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奪ふ男

――ジョーカー 2−10――


 僕は壊さないようにやわらかく、そして同時に逃さないように強く抱きしめた。
「智明、変だよ、ねえ、どうしたの、冗談でしょ? ねえ」
 耳元で聞こえる震えるルリの声は、甘美でうっとりする。でも、その内容は外れている。僕は元からこうだ。
「冗談なんかじゃないよ」
 優しく答えてみたのに、腕の中にいたルリは顔を強張らせ、強く抵抗し始めた。
 手で胸を押したり顔を背けるといった、先ほどの抵抗が、抵抗とは呼べないものだったと認識するほどに激しく。ルリはもがき、僕の身体を押し、身体全体を使って逃げようとしている。
 どうしたっていうんだ、いきなり。
「変だよ、おかしいよ! いつもの智明じゃない!」
「おかしくなってないって」
「あんな風に扉を閉めておいて、そんなこと言うの? おかしいよ、今日の智明、全部おかしい……あんな告白も、今思えばあり得ない」
「え?」
「智明が私を好きだなんて言うわけないと思ってた。変になったからあんなこと言ったんだ!」
「変になんかなってない、本心からだよ」
「嘘だ。変だもの、今の智明は!」
 どうしてだよ。どうして僕を変になった、ってしたいんだよ。告白も、なかったことにしたいのか? 真正面から誠実に口にしたのに、どうして。
 ルリの抵抗は続いていた。本気で逃れたがっている。さっきまでは僕の腕の中で顔を赤くしていたのに、扉が鎖で閉じているというだけで、本気で抵抗して逃げたがっている。
 それってつまり、逃げ道がなければ委ねなかったってことか。ルリは、最初から部屋から出ること前提でいたってことか。
 精神的に少し落ち込んでしまった僕の手がゆるみ、あっという間に、ルリはベッドから転がり出た。
 ルリはちらっとも僕へ視線を向けることなく、脇目もふらず扉へ走る。ノブに懸かっている鎖をガチャガチャと音をさせて引っ張ったり、ノブを回そうとしたり、扉を押したり引いたりした。
 でも扉はぴくりとも開かなかった。当然だ、固く締めたのだから。そんなことをしても無駄なのに。
 その頑丈さを知っている僕は、起き上がり、ルリの元へ緩慢な動きで向かった。
 必死になって扉を開けようとしているルリの後ろ姿が悲しかった。そんなに僕と二人きりが嫌なんだ。逃げ出したいんだ。
 すぐ後ろまで来ても、鎖にばかり目を向けるルリは僕に気づかない。
 茶に染めた髪の間から、白い首筋が覗いている。
「僕と一緒の部屋から、そんなに出たいの?」
 耳元で問いかけると、ルリの身体がまた強張る。
 ルリが動かないのをいいことに、後ろ髪を梳いて、うなじに唇を寄せた。横目で、ルリが強く鎖を握りしめているのが見えた。この鎖を握り続けなければ溺れてしまうと考えているかのように強く。
 それほどしがみつくように握らなくてもいいのに。そんなにこの鎖が邪魔?
 手を伸ばし、ルリの両手に両手を重ねた。僕の手のひらよりも一回り小さなルリの手は鎖を離しはしない。それを見ていると、ルリが僕に背を向けて鎖に夢中になっているかのように思え、じりじりと焦げ付くように妬けてくる。こんな鎖一本にすら嫉妬してしまう僕は、ルリの言うとおり、変で、おかしいのかもしれない。
 一本一本、ルリの指を鎖から離していった。強く握りしめているはずのルリの指は、一本一本ほぐすように離していくと、いとも簡単に離れる。
「何をするの」
 うろたえるルリは困惑しているのか、僕の動きを止めることはない。
 ルリの手が全て離れたところで、両手を返してルリの手のひらを見た。強く握りしめすぎて、手のひらも指も赤くなっている。時間が経てば消える赤さだろう。だけど、僕にとって、悲しい赤だった。
 こんなになるまで握りしめ、鎖を解こうとして苦心していたのか。
「そんなに、ここから出たいって考えているの?」
 するとようやくルリは声を震わせながら、しかしはっきりと僕に問い詰めた。
「そういう問題じゃない。鍵はどこ?」
「鍵?」
「この南京錠の鍵」
 ルリの視線の先、鎖を結ぶ小さな南京錠がある。僕は答えず、別の話をした。
「そんなに出たい? ……陸奥のこととか考えているの?」
「どうしてそうなるの? 笑って別れる方法を探しているところなのに」
 そんな方法を考えることこそ無駄だと言ったのに。
「じゃあ、それ以外の誰のことを考えている? 誰のことを考えて、僕と一緒にいたくないなんて考えるんだよ」
