奪ふ男
――ジョーカー 2−7――
文化祭の翌日の月曜は振り替え休日となり、火曜日からいつもの学校が始まった。
僕はさっそく、ルリを呼び出して、鈴山のことは誤解だと伝えようとした。わざわざルリのクラスまで呼びに行ったのは、今日ルリとは一緒に登校しなかったからだ。
廊下の端まで呼び出したルリは子どものように頬をふくらませて、少しむくれている。
「……鈴山のことだけど」
僕が切り出すと、ルリはぴくりと反応したものの、眉間にかすかにしわを作って窓の方に顔を向ける。
「……とにかく言えるのは、僕はあいつともう何も関係ないから。付き合ってないから」
鈴山とそもそも付き合ってないだとか説明すると長くなる。とにかく大事なのは、今現在、あの野郎とは関係ないということをルリに説明することだ。
ルリは顔の方向を変えず、低い声を出す。
「……夏休みも、会ってたじゃない」
やっぱりあのとき、ルリは僕と鈴山のことを見ていたようだ。
「あれは偶然。中学が同じだったんだから、会いたくなくても会うことだってあるだろ? ちなみに言うと、僕は高校入学してから奴に会ったのは、その一回だけ。今は一切関係ないから」
きっぱりと言うと、ルリは僕に顔を向けた。おそるおそるという具合に、ゆっくりと。
「……嘘、でしょ?」
「本当。高校入ってからのこと、思い出してよ。ルリの部活が終わるの待って、一緒に登下校して、いつも一緒にいたじゃないか。僕の時間はルリと一緒で回ってたんだよ。鈴山との時間なんて皆無だよ。一緒にいたんだからわかるよね?」
まじまじとルリは僕の顔を見る。
「……ほんと、なの」
そう言うルリの声に、かすかに喜びが混じっているように聞こえたのは、僕の気のせいだろうか。
「うん、本当だよ。だから誤解はしないで。僕はルリのことを――」
そのときだった。
どこからか聞き覚えのないメロディが流れてきた。
「あっ、ごめん」
ルリは慌てて短いスカートの脇ポケットから携帯電話を取り出す。開けて見て、いくつかボタンを押す。電話ではなく、メールのようだ。
ルリはみるみる険しくなりこわばった顔で、そのケータイのディスプレイ見ている。
パチン、とそれを閉じたところで、僕は問いかける。
「誰から、どんな内容の?」
僕とルリが会話しているところに割り込むようなメールだ。誰にも邪魔されたくないから、こうして廊下の端まで来ているというのに。なんて迷惑なものなのだろう、ケータイなんて。
ルリはうつむき、ケータイを握りしめている。そして言いにくそうにぼそりと応じた。
「陸奥先輩から……」
陸奥って、あの文化祭のボーカルだよな?
「何で」
何でルリのケータイにメールが? そもそもどうしてルリのケータイのメルアドを知ってるんだ?
「……昨日、陸奥先輩と……付き合い始めたから……」
ルリは強く、強くケータイを握りしめる。それは壊さんばかりにも、思いあまってのようにも見えた。
僕はそのケータイにでもなったかのように、ぐしゃりと骨や内臓、身体全体が壊れそうな気がした。僕が歪んだ。世界が歪んだ。
「……昨日……?」
かすれた声が出る。
昨日。昨日……?
振り替え休日だった昨日? ルリが朝からバイトに行っていた昨日?
「バイトしてて……いつものように陸奥先輩がやってきて……いつものように付き合わないかって誘われて……」
「それで簡単にうなずいたって?」
僕は低い声で咎めた。
ルリはケータイを握りしめてうつむいたまま、いいえとは言ってくれなかった。
もう、遅かった、っていうのか。
鈴山のことを早く言わなければ取り返しのつかないことになるとは思っていた。だけど、こんなにも早く、こんな、時間の合間を縫うようにして、こんな、ばかな、ばかな!
何のために、高校入学してからルリの側に人を近寄らせなかったのか!
何のために!?
こんな事態を避けたかったからじゃないか! もう鈴山のようなことは嫌だったからじゃないか!
