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奪ふ男

――ジョーカー 2−8――


 二学期になってからできたルリの友人は、二人いる。頭の天辺で髪を一つにまとめたお団子頭と、眼鏡をかけたのと。
 僕は四月からルリに友達を作らせないように戦ってきたけれど、ひとまず休戦することにした。友人よりも、彼氏の方が大きな問題だ。
 友人排除計画を中止したことに、一つ利点があった。その友人から、僕の知らないルリの情報を聞き出せることだ。
 特にお団子頭の方からは、情報が得やすかった。どうも彼女は僕目当てでルリと友人になったような節がある。話すことも、情報を得ることも、簡単すぎるくらい簡単だった。
 僕が得た情報。それは、ルリと陸奥という奴の出会いの話だった。
 ルリはお団子頭の方には話していたらしい。その彼女からの又聞きによると、こういう出会いだったそうだ。
 
   *   *
 
 夏休みのことだったらしい。
 ルリが喫茶店でいつものようにウェイトレスとして働いていると、陸奥がやって来た。長く伸ばした茶髪で大きなギターケースを担いでいたことから、バンドでもやっているのだろうかと思いつつ、いつも通りの接客。
 陸奥はコーヒーを頼むと、イヤホンで音楽を聴きながら、紙とペンで歌詞を作るのに没頭し始めた。
 ルリはふと、この人どこかで見たことがあるような、と思い始めた。
 後になってわかれば当然。同じ学校の先輩後輩なのだから、学校内のどこかで顔を見てもおかしくない。
 だけどそのとき、ルリはわからない。どこで会っただろうか、と考えても考えても。
 陸奥がコーヒーを飲み干し、歌詞も一段落ついたのか、会計を済ませようとした。
 ルリはレジを打っておつりを渡した後、あまりにも気になっていたものだから、問いかけた。
『あの、どこかで会ったことありません?』
 陸奥は一瞬驚いたものの、すぐにルリを頭の天辺から足の先まで見回して、にやっと笑った。
『君のような大人しそうなコに逆ナンされたの初めてだよ。オッケー、付き合ってもいいよ。ここはバイトだよね? 終わるの何時?』
 今度はルリがびっくりしてしまった。誤解されたこともさることながら、その後のとんとん拍子に話を進めようとする彼の言動にも。
『あっ、いえっ、違うんです。そんなつもりじゃ……本当に、どこかで見たことがあるような気がして……』
 すみません、とルリは謝った。
『あれ違った? 残念だな、本気で付き合ってもいいと思ったんだけど』
 陸奥はルリの胸元にある名札を見る。
『谷岡、ね。下の名前は何て言うのさ』
『えっ、瑠璃子、ですけど……』
『瑠璃子ちゃんか。可愛くて良い名前だね。俺の名前は陸奥秀次。覚えてくれよ』
 何で、とルリが思ったところに、陸奥は続けた。
『マジで付き合いたいと思ったから。また来るよ。コーヒーも美味しいし、瑠璃子ちゃんのこと、気に入っちゃった。俺の周りにいなかったタイプでさ』
 陸奥は良い声で笑うと、喫茶店を出ていく。ルリは呆然と、長髪の流れる彼の背を見ていた。
 
   *   *
 
「それからー、陸奥先輩は頻繁に、バイト先に来るようになったんですって。それで毎回口説いてきてメルアドとか訊いてきて、困っていたって。でも、勧められて陸奥先輩のバンドの音楽聴くようになると、すごい共感して、尊敬し始めたそうですよ」
 お団子頭はそう付け加えた。
 誰でもいいから、軽く遊び相手にでも口説いたようにしか聞こえなかった。
 堅実なルリがこいつと付き合うだなんて、おかしくなっていたとしか考えられない。どれだけ音楽に共感していたって。もうそれは共感レベルじゃなくて、入信でもしていたんじゃないかと疑いたくなる。
 ……けれど。
 ルリは、別れる、って言った。
 それならば、陸奥の上手い口車に乗せられたのだと、騙されたのだと、片付けようじゃないか。寛大な気持ちで。
 ルリが別れると言ってから、三日が経った。そろそろ別れただろうか。
 別れたなら、僕に教えてくれてもよさそうなものだ。直接会って別れを切り出すと言っていたから、都合が合わなくてまだだろうか。
 そわそわと落ち着かない気持ちだ。早く早くと焦り、その日を待ち望む期待。
 まだだろうか。一週間も経てば、さすがに別れているだろうか……。

