| | 「奪ふ男」TOP | Novel | INDEX

奪ふ男

――ジョーカー 2−11――


 嵐がやって来たように、一気に状況は変わってしまった。
 ルリという嵐は、僕を顧みることなく、部屋の外へと出た。両手を掴んでいた僕の手の力は抜けていた。扉が開いてしまった瞬間に。
 ルリは廊下を渡り、階段を降りてゆく。
 僕は気が抜けた炭酸のような状態だった。
 驚くほどの爆発的な行動力によって、ルリは部屋を出た。
 そこまで、僕と一緒が嫌だったのか。ここまでして、逃げたかったのか。
 我に戻ったとき、遅れたものの、ルリの後を追った。もう一度、なんて考えたわけじゃない。自然に足が動いていた。
 ルリは玄関とリビングへの扉を交互に見、そしてリビングへと入っていた。
 僕がリビングへと入ると、そこにはルリと、母さんもいた。……まだいたのか。
「おばさん、智明が変なんです!」
「ええ?」
 僕が部屋へと足を踏み入れると、ルリが顔を強張らせて母さんの後ろへ隠れた。母さんは着替えの入っているのだろう大きなバッグを肩にかつぎながら、ため息をついた。腕時計に目を遣るところを見ると、母さんの時間はそうないらしい。
「瑠璃子ちゃん。あのね、おばさん、仕事に行かなくちゃいけないの。追いかけっこは外でね。話は後で聞くからね」
 小さな子どもに言い含めるかのように言い、母さんは出ていこうとした。しかし後ろにいたルリは母さんの服の裾を掴んで離さなかった。
「おばさん、本当に智明が変なんです。本当に」
 母さんは渋い顔をしながら、僕を見やる。
「変……?」
 それからふと、母さんはリビングに置いてあるテーブルにも目を向けた。
 そこにあるコップとその傍らにあった瓶に目を留め、母さんは息を呑む。
「智明、これ飲んだの?」
 うなずいた。喉が渇いて、二杯ほど飲んでいた。
「これお酒よ? 気づかなかったの? 度数が高いんだけど」
 酒? ジュースか何かかと思ったけど、そうだったんだ。
 母さんは瓶に手を伸ばし、残量を確認した。
「瑠璃子ちゃんが変って言うけど、これで酔っぱらったんじゃない?」
 酔っぱらった?
 僕にその感覚はなかった。足もおぼつかないなんてことはないし、いつも通りだ。でも母さんはそれで得心したと言う風に、何度かうなずいた。そして勝手に、母さんはルリに小さく頭を下げた。
「ごめんなさいね瑠璃子ちゃん。智明、酔っぱらって、適当で訳のわからないことでも言ったんでしょ。今日のことは全部忘れてあげてね」
 勝手に何を言っているんだ。
 ルリは目をぱちくりとさせ、慌てて同じように頭を下げた。
「いえ。あの、大丈夫です。はい。……智明、酔ってたんですか……だから、ですか……全部……」
 頭を上げてもルリはうつむいている。
 母さんは頭を上げると、再び腕時計に視線を走らせた。
「それじゃあ仕事に行ってくるから。智明、お酒は元の場所に戻しておきなさい。あ、瑠璃子ちゃん、お母様に言っておいてくれる? いつも智明がお世話になって感謝していますって。じゃあ行ってくるわね」
 母さんは言いたいことだけ言うと、家を出て行った。しばらくすると、母さん愛用の車の音が聞こえ、すぐに遠ざかっていった。
 僕は納得していなかった。酔っていたなんて思えない。意識だってはっきりしている。勝手に酔っぱらいにするなよ。
 ルリはうつむいたまま、キッチンに向かった。
 何をするのかと思いきや、蛇口をひねり、コップに水を注いで持ってきた。コップを僕に差し出した。
「水飲んで、酔いを醒まして」
「酔ってないよ」
 そう言っても、ルリは僕にコップを向け、きつく睨んでいる。ルリから視線をそらし、仕方なく、僕は水に口を付けた。飲んでいる途中の僕をまだ睨みながら、ルリは言った。
「智明、もうこれからお酒は飲まないで」
「だから酔ってないって」
「飲まないで」
 ルリは聞く耳を持たなかった。僕はもう一度、酔っていない、と伝えようとしたけれど、声は出なかった。
 ルリの瞳は潤んでいた。睨むような視線は、涙となって落ちるのをこらえているためだと、僕はやっと気づいた。
「今日、智明のしたことも、言ったことも、全部忘れるから、もうお酒は飲まないで」
 理不尽さを感じる要求だった。いつもだったら、酔っていない、ともっと反論するかもしれない。
 でも、できなかった。
 涙の奥で、ルリはどんなことを思って、どんな感情を溢れさせたのかはわからない。何が原因なのかも。
 けれど、いつもなら何でもない顔をするルリが、目に涙を溜めている現実に、僕は声を上げることをできなかった。
「わかった。これからは飲まない」
 だから、ルリにそう約束するしかなかった。
 ルリは、一度うなずいて、僕から背を向けて涙をぬぐい、それから玄関へと向かった。
「帰る? ……そういえば、世界史の教科書だっけ? 借りたいって言っていたよね」
「いいよ大丈夫」