それなのに、鳶に油揚げをかっさらわれたかのようなこの現状。
どうしてルリはこうなんだ。どうしてルリは僕だけを見てくれないんだ。どうしてこんなにも簡単に他の男と付き合うんだ。どうして僕ではいけないんだ。
「ルリ、そのケータイ貸して」
自然と、声には憎悪が滲み出ていた。
「えっ? な、何で?」
「僕が代わりに陸奥先輩に、別れるためのメール出してあげるから」
思いつく限りの罵詈雑言を書いて送ってやる。逆上するどころか、二度とルリに近づこうと思わないくらいの!
「や、やだよ」
ルリはケータイをポケットにしまい直した。
「……陸奥先輩と別れたくない、って?」
ゆらりと、一歩ルリに近づいた。
「昨日付き合ったばかりで、もうそんなに陸奥先輩とやらに執着してるの」
バイト先で会ったくらいで。
ルリはふるふると首を振る。
「そうじゃなくて……」
「へーえ、谷岡さんって、陸奥先輩と付き合い始めたんだー」
浮かれた、癇に障る女の声が後ろからした。
女は笑う。楽しそうに笑う。
女は、西島だった。彼女は僕たちに近づいて、とても楽しそうにしていた。
「陸奥先輩って、一年上の、バンドやってるあの陸奥先輩だよね。いろいろ噂は聞くよ、あの先輩のことは。ふーん、ちょっと意外だけど、谷岡さんにはとってもお似合いだよ。おめでとうね」
猫なで声で祝福し、西島は猫のような目を細めて笑む。
「あたし、谷岡さんと陸奥先輩がずっと付き合っててくれるなら、何だってしてあげるよ? 本当に。遠慮無く相談してね?」
西島は首をかたむけて、にっこりと口の端をつり上げた。
僕がショックを受け、哀しみ、怒っていることを知っているのか知らないのか、西島は僕の腕に絡み、フォローにならないフォローをする。
「智明君、谷岡さんは陸奥先輩と付き合うって言うんだし、ここは快く見守ってあげるのが、あたしたち友達の使命だよ。ちょっと寂しいけど、友達だもん。祝福してあげよ? ね?」
僕がうなずけるはずがなかった。腕を払う。
そんな使命なんて知るか。西島の勝手な望みだろう。
「智明君、ちょっと今日の機嫌悪いみたいね。……さーて、谷岡さんと陸奥先輩のこと、言いふらしてこよっかなー」
西島はバレエでもしてるかのような軽やかな動きで背を向け、教室に向かう。
「に、西島さんっ、言いふらすのは、やめてっ……」
ルリは慌てて西島の背を追い、腕に手をかけた。
その瞬間だった。
へたな飛び込みをして水面に身体をぶつけるような、激しい音がしたのは。
西島は、腕に手をかけたルリの手の甲を強く叩いたのだった。
「なっ……」
僕はルリの手を取った。あまりに強く叩かれたため、手の甲はバレーボールでもぶつけられたかのように赤くなっていた。
ルリ自身は呆然としている。
「西島さん、ルリに何を」
僕は西島を強く非難した。ルリに何てことするんだ、この女は。
西島は振り返ると、先ほどのような柔和な笑みを顔にたたえていた。
「やだ。季節外れの鬱陶しい蝿でもとまったかと不快になって、思わず叩いちゃったんだよ。――ごめんね谷岡さん、許してくれるよね、ね?」
強く迫る西島に、ルリは手の甲を右手で隠して、小鼠のように小さくなって、うなずいた。
「やっぱり許してくれるよね、あたしたち友達だもんね。ほら智明君、心配することないんだよ?」
僕が心配しているのはルリの赤くなった手のことだけだ。謝ろうが謝るまいが、ルリの手の痛みは消え失せるというわけではないというのに。
それはいいから、とルリは言った。
「……それはいいから、西島さん、陸奥先輩とのことは言いふらさないで」
「どうして? 良いことじゃない?」
「……すぐに別れるつもりだから」
ルリは小さな小さな声で言った。
「ルリ!」
僕は歓喜の声を上げる。