 
 しかし、ルリが、別れる、と宣言してから一週間が経ったが、本当に別れたとのルリの話は聞けなかった。
 何度かその話をさりげなく振ってみたが、ルリはその話題を避ける。話題を変える。答えない。黙る。
 おかしい、と思うのに十分だ。何かあったのだろうか。そもそも、ちゃんと別れを切り出したのだろうか。
 それでもルリ自身から話が聞けない。
 ルリの友人のお団子頭から話を聞くが、彼女も知らないという。
 その話を、間接的に聞けたのは、体育の時間を前にした休み時間だった。
 ルリの三組と、僕の四組は体育は合同だ。ただしもちろんのこと、男女別。
 僕と榊が着替え、体育館へ向かうべく下駄箱で靴を履き替えていたとき、その下駄箱の向こうからルリの声がした。
「……もうどうしたらいいのかわからない」
 僕は靴を履き替える手を止めた。ルリの声にはせっぱ詰まったものが籠められていた。
「何が?」
 促す別の女の声。これは……お団子頭ではない方、眼鏡の方の、ルリの友人だ。
「陸奥先輩と、別れられない」
 大きく息を呑み込み、僕は上靴を取り落としそうになった。
 別れ、られない?
 嘘だろ? 別れるって言ったじゃないか!
 今更それはないじゃないか。今更、奴の良いところがわかっただとか、恋愛感情を持つようになっただとか、執着し始めたとでもいうのか。
 別れるって言ったくせに! 嘘つき!
 僕が下駄箱の周囲をぐるりと回り、ルリの見える前に出ようとしたところ、後ろから――榊から手を引かれた。榊は首を横に振る。
 掴む腕など知ったことかと強引に出ようとしたら、会話が続いた。
「どうして別れられないの?」
 抑揚のない声で眼鏡の女が問いかける。
「別れたいって言っても、陸奥先輩が、別れない、って……」
「無視すれば?」
「そうもいかない。今も先輩は頻繁にバイト先に来てる」
「…………」
「どうしたらいいかわからない。そもそも、別れるって言って、ダメなんて言われて引き止められるなんて考えてもみなかった。遊び慣れてそうだから、すぐに、いいよ別れよっか、って言われるかと思ってたから……」
「付き合ってどれくらい?」
「一週間だよ」
「……私はその先輩のことを知らないけど、もしかしたら、その先輩は瑠璃子のことを前々から好きだったのかもね」
「えっ!?」
 ルリの驚きが短い言葉に表れた。
「ずっと好きで、それでやっと付き合えたと思ったら、すぐに断わられて、ショックだったのかもね」
「……そんな純情っぽい先輩ではないと思う……けど、もしそうだったら、先輩のことを傷つけたの……かな」
「たった一週間で別れるなんて考えないで、もうちょっと付き合ってみたら?」
「…………。いや、だめ。こんな気持ちじゃ陸奥先輩に悪い。ちゃんと別れなくちゃ……。どうしたら別れてくれるんだろ……」
「…………」
 眼鏡の女は答えない。方法が見つからないのかもしれない。
「……先輩に償わなきゃ、いけない、のかもしれない」
 ルリはぽつりと漏らした。
「償うって?」
「陸奥先輩、今バンドのことですごく困ってるらしくて、それで更に私に別れられたらもっと困るって言ってて……だからバンドの方を助けたら、別れてくれるかと思うんだ」
「助けるって、素人の瑠璃子が何を?」
「それがね……」
 瑠璃子と眼鏡の女は靴を履き替え終わったらしく、二人で運動場の方へ向かった。下駄箱を挟んだ向かいにいた僕には振り向かなかった。気づいてなかったのだろう。
 僕は榊に両腕を押さえられていた。
「離せ」
 ルリたちが行ったのを確認して、榊は手を離す。
「……あの場にお前が出ていって、どうすんだよ」
 榊はため息を吐いた。
 黙って聞いていた僕は、最後の『助ける』ということが気になりつつも、ルリの甘さを呪う。
 別れてくれない? 陸奥があれこれ言おうが、そんなの無視すればいい。バイト先に来ようが、同じ学校だろうが、無視し続ければいい。付き合う気をなくすくらいに罵倒すればいい。