 この教科書を借りたいっていうのは、切実な頼みではなく、口実だったみたいだ。ルリは、僕に相談したくて来たのだろう。
 暗い夜だし家まで送ることにした。と言っても、すぐそこだけど。
 住宅街だから静かなものだった。僕の心も静か、と言うより、落ち込み気味だ。結局のところ、ルリは僕から逃げ出したことに変わりない。
「――智明。酔っている智明にこんなこと言っても忘れるかもしれないけど、今日は悲しかったよ」
 隣で歩くルリは目を伏せていた。
「あんなふうに閉じこめなくちゃ、私が智明の話を聞かないって考えられているように感じて。信用してもらえていないようで、悲しかったんだよ。話があるなら、私は一日中だって話を聞くつもりなのに」
 僕も悲しかったよ。
 閉じこめた部屋で、ルリが必死に逃げようとした事実は変わらない。たとえルリが悲しくたって、逃げてほしくなかった。どんな状況だって、鎖でがんじがらめにされた部屋でだって、僕の隣から逃げてほしくなかった。
 鎖なんて使わなくても、ルリは一晩中でも一緒にいてくれたかもしれない。そして、陸奥と別れるべきだという僕の話も、僕の気の済むまで聞いてくれたかもしれない。
 そんなこと僕は信じていたよ。いや、信じたいと思っていたよ。
 でも、聞いてくれたとしても、受け入れてくれなかっただろう、きっと。妙なところが頑固だから、どんなに話をしたって、僕の思っているとおりに別れてくれない。話は平行線をたどるだけだ。何か特殊なことをしなくちゃ、ルリは別れてくれないんだ。
「……酔ってたってことだから、もういいけどね」
 ルリはそう言って、笑った。やっと、笑ってくれた。
 ルリはずるい、と思った。
 僕はこの時まで、ルリが逃げたことをずっと悶々と考えて、落ち込み、悲しみに沈んでいた。
 でも、そのささやかな笑顔を見るだけで、ふっ、とその負の感情が浄化してゆく。その笑顔一つで、僕の不満を打ち消してゆく。
 ルリはずるく――そして時々、僕をびっくりさせることを言う。
「智明、今日、うちに泊まる?」
 どうでもいい奴らにであれば、いつだって適当にうまいことを言うのに、ルリ相手であれば言葉が出ないことがある。他の人間に部屋に来て、だとか言われたことは数知れずだが、すぐさまうまくあしらう言葉を口にする。でも今、僕は絶句していた。
「……嫌?」
 ルリが首を傾げている。僕は慌てて首を横に振り、言葉を振り絞って笑みを作り上げた。
「全然。おばさんやおじさんがいても、僕は一向に構わないよ。ルリのベッドって僕には小さいけどね」
 ついでにあの家、家中に声がよく通るけどね。
 ルリは瞠目し、僕の腕を叩いた。
「何、変なこと考えているの。あ、まだ酔ってるんだったね。ったく、酔っぱらいはもう」
 赤い顔で怒られる理由がわからない。というか、確実に酔っぱらいに認定されているのが不本意だ。ルリのベッドが嫌で客間の布団がいい……という問題ではないのはわかる。
「しばらく前まで、よくうちに泊まっていたじゃない。智明のおばさんもおじさんもいないなら、うちに泊まって、朝ご飯だって食べていったら? お母さんと私が作るよ。智明、朝食ちゃんと食べているか怪しいし」
 ふうん、僕の健康を考えてのことか。残念。
 中学くらいまで、僕はルリの家に何度も泊まっていた。おばさんが勧め、時には今のようにルリが勧めて。最近はないけれど。多分ルリは、そのときと同じつもりで言ったのだろう。
 ついさっきベッドで押し倒されながら、ルリはまったくそんなことなかったかのような顔をして、こんなことを言う。多分今のルリの頭の中を占めているのは、押し倒されたことより、僕の両親が家にいないという事実。ただそれだけなのだろう。
 ふと、小さな頃、幼稚園か小学校の頃を思い出した。僕がルリの前で泣くことを、恥ずかしいと思っていなかった頃のこと。両親のいない真っ暗な家の中、ルリと泣いていた日のこと。
 今まで、何度もルリは僕に、泊まらないかと誘ってきた。そのときと今と、ルリは同じ顔をしていた。笑顔の奥に、悲しみが隠れている。
 ルリは変わらない。
 それを知って、僕はほっとしていた。
 でも、
「ごめん。申し出は嬉しいけど、家で勉強したいから。一人きりの家の方が、勉強はかどるんだよね。今日は無理でも、ぜひまた誘ってほしいよ」
 今日はテスト週間の真っ最中だ。テストの点数と頭の良さは違うとわかっていても、ルリには頭が悪いと思われたくない。小さな意地がある。
 ルリの家に泊まるということにくらくらとするような魅力を感じるものの、それは生殺しの苦しみと表裏一体だとわかっている。多分眠れないと想像つく。
 ルリは、僕が断わったことを気にしていないと本気で思ってくれているのだろう。中学までだって、誘われたって断わった時もあるのだから。彼女は変わらない笑顔のままだ。
 ちゃんとお水をたくさん飲んでね、なんて言いながら、ルリは家へと帰っていった。
 