「いくら自棄になったからって、あんなに簡単にOKするものじゃなかった。陸奥先輩に失礼すぎたよ。こんな中途半端な気持ちでうなずくなんて。ちゃんと、すぐに、間違いでした、別れてくださいって言わなきゃ……」
歓喜の波が僕の胸を支配する。
やっぱり、そうだったんだよね。
他の男と付き合うなんて、ひとときの過ちに過ぎなかったんだよね。
鈴山と付き合ってないと明かしたのも、遅くはなかったんだ。まだ間に合うんだ。
鈴山のときとは違う。
ルリは自分の意思で、陸奥なんて奴を捨て、僕を選ぶんだ。
それは先ほどのショックを幾分か打ち消し、自尊心をくすぐる答えだった。だってルリ自身の意思でそうしたことは、今までなかったのだ。初めての、甘美なことだった。
僕は過ちを寛大な気持ちで許してあげよう。他を捨て、僕を選ぶというならば。
「え〜、考え直した方がいいよ、谷岡さん。ほら、付き合っていくうちにだんだん好きになるとかあるじゃない」
「西島さん、君には関係ないよ。ルリが、決めたんだ。ちょっとどっか行ってくれない?」
邪魔な女だと思い、僕がそう言うと、西島はかっと頬を赤くした。
ぷるぷるとこぶしを震わせ、ふん、と言ったかと思うと続けた。
「今は谷岡さんは陸奥先輩と付き合ってるわけでしょ! だったら言いふらしたところで間違ってないんだし、問題ないでしょ!」
西島は捨て台詞を吐き捨て、教室に向かっていった。教室中に言いふらすのだろう。
ルリが陸奥と付き合ってるなんて噂、たとえ嘘でも聞きたくない。しかし、西島を止めることはできないだろう。
ルリは小さく息をこぼす。
「今度のバイトの時に、多分先輩はまた来るから……そのとき、別れることを言うよ」
「今すぐにメールでもすればいいのに」
「メールじゃだめだよ。文字にすると、誤解とかしやすいし……ちゃんと直接言わなきゃ」
僕がメールをするというのを拒否したのも、完全に後腐れなく別れるためなんだね?
今この瞬間もルリと陸奥が付き合っているという状態というのは、むかむかとし、耐え難く感じるものだけど、これもすぐ終わり、ルリは僕を選んでくれるんだね?
ルリは顔に影を落としていた。
「陸奥先輩には本当に申し訳ないよ。……最悪、殴られても仕方ないかも」
ルリを殴る!?
僕は心配になって、そのバイト先に付いていこうか、見守っていようか、と言った。心配していただけでなく、本当にちゃんと別れるのか確かめたかった気持ちもあった。
でもルリは、いいよ大丈夫、と軽く笑った。
「それぐらいの気持ちでいるってことだよ。陸奥先輩は殴るような人じゃない。だって、あんなに優しくて共感できる歌詞を書ける人だもの」
それからルリは、自身の内面をこう明かした。
「陸奥先輩のことは、ミュージシャンとしては一番好き。これからも、陸奥先輩が許してくれるならファンとして歌を聴きたいくらい。……けど、恋愛感情は今もこれからも、持てない」
これは僕を複雑な気持ちにさせた。
恋愛感情を持てないというのはいい。でもミュージシャンとして好きと言われると、あんな素人の歌を、と吐き捨てたくなる。
いっそルリはあいつを全ての面で嫌いになればいいのに。歌は好きとか、そんな中途半端なこと思うなよ。
……中途半端だからこそ、多分、ルリの真実の気持ちなんだろう。
だから、恋愛感情はこれからも持たない、ということも真実なのだろう。
あいつと別れ、僕と一緒にいても、ルリはあいつの曲を聴いているのだろうか。そんなのは嫌だ。僕以外のものを見てほしくない、僕以外の声を聞いてほしくない――そういう想像を胸を掻きむしるような気持ちでしつつ、だけどまだ先の話だと無理やり心を落ち着かせた。
そのときになってから、ルリに言えばいい。最悪、CDを叩き割ればいい。
全ては、ルリがあいつと別れてからだ。
しかし。
これは後のことになるけれど……結局、ルリは自分の言葉通りに陸奥と自ら別れることはなかったのだった……。