 そうできずに、下手に出て相手の了承を得ようとするルリの甘さを呪う。
 結局の所、考えてみれば、ルリは付き合い続けるということだ。このまま。陸奥が、別れると言わない限り。
 陸奥に、別れると言わせなければいけないということだ。
 靴箱の角に置いた手に、力を入れる。握りつぶすように。
 ルリに任せてはおけない。やはりここは僕が――
「金原、妙なこと考えてないよな?」
 榊が水を浴びせるような言葉を投げる。
 そういえばと思う。
 この眠そうな男を、危険人物として警戒したこともあった。
「……榊は、さっきの話を聞いて、何も思わないのか?」
 少し黙って、榊はぽりぽりと頬を掻く。
「ん、まあ、そうですかというか。谷岡さんが誰かと付き合い始めたってのは、知ってたし?」
 西島が言いふらしたことを、こいつも聞いたようだ。
「付き合い始めたって聞いて、何か感想は?」
「……あー、ちょっとショックかなあ、ってとこかな。ちょっとな」
 呑気な物言いに、僕は笑いが喉から溢れてきた。
 ちょっと。
 ちょっとショック。
 たったそれだけか。その程度のことだったのか。
 僕はそんなものじゃ済まない。憎しみに似た嫉妬に支配され、暴走しそうになる気持ちなど、こいつには理解できないだろう。
 哄笑する。こぼれる笑いが止まらない。こんな雑魚に不必要なほどに気を取られていた僕自身に対しての、嘲笑。唇の端を上げ、嫣然と笑む。
「君程度を危険視した僕が馬鹿だった」
 こいつに目を向けるよりも、もっと大事なことがあったというのに。陸奥という、もっと大事な問題が。
 榊の眠そうな顔が、徐々に変わっていった。
 霞が晴れた顔。眠りから覚めた顔。
「お前……まさか、谷岡さんの周囲に人を寄せ付けないようにしたのって」
 榊はその後の言葉を飲んだが、答えはわかりきってる。今更気づいたのか。
 そうだ。僕は排除するんだ。ルリの周囲から、僕以外の人間を。
 今この時なら、最も邪魔な人間――陸奥を。
「おいやめろよ。とにかくやめろ」
 せっぱ詰まった風に言い、榊は僕の肩を掴む。いや、握りつぶそうとするかのように、力をこめる。
 こいつの言葉にうなずく義務など、僕にはない。
「極端なこと考えるな。穏便な方法だっていくらでもあるだろ」
「……たとえば?」
「たとえば? ええと……そうだな、谷岡さんに……きれいな別れ方を伝授するとか! ほら、お前よく告られて、断わってるだろ。うまい断り方とか教えてやれよ」
 榊はもう一方の肩を叩く。
 告白されて振ることには慣れてるけれど、ルリに教えたくはない。相手のことを完璧に否定するようには振らないからだ。
 そもそも昔はそうしていたけれど、西島なんかが『そう言われた方が燃える、落とし甲斐がある』なんて言って、更にくっついてきた。他にも、ひどいと泣き出し、その女と一緒のグループの連中が押し寄せて責めてきたこともあったし、どんな女だってきつく振っていたものだから、男が好きなんだよな、と勘違いして迫ってくる男もいた。
 だから、ひどい振り方はしないようにと、丁寧で相手のことを思いやっていると見せかけた振り方をしている。
 しかし、そんなことをルリに教えて、実践されたくない。
 そんな振り方では危険だ。相手が思いを断ち切れない可能性だって高い。
 僕が望むのは、完璧にぶつ切りにされた関係の消滅。
 相手への思いやりなんて持たず、罵倒してでもいいから別れてくれることだ。
 しかし。
「俺が思うに、極端なことをすると、絶対に無駄にこんがらがって、大変なことになる。だから妙なことは考えるなよ」
 榊はそう言い捨て、肩から手を離した。
 榊の言葉で、一番身に迫った。
 確かに、前回鈴山の時、後々ルリに無視されたり、つい最近までルリに影響があったことを考えると、どこか頭の中が冷えて躊躇する。
 穏便な方法、ルリと後々平穏で幸せな関係を築く方法。
 最良なのはやはり、ルリにきっぱりと陸奥のことを振ってもらうことにあるような気がした。それに必要なのは何なのか……。