 家に帰り、ルリに言った通り勉強を再開した。そして十分勉強し、することを済ませた後、僕は自室のベッドに潜った。
 その瞬間、身体中がひきつった。
 ルリの匂いが残っていた。
 強く目をつぶると、より感覚が鋭敏になってくる。満たされている。水槽の中に閉じこめられ、そこにルリで満たされ、ルリに包まれているかのようだ。
 ベッドの中で手を目一杯広げ、そして掴むように握りしめた。しかし、開いてもそこには何もない。
 ――今日の夜は特別なことがあった。
 でも、何も変わりはしなかった。ルリは陸奥と付き合い続ける。笑って別れることができるまで――つまり永遠に。
 手のひらを見つめる。抱きしめたルリの柔らかさや温かさを思い出す。初めて知ったルリの唇の感触も、間近で感じた吐息も。
 でもこれは、僕だけに許されたものではない。今のままでは。僕以外に公然と、それを許された奴が存在してしまう。
 僕以外の人間が、ルリの唇に触れ、身体の柔らかさを知る――
 僕だけが知っていればいいことを、他の誰かに知ることを許される――
 今この時でさえも。
 耐えられない!
 燻っていた情念が、大きく燃え上がっていく。
 陸奥とルリが付き合い続けるなんてことは、絶対に耐えられない。
 ルリに何を言ってもどうにもならないだろう。
 ならば、方法は一つしか、僕は知らない。

   *   *

「その髪を何とかしろと言っていただろうが! どこが変わったというんだ!」
 生活主任の教師が頭から火を噴く勢いで、廊下上で叱っていた。
「毛先をちょっと切ってきましたって、ホラ」
「肩より上にしろと言っていただろう!」
 叱られている当人――陸奥は、へらへらと笑った。髪は、腰ほどまでに長い。
 僕は叱っている教師へと、後ろからゆっくり近づく。
「先生」
 僕はゆっくりと、その教師の二の腕に手を置いた。名も知らぬ教師は僕のことを知っていたようで、「金原」と高い声を上げた。
 僕は口の端を上げ、眼を細めて斜めから見上げる。僕の顔にはあでやかな笑みが浮かんでいたことだろう。
「職員室で、先生のことを探してらっしゃいましたよ」
 僕のでまかせに、すぐに職員室へ向かおうと足が動きかけた。けれどその教師は陸奥のことを見ながら、「む、しかし……」と顔をしかめ、足を止めた。もう一つ、後押しが必要か。
「先生を早く呼ぶよう言われました。先生に職員室へ向かっていただかなければ、僕が叱られてしまいます」
 少し悲しげに、途方に暮れて困ってしまったような顔を作った。
「先生」
 一歩近づく。近づきすぎと言われるような距離。どうかお願いします、という切実な意味を込めて、呼びかける。手のひらで、教師の二の腕を撫でると、教師の視線が手に集中した。じっと、ぎらぎらした厭な眼で見つめている。
「先生」
 ゆっくりと籠もるような声でもう一度呼びかけた。この距離なら、小さな声でもしっかりと耳に届くはずだ。この教師には、先ほどと同じ切実な意味を含んだものと聞こえただろう。はっ、と教師はようやく僕の手から視線を逸らした。
「それなら仕方ないな」
 と言う教師に威厳はなかったものの、慌てて職員室へと向かった。
 残ったのは、僕と陸奥。
 向き合ったのは初めてのことだった。開けた胸元にはネックレス、手首にも腕時計以外にも飾りがある。中肉中背のこの男は、癪なことに僕より背が高かった。面長の顔の中にある目が僕を見下しながら観察している。
 制服を崩しまくっている奴は、芝居がかった態度で前髪を掻き上げた。
「……もしかして、さっきのは助けてくれた? ……名前は、何て言うのかな?」
 向けられた陸奥の眼は、僕に興味を持った眼。今までたくさん見てきた眼だ。
 僕はヘドが出そうな思いで、満面の笑みを浮かべる。
 僕の背後の開いた窓から、枯れ葉が校舎へ入り込んでくる。儚げな笛のような音をさせて。真っ赤な葉、黄色い葉、茶色い葉。校舎の中には不釣り合いな色とりどりの葉が、くるくると回る。小さな嵐のように。
「金原智明。どうぞ、よろしく」
 小さな嵐で紅茶色の髪を乱れさせながら、僕は宣戦布告の挨拶をした。

| | 「奪ふ男」TOP | Novel | INDEX