奪ふ男
――ジョーカー 2−9――
僕の部屋のノブに手を掛けた。外から見た扉には鍵穴がある。もし内側から鍵をかけた場合、内側から開けるか、鍵を使わないと外からは開かない仕組になっている。
部屋には電気がついていて、扉から向かって斜め方向に、大きめのサイズのベッドが見える。扉のすぐ前の場所に立っていると、ルリの姿は見えない。扉のすぐ横に置いてある本棚によって死角ができ、僕の机付近は見えないのだ。
「智明、こっち、手伝ってくれない?」
奥からルリの声。
扉が開いて閉じる音が聞こえ、僕が部屋に入ったのはわかったのだろう。
「ごめん、ちょっと待ってくれる?」
ルリの頼みを待たせるのは心苦しいけれど。
でもね。これは僕たちのためなんだ。
彼女の姿は見えない。もちろん数歩進めば見ることはできるだろう。でも、僕は、することがあってしばらくそこから動けなかった。
「……何してるの? 智明。こっち、教科書がなだれてきて、それを支えるのだけで精一杯なの。ちょっと手伝ってほしいんだけど……」
ルリも動けないらしい。これは好都合だ。
「待って、あと少しだから……」
そうこう言っているうちに、僕の机の方から、本がいくつも落ちる音が聞こえてきた。
「あっ、ごめんなさい、智明」
慌てたようにルリは言った。
僕はようやく用事を済ませ、振り向いて机の方へ向かった。
すると机の傍らで、棚から落ちてしまった本を拾っているルリが見えた。
「ごめんなさい。私が変な風に引っ張っちゃったから……」
「いいよ、気にしないで」
僕はルリの隣に同じように座ると、落ちてしまった本を拾うのを手伝った。元の通りに戻すと、ルリの手の中には世界史の教科書と資料集があった。
「ありがとう。これ借りるね」
「うん」
「それとね……」
「うん?」
ルリはうつむいている。教科書と資料集を持つ手の指が微妙に動いている。これから言うことに緊張しているような感じを受けた。僕に緊張するなんて、何を言うつもりなんだろう。
それからルリは顔を上げ、僕を正面から見た。
「実は智明に相談があるの。陸奥先輩とのこと」
陸奥。
その名をルリの口から聞くだけで、嫌なものがこみ上げてくる。
奴と別れることを希望している――いや、希望どころか渇望している僕にとって、奴についての相談というのはあまり嬉しくなかった。
二人の間を取り持つための相談事だけはごめんだ。別れたなら別れたと言うだろうし、そうではないのだろう。
それでも、僕はうなずいて、よろこんで聴くよ、と答えた。
だって真剣に僕を見詰めるルリは明らかに、教科書や資料集を口実にして、この相談事を僕に聴いてもらうために家まで来てくれたのだから。
真剣に見上げるルリの顔を見て、帰ってくれと言えるはずがない。
それに、最悪の相談事だとしても、やりようによっては良い結果になる可能性だってある。僕に相談を持ちかけたということは、僕からの影響力があるということだ。ルリにとって僕は意味のある人物だと証明されたようで、嬉しい。
後は相談の中身と、持っていき方。これがきっかけで別れることになれば……。
僕は心の中で最高の未来を思い浮かべて、自然と笑みが湧いて出てきた。
……もしかすると、あの仕掛けは必要なかったかもしれない。
快諾した僕に、ルリは緊張を解いてほっとしているようだ。
「うん、話が長くなるかもしれないけど」
そう言いながら、ルリは僕のベッドの縁に当たり前のように座った。ルリが座ったところが少し沈む。ルリは真ん中に座ったわけではなく、意図して他の人間が隣に座れるような場所に座っていた。
僕に、ここに座って、ってことか。僕のベッドに、すぐ隣で。
でも僕に向けるルリの顔は、何かをほのめかすものなど、かけらもなかった。立ちつくす僕に、座らないの、と首を傾けて尋ねてくる。
わかってたけどね。嬉しいような、少し残念な気持ちだ。
僕は一瞬だけ躊躇しながらも、隣に座った。
二人の重みのためか、ベッドから、ギ、と音がした。
こうして二人きりの家で、二人きりの僕の部屋で、ベッドの上で、すぐ近くで、無粋にもルリは陸奥のことを話し出す。正直なところ、陸奥などどうでもいいのに。
「あのね、陸奥先輩に、別れたい、って言ったの。でも、別れたくない、って言われちゃって、別れてもらえなくて」
どうやらこの前聞いた、ルリと友人の相談事と一緒らしい。
その時感じたことをそのままに口にした。
「無視しろよ。そんなの」
「できるわけがないでしょ。軽率にも付き合うことになったのは私のせいだし、それに先輩、私が別れを切り出してから、スランプになったって……」
「スランプって?」
「音楽だよ。演奏とか歌とか作詞とか、全然うまくいかなくなっちゃったそうなの。だから、ライブとかもお客さんがあまり入らなくなって、チケットとか売りさばけなくて、音楽活動のお金とかも困るようになってきたらしくて」
ルリはうつむいて顔を覆った。
スランプになったからって、そんなに急に客がいなくなるか? と思うのは、素人の考えだろうか。そもそも僕は音楽にも深く興味ないから、そのスランプとかよくわからない。スランプとそうでないのと、演奏や歌がそんなに違うものか?
