奪ふ男
――ジョーカー 2−6――
僕はルリに、『新しい彼氏ができたのか』、と訊くのをためらった。
不安や疑惑の芽がありつつも、そんなばかな話あるはずがない、と笑い飛ばしたい気持ちが勝っていたからだ。僕はそんなことを、信じたくなかったのだ。
八階建ての校舎には、エレベーターが二台設置されている。便利なものだけど、あまりに便利なものだから、休み時間は常に満員状態で、さらに各階止まりとなりやすい。そのため、階段を使った方が早いことがよくある。
教室移動のとき、エレベーター前に待っている人の群れの横を通り過ぎ、階段を使おうとしていた。ちょうどそのとき、エレベーターが止まった。
思ったとおりエレベーターは満員で、誰かが入ろうとすればブザーが鳴る。
閉じられる寸前、中から喋り声がした。
「……次は来週だっけ……」
「……そうそう。CDが……」
男二人の声。後に言った方の声に、僕は聞き覚えがあり、階段へ向かう足を止めた。
どうしてこんなところで。
その声は、ルリが持っていた「DANTE」というグループのボーカルの声に、よく似ているように感じた。
誰だ、と思ってエレベーターを見ても遅い。すでに閉じられ、エレベーターは下がっていった。
なんで、こんなところで。この学校で。
エレベーターの下がっていく低く静かな機械音が、耳を通り過ぎていった。
その音が疑いの芽を吹かせた。
疑惑や不安の芽が、疑うべくもない事実の花となったのは、文化祭のことだった。
文化祭は二学期最大の行事だ。一学期から準備していたものが実を結ぶ。
ありきたりだけど僕のクラスは喫茶店で、鬱陶しく思いながら笑顔を向けて接客していた。「隣に座ってえ。ね、一時間!」「おしゃべりしてってよ。ほら、オカワリ頼むから」などと、扱いはホストも同然で、思わず口許がひきつりかけた。酒なんて一滴たりとも出してないけど、こいつら酔ってるのかと思った。
そして妙なところで疲れたシフトの時間が終わった時、ルリが僕のクラスの喫茶店までやって来て、
「終わった? じゃあ二人で見て回ろうか」
と当たり前のように笑顔で言ってくれたとき、どうでもいい奴らの相手をさせられた不快感も何もかも、ふっと霞のように消え失せたような気がした。ルリは僕の癒しだ。
僕は思わずルリの肩口に額を乗せた。
「お、重いよ、智明」
ルリが慌てて僕の頭を持ち上げようとする。でも途中でやめた。
「……疲れたの?」
「うん」
ルリからは甘い香りがした。ルリのクラスはクレープ屋をしていて、ルリはそのクレープを焼く係だったという。香りが移ったのだろう。エプロンとバンダナ姿で、器用にクレープを薄く焼く姿が目に浮かぶ。
僕とルリは同じシフトの時間に揃えていた。ルリがクレープ屋で働いている姿を見れないのは残念だけど、一緒に回るためだ。
「ウェイターも慣れないと大変だよね。私もウェイトレスのバイトを始めた時は、いろいろ戸惑っちゃったよ。――そろそろ、行く?」
正直、このままルリとべったりしていられるなら、どこを回らなくたっていい。
「疲れなんて吹っ飛ぶような、元気が出るのがあるんだよ。さ、行こ」
怪訝に眉をひそめて顔を上げる。ルリはうきうきとした顔で、僕を促した。
ルリは一心に前を見ていた。隣にいる僕でなく、前を、顔を上げて少し上にいる人物たちを。
ドラムの乱打する音が音響効果によって増幅される。ギター、キーボード、ドラムも。そして歌声も。
目の前に見せつけられ、聴かせられたのだった。
「DANTE」の演奏を。
校庭での演奏は突然だったけど、その勢いと熱に、一気に人を惹きつけた。僕が一晩中聴いていた曲も演奏されていた。確かに彼らは「DANTE」だ。
ボーカル兼ギター・ギター・キーボード・ドラム・ベースという五人の男たち。全員多分、同じ高校生だ。ボーカルは茶髪の長髪、ギターはピアスを開けまくってる、ドラムは黒いサングラスをしてる、などと高校生としては褒められた容姿ではなく、ぱっと見二十代のようにも見えるけれど、最前席という近い場所で見ると、全員若いとわかる。
まるでゲリラライブのような雰囲気だったけど、組み立てられたライブ会場を見れば、きちんと許可は取ってあったのだろう。この高校の文化祭は、クラスとクラブだけでなく、許可を取れば誰でも参加できるようになっていたはずだから。
僕は周囲の空気に流された熱狂的な雰囲気とは別に、冷静に、とても静かな冷え切った気持ちで見て、聴いていた。
ボーカルの男は茶色い長髪を振り、叫び続けている。
そのボーカルを一番前の席で一心に見つめているルリを見て、その紅潮した頬を見て、心がどこまでも冷え冷えとしていくのを感じていた。
「どうだった!? 格好良くて、いい曲を演奏するグループでしょ?」
ライブ終了後の浮かれ立った気分をまだ残していたルリは、僕に元気よく問いかけた。他の観客も解散し始めている。
「あのボーカルがね、うちの学校の一年上の、陸奥先輩なんだよ。歌うだけじゃなくて、ほとんどの曲の詞も書いてる、すごい人なんだ!」
