学校で寝るくらいというのは、かなりなものだろう。もう十二月だから、今年中と言ってもせいぜい一ヶ月程度のこととはいえ。無理しすぎているように思えた。
「大丈夫、大丈夫」
ルリは軽く笑う。薄い化粧の下で、ルリの目にクマができているのが見えた。
明確な理由は教えてくれず、僕は推測するしかない。
無理を、したいのかな?
別れたことを忘れたくて、わざと考える時間もないほど働いて時間を埋めたいのかもしれない。
ルリは優しすぎる人だから、たとえ死ぬほど別れたいと思っていた人であっても、別れを切り出されるということ自体がきつかったのかもしれない。断じて、陸奥と別れたことがショックというわけはない。別れそのものに耐えられなかったのだろう。
その弱さがいとおしくなって、僕はルリの髪を撫でて整えた。寝ていたせいでちょっと乱れていたからだ。そんな髪の状態であったことにルリは赤面して、さっと自分で寝癖を整え始めた。
「時間をつぶしたいならさ、僕と一緒に遊んだりする選択肢もあるよ?」
ルリはちょっと困ったような顔をした。
「ううん。バイトがあるから、遊べない。……年が明けたらね、時間とれると思う。そのときになれば、きっとどうにかなるから。年が明けて時間が空いたら、遊べるかも」
「クリスマスとか、大晦日、正月とかは?」
昨年は断絶の期間だったので一緒に過ごせなかったけど、今年は?
ルリは心底申し訳なさそうに首を振った。
「ごめんなさい。クリスマスイブは終業式が終わってからすぐシフトを入れたし、年末年始も朝から晩までバイトなんだ」
すっごく、がっかりした。でもそれを表に出すのはこらえて、悲しそうな顔をしてみた。
「本当に残念だよ。でも、年が明けたら時間ができるんだね?」
そうしたら心の中からすっかりと、別れの悲しさが消えるというんだね? 陸奥なんてどうでもよくなるんだね?
僕は慰めたいと思っていたけれど、ルリは忘却の道を選ぶというんだね。
でもその方がいいのかもしれない。悲しみを癒そうと思っても、それはルリと陸奥との関係を意識させられる。その悲しみ自体が、僕にとって痛みを伴うものだろう。
それなら、身体を酷使して忘却しようというルリの選択の方が、良いのかもしれない。
ルリはこっくりとうなずく。その表情が幾分か緊張していたのが、不思議だった。
「年が明けたら、大丈夫」
「そう。くれぐれも身体には気をつけてね」
年が明ければ、終わるのだ。
陸奥とのことをフェードアウトさせよう。明確な離別は問題を生むかもしれない。あくまでゆっくりと、自然消滅させよう。
僕もルリも陸奥のことを忘れる。
そして、年が明ければ、ルリと僕は元通りになるのだ……。
* *
終業式は、全校生徒を集めて講堂で行われる。全校生徒を収容できる広さはあるものの、出入り口の数は限られている。
だから『何年何組、講堂へ進んでください』と、自分の組が呼ばれるアナウンスが流れなければ、廊下で並ばされ待たされることになる。
廊下での整列はもはや整っているものではなかった。三年から先に入っていくもので、一年は大分待たされる。列はぐちゃぐちゃに乱れ、各自移動して、おしゃべりをしている。
西島や他の人たちに適当に相手をしながら、退屈だな、と思っていた。
ようやく僕たちのクラスが呼ばれ、教室前から講堂へ歩き始めた。
渡り廊下を進んで、もう少しで講堂、というところで肩を強く掴まれた。思わず立ち止まる。
「おい、谷岡さんが付き合っているのは、確か、陸奥秀次だよな? 二年五組の。一年先輩の」
後ろから肩を掴み、切迫した声で問いただしてきたのは、榊だった。
いつもは眠そうで緊張感のない目が、見開かれている。答えを求めるためか、榊は肩を掴む力を強くした。
……ルリはもう陸奥とは付き合っていない。クラスだって知らない。榊は何を知りたい? 知ってどうする?
僕が榊への疑いに眉をひそめているのに気も留めず、榊は早口で、僕にだけ聞こえるように言い始めた。
「ついさっき、一つ上の学年のことに詳しい他のクラスの連中から、そいつの噂を聞いた。本当だとしたら、かなりやばいんだよ。……付き合っている谷岡さんが」