 数日後の夜。テスト週間ということもあって、僕は部屋で勉強していた。
 喉が渇いたものだから、二階の自室からリビングに降り、冷蔵庫を開ける。
 いつもミネラルウォーターがある場所に、そのペットボトルがない。代わりに、見知らぬ瓶。
 取ってみると、ラベルにはどこかの国の言語で書かれており、中身がわからない。
 父さんか母さんの土産物だろう。あの人達は海外へ行くことが多い。その二人とも、いつも通り今、家にはいない。
 誰かへの贈り物とかだったら、ここには置いておかないはずだ。
 喉が渇いていたこともあって、僕はその瓶を開けた。コップに注ぎ、二杯分飲む。何かのジュースらしい。
 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
 インターホンに出てみると、それはルリだった。急いで玄関を開け、鉄扉のところまで階段を降りる。
「こんばんは。今大丈夫?」
 僕は階段を降りながらうなずく。やはりあれから数日経つが、別れたという話は聞いていない。もしやとうとう今、と思った。
「あのさ……」
 ルリは言いにくそうにしている。僕はゆっくりと相づちを打ち、いつまでも待つ姿勢を作った。
 しかし期待していたものとは違った。
「世界史の教科書と資料集、学校に忘れちゃったから、貸してほしいんだ。それで今テスト勉強してるなら、いいんだけど」
「…………。いや、今日は数学と生物を勉強するから、いいよ」
 落胆を隠して、僕は笑顔を作った。
 ふと、本当にふと、一つの考えが、思いつきが、頭に浮かんだ。
「……どうぞ、家に入って」
 ありがとう、と笑ったルリは僕に促されて、門扉を通って、階段を昇る。
 ルリと僕が入ったところで、玄関を閉める。
「……僕の部屋の、机近くの棚に教科書とか置いてる。僕はちょっとすることがあるから、勝手に入って探していてよ」
「わかった。智明の部屋って、階段を昇ったすぐのところの部屋だよね?」
「そう」
 ルリは何度も僕の家に来たことがある。部屋の場所ももちろん知っているし、何度も入ったことがある。慣れ親しんだように、ルリはすたすたと部屋に向かった。
 僕はそれを見送ってから、急いでリビングの奥のクローゼットへと向かう。開けると、普段使わないものばかり。そこから目当ての箱を取り出し、開ける。
 するとあった。持つとわかる鉄の重み、そのこすれる鉄の音。鉄の鎖を掬いだした脇に、小さな南京錠もあった。
 手の中にある鎖と錠の重みに、僕は思わず笑んだ。

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