こんな情報をルリが知っていることということが、心に吹雪を巻き起こす。
疑念や不安どころではなかった。もはや確信していた。いや、確信させられた。
「嫌いだ」
僕は一言で断ずる。その程度の人間だと、切って捨てる。
ルリは浮かれていた熱が冷めたように、静かになる。
嫌いだ。ろくに人間の中身なんて知らなくても、何一つ知らなくても、全てが嫌いだと断言できる。
僕の目の奥に残っているのは、ルリがボーカルの男――その陸奥先輩とやらを見ていた姿。ルリが頬を赤くしていた姿。
そのボーカルである茶髪で長髪の陸奥。僕は何度か彼を学校内で見たことがあったのだと思い出した。その髪の長さを理由に、教師に叱られているところをだ。叱責に殊勝にしているわけもなく、逆に教師にくってかかっていた。
それらのことは当時の僕には関係ないからと通り過ぎ、記憶からもほとんど消えていた。もしこうなることを知っていたら、どうにかしていたものを。
「でも……」
ルリは下を向きながら、言い募ろうとした。
「でも、何さ」
そのルリに、僕は逆に強く出る。
「僕は学校で、あの先輩が何度も叱られてるのを見たことがあるよ。そんな奴を?」
「そんなの関係ない。陸奥先輩は良い詞を書くんだよ。共感できて、勇気が出る詞。私も頑張って友達作ろうって、勇気をもらったよ。智明だって、よく聴いてみれば……」
一晩中聴いていたさ。でも僕は共感せず、アマチュアの音楽としか思わなかった。さっきのライブを聴いたって同じだ。
ルリがこうやって弁護するのを聞けば聞くほど、聴きたくなくなる。嫌悪する。
『谷岡さんには他に好きな男がいるんじゃないかな』
『絶対付き合ってるって』
嫌悪の色に、染まる。
「……付き合ってる、の?」
「えっ?」
ルリはきょとんとした。
ぼくはルリの答えを待ったけれど、ルリは戸惑ったままでいつまでも答えない。いらいらとして、僕は再び問いを重ねる。
「あの陸奥とかいう奴と、付き合ってるか、って訊いてるんだよ」
「えっ……」
吃驚して、ルリは目を瞬く。またも、戸惑いの瞳。しかしさっきの戸惑いとは、質が違っていた。
先ほどの戸惑いは、本当に意味を理解できない人間の、理解しようとしつつも答えが見つからない人間の戸惑い。
でも今の戸惑いは、答えはわかっているのに、答えるのをためらう戸惑いだった。
一拍の後の、答え。
「……付き合って、ないよ」
「どうして答えるのにそんなに時間がかかるの?」
優しく問うことはできず、ぎすぎすとした声になった。
付き合ってる、付き合ってない。そんなことは簡単に答えられることだ。なんでためらうの? そんな必要ないだろ?
僕の頭に浮かぶ答えは一つ。
「ルリは僕に、嘘ついてるんだね」
僕に、ルリが嘘をつく。嘘をつく。偽る。騙す。
胸が痛みを訴えていた。ルリが、僕をたばかるなんて。
ルリはぶんぶんと首を横に振る。
「違うよ! 本当に付き合ってない! ……付き合ってとは言われたけど……」
最後はもごもごと小さな声で言ったものの、僕の耳には届いている。
僕は冷静にならず、ますます頭が熱くなる。
「……へえ……そんなことを言われたんだ。何したんだよ。色目でも使ったの?」
「ち、違……。バイトしてて初対面で話しかけられて、それで突然……」
「ただバイトして、ただ話をするだけで、告白されるんだ?」
疑いの沼は底なし沼だった。ぐるぐると頭の中で嫌な想像が、疑いが、回っている。
僕は先ほどの、赤らんだルリの頬を、憎々しげに思い出す。
「さっきのライブだって、顔を赤くしておいて、よく言うね」
ルリは自分の頬を両手で挟み、さする。
「え? 顔、赤かった……?」
「そうだよ。顔赤くして、夢中になって見てたよ」
僕なんて目に入らないくらいにね。
「それは、ライブだから興奮してたんだよ」
そんなの、うっとりして赤くなっていたのか、本当にライブの興奮だけだったのか、わかるものか。
「いい加減、本当のことを言ったらどうだよ。付き合ってるんだろ?」
「だから違うって……!」
「また嘘? 鈴山のときだって、ルリは僕に教えてくれなかったよね? 僕にはずっと黙っておくつもり?」
鈴山の名を出すと、今まで必死に否定していたルリは、さっと静かになった。
訪れた沈黙の時間さえも、言い訳を考えているのかと、僕は疑った。
「……わかったよ。わかったよ! 付き合えばいいんでしょ!」
きっと顔を上げたルリは、思いもかけない切れ味の鋭い言葉を返す。
「そんなに付き合わせたいなら、陸奥先輩とお望み通り付き合うよ!」
ルリは背を向け、屋台の並ぶ方へ歩き出す。
その怒った背を見て、しまったと思った。
疑心暗鬼に囚われていたのだと、そして本当にルリは付き合っていなかったのだと、僕はようやく背筋の凍る思いで気づいた。
それは喜ばしい誤算であったのに、僕の疑いがルリを望まぬ方向に追いやってしまった。なんてことを言ってしまったのだろう!