まあ、違うからそういう事態になったのだろうけれど。
僕は同じ言葉を使った。
「そんなの無視すればいいよ」
陸奥の音楽活動など上手く行こうが行くまいが、どうでもいい。
ルリは顔を覆っていた手を離し、僕を一度強く睨み上げた。そしてまたうつむいた。
「できるわけがないでしょう。私のせいなんだよ」
小さな声だったけれど、悲痛なものが滲み出ていた。
僕だったら、無視をする。陸奥がどうなろうと知ったことじゃない。
「私、恋愛感情はないけど、先輩の音楽は尊敬してる。その音楽がだめになるなんて、私、何か力になりたい」
僕は冷え切った目でルリを見やった。そしてゆっくりと手を伸ばし、ルリの頬に触れた。そして、ひそめた声をその耳に届かせるように顔を近づける。
「だから付き合い続けるっていうの」
僕の声に、言葉に、ルリは震えた。
「えっ、だか、ら、私も先輩も、どちらも笑って別れるために、私は……」
笑って別れる? 何て馬鹿なことをルリは言っているのだろう。
僕は心の中で笑えてきた。どうでもいいと思ってない限り、そんな別れなんてあるものか。
少なくとも僕なら、ルリと付き合って――想像も考えることもしたくないけれど――別れるなんてことになれば、笑うことなど絶対にできない。絶対に、絶対に。すがりつくだろう。どんな手だって使うだろう。だけど笑って別れるなんてことは決してない。
「無駄だよ、ルリ」
断定的に言うと、ルリは反発した。
「そんなことない。そのために、私は」
「無駄」
ルリは押し黙ったものの、僕の言葉に納得していないのか、険しい顔をしていた。
だめだこれでは。
ルリは優しい。優しすぎるくらい優しい。僕はそんなルリの長所がなくなってほしいとは思わない。それだからこそルリだとも思う。
でも、その優しさが別の人間に向けられるなら、話は違う。許容できない。
友人だけでなく、僕が言おうとも、ルリは変わらない。その優しさゆえに、付き合い続ける。だから……。
そんなことを思い、考えていると、ルリが沈黙を破る。
「でも、別れたいのも本当だから、私ね、陸奥先輩のために……」
「ルリは僕のことを考えてくれないんだね」
怒りをにじませながら言うと、僕は頬にやっていた手で、強くルリの肩を押した。倒れ込んだ勢いで、ベッドがきしむ。ルリの持っていた教科書類は傍らに落ちた。
陸奥、先輩、陸奥、先輩。
どうでもいい野郎のことばかりルリの口から飛び出し、そしてルリは僕よりもそいつのため、僕よりもそいつのことばかり考える。あまつさえこれから、僕のためよりも、そいつのために何かをしようとするらしい。
倒れたルリは目を白黒させている。乱れた髪が僕のベッドの上で広がり、瞳が僕を見上げ、甘そうな唇から「智明」と漏れるのは、たまらなく扇情的にも思えた。
「友人関係なんてものでは我慢できないと思っているのは、僕だけなのかな」
再びベッドがきしむ。ルリの上で、見下ろす。
すると、ルリから予想外の反応が返ってきた。ルリは、くしゃりと、泣きそうで、悲しそうな顔になったのだ。
何故なのかわからず呆気にとられた僕に、ルリは涙をこらえるように言った。
「智明が、私と友達以下の関係になりたかったなんて、知らなかった。私、何かした?」
一気に脱力する。どうしてそうなるんだ。ルリにとって僕は、それ以上なんてことは考えつかないのか。
わかってくれていると思っていたけれど、伝えた方がいいのかもしれない。
「ルリ」
彼女の名を呼びながら頬から顎にかけて手をやり、僕は顔を近づけた。
え、と言うルリを無視する。
そのまま目を閉じ、彼女の唇に、唇を重ねた。
やわらかで、温かな唇を感じる。唇が触れ合うだけのものだというのに、この身体を満たしていくものは何だろう。
ルリと、キスをした。
それだけで僕は何か幸せなもので満たされていく。
もっともっとと求めたかったけれど、自重して、惜しみながら唇を離した。触れ合っているときは永遠のような時間に思えたけれど、離れてみるとまるで刹那のような短すぎる時間に思えた。離れた直後から、離れたことを悔やんでしまう。
ルリはどんな顔をしているだろう。
そんなことを思いながら見てみると、ルリは固まっていた。
「ルリ?」
呼びかけてみると、はっとしたようにルリは僕と視線を交わす。