 最後は声がかすれてしまった。この部屋を出ようとルリが苦心している様を見るだけで、心に棘が刺さってゆく。ルリの心に懸かるのは誰だよ。僕以外の誰が。僕さえいればいいと思ってくれよ。僕はそうなのに、どうしてルリはそう思ってくれないんだ。誰が邪魔をするんだよ。誰のせいなんだよ。
「誰のことも考えてないよ。智明、とにかく部屋を出よう? 落ち着こう?」
「嫌だ。僕はルリと二人きりでいたい。告白だって本気だ。返事を教えてくれないか」
 ルリの瞳が揺れながらも僕を捕らえている。捕らえているのは僕なのか、ルリなのか。
 精一杯に気持ちを伝えたいと思った。逃げたいと考えているルリの中で、何かが変わってくれればと願いながら。
「本気だよ。僕は本気だ。誰よりも、ルリのことが好きだ」
 信じてほしい。嘘なんかではありえない、この感情を。そして、受け入れて欲しい。
 ルリの肩が、少し痙攣した。唇が引き絞られ、しばらくルリはうつむいていた。その時間は短いようで、ひどく長く感じた。でも、ちゃんと答えようと決めてくれたらしい。ルリは小さく息を吸い込むと、口を開いた。
「智明。私……」
 そのときだった。
 扉の外、遠くから、
「ただいま」
 という声が聞こえてきた。この声の遠さは玄関からの声だ。母さんの声だ。
 どうしてこんな時に。僕の頭の中には、リビングに置いてあるホワイトボードが浮かんだ。我が家では、家族のスケジュールをそれぞれホワイトボードに書いておく。母さんは確か仕事でしばらく泊まりがけのはずだったのに。
 ……もしかして、着替えを取りに来たのか? そういうことはたまにある。一週間泊まりがけだったりするとき、着替えだけを取りに家に帰ってくる場合が。
「智明ー? いないの?」
 母さんがリビングあたりから、呼びかけている。
 その瞬間、僕の前にいたルリは、大きな口を開けて叫んだ。
「おばさん!!」
 僕は思わずルリの口を手で覆った。ばれるじゃないか!
 まずい。
「……誰かいるの?」
 母さんが遠くから尋ねてくる。
 物音一つ立てないようにしながら、僕は扉の向こうに耳を澄ませた。
 はやく事務所に帰ってくれ。仕事があるんだろう?
 いてほしいと考えていたのは小さな頃だけだ。今は違う。どうしてこんな時だけ帰ってくるんだ。
 階段を昇る小さな音がする。息を殺した沈黙の時間。
「……まさかね」
 母さんはそんな独り言を軽く呟く。再び階段を踏む音がした。その音は遠ざかり、僕はようやくほっとした。
 ふと、身近でもごもごと音がする。ルリだ。押さえられた口の下で何かを言いながら、僕を睨み上げている。
 ああごめん。苦しかった?
 僕は手をゆるめた。ルリは今度は叫ぶことはなかった。
 その代わりにルリは僕を上から下まで見る。まるで何かを探るように。
 どうしたの? と口に出して問うわけにもいかず、首を傾げた。
 するとルリはおもむろに、僕に抱きついてきたのだった。
 それは衝撃だった。
 物理的な衝撃だけではない。ルリが僕を抱きしめてきたということに、心が強く揺さぶられた。身体だけではなく、心をそのまま直接抱きしめられたような感覚におちいっていた。
 ルリ。僕から逃げたいなんて考えは捨ててくれたの。
 そうなんだね。
 やっと受け入れてくれたんだね。
 歓喜の波が押し寄せる。
 彼女は身体を僕へ寄せてきて、両手を脇腹のあたりに伸ばした。少しくすぐったくて声を出さないように笑った。余裕があったのはそれまでだった。
 そのルリの両手は下へと動いた。下へ下へと這うように動き、僕の両脚のつけねへと沿わせた。そのあたりを指がうごめいているのを感じると、笑う余裕などどこにもなくなった。
 ルリの両手は、パッと僕の背中へ回され、また下へ下へと這う。
 僕は同じようにルリの背中に手を回し、吐息をもらした。そのとき、僕はルリの意図にようやく気づいた。
 ルリは後ろポケットに手を差し入れていた。
 ――南京錠の鍵を入れていたポケットに。
 このために抱きついて、探っていたんだ、ルリは!
 僕がルリの手を掴むより、ルリが鍵を掴んで逃げる方が早かった。
 ルリは僕からすぐさま身体を離し、鍵を掴んだ手を振る。きらめいた鍵を掴んでいるルリの腕を取ろうとしたが、ルリは素早かった。
 彼女はすぐさま南京錠へと鍵を差し入れ、ひねる。
 僕はようやくルリの両手を掴み、捕らえた。しかし両手を使えなくても、ルリは、脚で扉を蹴り上げた。水泳部で鍛えられた脚力。扉は開いてしまった。それは勢いよく、ジャラ、という音をさせて鎖が舞いながら。
 固く閉じられたはずの部屋は、あかるい廊下へと開かれてしまった。

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