だけどここで後悔に立ち止まっているわけにはいかない。こんなのは望んでない。なんとしても今、フォローして、ルリを思いとどまらせなければならない。
「ルリ! ごめん! 疑ってごめん! だから他の男と付き合うなんて、言わないで」
僕はルリの腕を取る。二度と離さないくらい、強く握る。
こうして力で繋いでも、嫉妬に狂おうとも、僕は結局のところ、誰よりもその存在を欲しているルリに弱いのだ。
僕は必死に嘆願した。
ねえ、お願いだから。僕以外の男と付き合うだなんて、そんな最悪なことは言わないで。お願いだから、僕だけのルリでいて。
ルリはしばらくしてから振り向いた。少しだけほっとしたことに、ルリの瞳の色は怒りを持たずやわらかい。
許しを請えと言うなら、いくらだって請う。ねえ、だからそんなこと言わないで。
僕の顔を見て、ルリは目を細め、顔を歪ませた。
「そんなこと……いい加減に言わないでよ」
「そんなんじゃない。本当に疑ってごめん。だから他の男と付き合うなんて考えないで。僕だけのルリでいて。僕以外の他のものなんて、見ないで、考えないで」
喉の奥を振り絞って切実さを含ませた、弱者の真実の懇願だった。必死にルリを強いまなざしで見つめる。
でも、ルリは唇を震わせて、言い放った。
「いい加減だよ! 智明には鈴山君がいるのに、どうして私にそういうこと言うの! 今だって会ってるんでしょ。わ、私を誤解させるのはやめて!」
ルリは僕の手を振りはらった。強く握っていたつもりのその手は、簡単に振り払われた。そのまま走っていくルリの背。
僕は呆然としながらこのとき、まさか、と嫌な考えが頭に浮かんだ。
まさかと思いつつ、どんなに考えても否定できない推測。
まさかとは思う。だけど多分、本当のことだろう。
――僕が鈴山と付き合ってると、ルリは誤解してる……?
思えば、鈴山とどうなったのか、または本当は鈴山とどうだったのか、ルリに語った覚えはない。鈴山という男は、語りたくもない忌まわしい過去そのものだったからだ。
中学時代は鈴山と付き合ってる噂にはなっても、別れただとか、元々付き合ってなかっただとか、そんな噂は発生しなかった。
高校入試の合格発表日、ルリは僕の想いを理解してくれたと思ってた。でも、あの会話も、誤解ゆえのことだったら。
『智明が鈴山君を奪ったのは、タチの悪い私に対する嫌がらせだと思ってた』
『嫌がらせ? そんなわけないだろ。僕がどういう気持ちで……!』
『わかってる。わかってるから。智明は、意味もなくそんなことしないよね。私に優しいこともわかってる。智明はただ……一途に、想っているだけなんだよね』
僕はこのときルリが、僕の想いを理解してくれたのだと思った。でもこの会話が、僕が鈴山と付き合ってると、誤解したままのものだったとしたら。『一途に想ってる』のが『鈴山を』なんて誤解してたとしたら。
そしてその誤解が今までずっと継続していたとしたら。
この前、忌まわしくも偶然に鈴山と会ったときも、ルリの気配を感じた。ルリはそのときあそこにいなかったと言ってたけれど、僕がルリの気配を間違うはずがなかった。あのときあそこに、ルリはいたのだろう。そしてそれがまた、誤解を深めたのだとしたら。
いけない。誤解を解かなければならない。頭の中で警報が鳴る。
危機感を覚えた時にはすでに、ルリは文化祭の喧噪の中に消えていた。その日、人混みの中から、ルリを見つけることはできなかった。