認識したと同時に、一気にルリの顔は赤くなっていった。まるでゆでだこやりんごみたいに。耳まで赤い。
自分で赤くなっているのがわかるのだろうか。ルリは自分の頬を手で挟む。
「な、こっ、あ」
酸欠状態のように、意味をなさない言葉が続く。
僕は、頬を挟むルリの手に、僕の手を重ねた。
「わかってくれた?」
ルリは赤い顔のまま、僕を見上げる。
「……私を、好きなの?」
「そうだよ」
そうだ。そうだよ。
こんな言葉で、キスで、全てが伝わるはずもないくらいに。僕でさえもてあますくらいに。
どうしたら伝わるだろうか。
もっと、もっと、必要である気がする。
僕は再び顔を近づけ、今度はルリの右眼の目尻にキスを落とした。ルリの身体とベッドの隙間に手を差し入れて、強く抱きしめ、密着させながら。またも、ベッドが鳴った。
目尻の後は、頬に、額に、と顔中にキスの雨を降らせてゆく。そのたびにルリは緊張し、固まる。
すると、僕の離れた直後、密着した身体を離そうと、ルリが手で押してきた。もういっぱいいっぱいなのかもしれない。抵抗は弱い力であるけれど。
「とも、あき」
もう離れて、とでも言いたげな調子だ。
でも僕はわからないふりをして、艶麗な笑みを向ける。
「こんなものでは満足できないって?」
「ちが」
唇にキスをして、言葉を遮る。
唇を離したときに息と共に発したルリのちょっとした、何とも言えない声。キスを落とすたびに見せる過敏な反応。小さな抵抗は、その度にベッドをきしませる。
離れようと身体と身体の間に入れたルリの手は、逆に密着度を高めている。
僕がやめるつもりがないのを悟ったのだろうか、ルリは手で押し返さなくなった。
それでもこの状況に順応することはできないらしい。ルリは真っ赤な顔を僕から背けた。
その瞬間、ルリの全身がこわばったように感じたけれど、まあいい、と今度は首筋に唇を寄せる。
「智明」
ルリが言葉を発したので、微妙に首にもその振動が伝わった。ひどくおそろしいものを見たような、そんな声だった。
「何、あれ」
ルリは顔を背けたままだ。真っ赤な顔は、青くなりかけている。
僕はルリと同じ方向を見る。ああ、あっちは扉か。
「見てわからない?」
耳元で、軽く笑いながら、逆に訊いてみた。
ルリは呆然としたまま、答えてくれた。
「何で、扉に、あんな鎖がかかっているの」
僕の部屋の扉は無骨な鎖と南京錠によって閉じられていた。ノブに何重にも巻いてノブ自体を動かせなくして、そして扉の横にあるコート掛けに回し、そしてゆるみを作らずしっかりと南京錠で固定した。余った鎖が、南京錠の部分から垂れ下がっている。
「内側から簡単に開かないようにね」
だって、僕の部屋の鍵の構造では、たとえ鍵をかけても、内側からならいくらでも開く仕組になっている。
それでは困るんだよね。
「どうして、あんな」
ルリはゆっくりと僕へ顔を向ける。恥ずかしさによる赤みが消え、信じられないものを見るような目つき。
嫌だな、そんな目で見られるなんて。さっきの恥ずかしがっている顔の方が良かったのに。
全てはルリのためなんだよ?
いつまでもいつまでもルリが、あの野郎と別れようとしないから。
僕が手を出すのは最終手段にしたかったから、ルリに変わってもらうことにしたんだ。陸奥に何を言われようが別れを切り出しきっぱりと別れて無視してもらえるような、ルリになってもらうため。
でも、たった三十分や一時間、もしくは二、三時間、僕とルリが話をしたところで、ルリは変わってくれないと思った。
ルリには妙な頑固さがあるのはわかっている。
そして陸奥と本気で別れる覚悟も持ってない。
だからね、ルリに変わってもらおうと思ったんだ。
長い時間をかけて。時間をかければルリだって変わるはずだ。
僕だけしか見ず、僕だけで満足し、僕だけにおぼれ、それ以外はどうでもいいと思ってもらえるような。
二人だけで十分時間をかけて、僕と同じくらいの気持ちを、ルリにも持ってもらえれば、きっとそうなる。そうすれば陸奥と別れることに躊躇せず、ルリはあいつのことで悩むことはなくなる。僕だけのことを考えるようになる。
だから、
「ルリのため、そして僕たちのためなんだよ」
呆然とするルリの頬を、この強い想いをこめながら撫でた。