奪ふ男
――ジョーカー 2−5――
ルリとの会話は、夏休みの間ではそれが最後だった。
お盆を過ぎてから、ルリの部活とバイトは忙しさを増したようで、僕と会える都合はまったくつかなかった。
つまり、お盆から九月まで、僕はルリに逢えなかった。
潤いのない夏休みだった。耳に残っているのはルリの声でなく、うるさい蝉の声だった。
二学期になってルリと会ったとき、僕は驚いた。
ルリの制服のスカートが短くなり、シャツも上のボタンを開け、ちょっと着崩した感じになっていた。そして髪があかるい茶色になって、ゆるゆると巻かれていた。
「イメチェン?」
「うん。どうかな?」
「かわいいと思うよ」
個人的には、ルリにはもうちょっと暗い色の方が落ち着いていいと思う。けど、たまにはこういうのもいいかもしれない。
僕の言葉にルリは笑顔になった。近くで見ると、化粧もしている。これも、ナチュラルというより派手目で軽い印象。
軽さは化粧だけじゃない。
夏休み明けのルリはあかるくなっていた。
一学期のルリは、朝に教室に入るのもぎりぎりで、チャイムが鳴るまで僕と一緒に中庭でおしゃべりに花を咲かせていた。友達がいない教室は居づらかったのだろう。
けど、新学期のルリは、まっすぐ教室に向かい、大きなあかるい声であいさつし、積極的に他の人に話しかけ、笑顔を振りまいていた。
夏休み前は僕にべったりだったのに。周囲も変化に目を丸くしている。
どうしたというのだろう、ルリは。
僕が不思議に思いながらどうする時間もなく、あんなに悩んでいたのが嘘のように、あっという間にルリはクラスで友達を作ってしまった。
「あれ、金原が教室で昼飯なんて珍しいじゃん」
隣で榊がパンの袋を開けた。
僕は弁当を無言で開ける。ルリの作ってくれた、和風の弁当。ルリは高校に入ってから、お弁当を毎日僕の分も作ってくれていた。今日の弁当もそうだ。
「智明君、一緒に食べよ」
西島が僕の前の席にやってきて座る。他にも同じようにやってきた女子を西島は威嚇して追い払っている。
僕は弁当に目を落としている。ほうれん草の入ったきれいなだし巻き卵を箸で取りながら、朝のルリとの会話を思い出した。
『はい、お弁当。……それで、あのね、今日はクラスの女の子たちと一緒にご飯食べたいんだ。誘ってくれたんだよ。高校入ってから、智明以外の友達と誘われたの初めてだよ……』
とても嬉しそうなルリの笑顔が、網膜に焼き付いている。
ルリの笑顔を見れるのは、僕もとても嬉しい。
けど、面白くない。
つまらない――いやそれどころじゃない。腹立たしいのだ。
せっかく一学期からルリの周囲から人を排除してきたというのに、元の木阿弥だ。こつこつ築いてきた積み木が一気に崩れた。これからまた、一から排除していかなくてはならない。
とりあえず注意するのは、今日ルリと昼食を取っている奴らだ。
「谷岡さん、友達できたようで良かったな。お前ももう変なことをするなよ?」
咎めるような榊の横からの視線。僕はルリの作ったひじきの煮付けを食べながら、無視してうなずかなかった。
「おい……マジでやめろよ?」
再度、榊は言う。横顔に突き刺さる視線は痛いが、僕は黙ってルリの弁当を食べる。
榊は眠たそうな顔のくせに、ピンと張り詰めた空気を作っていた。関係ないくせに。
……まさか。
「榊って、ルリのことが好きなの?」
榊は垂れた目を丸くして、瞬いた。
万が一ということがある。そうであるなら、見逃すわけにはいかない。大体こんなに干渉してくるのも、僕をルリから遠ざけようとでも考えているんじゃないか?
「好き……って、別に……気になるだけだし……」
気になる、という言葉に僕はぴくりと反応した。榊は焼きそばパンにかじりつき、
「今のところ、ちょっと気になるだけっていうか……。好き、まではいかない、な」
とゆっくりと考えながら答えた。もしゃもしゃ食べるさまは呑気で、パンダのようだと何となく思った。
好き。
そこまでいってもらっては困るのだ。
「好きになるなよ」
釘を刺した僕に、榊は奇妙な顔をした。理解しがたいというか、いぶかしげというか。
しばらくしてからポン、と手を叩く。
「あ、そういやお前、谷岡さんのこと好きなんだっけ。ほんと理解できねえよ。好きならなんで嫌がらせを……」
理解できない人間にわざわざ説明する気にはなれない。
「ほんと、そんな嫌がらせをしてる場合じゃないと思うぞ、俺は」
「えっ?」
「俺が思うに、谷岡さんには他に好きな男がいるんじゃないかな」
世界が止まった。
そう感じたのは、人生で二度目のことだった。
ルリに。他に、好きな、男?
ばかな。
ばかなばかな。
僕の背筋に何かが這い回ったような、気持ち悪さ。ひどい悪寒だった。ぐにゃりと今見ている光景全てが歪んで見えて、箸を落とした。
「なんでだ。どうして」
声が思わず漏れた。
「なんでって、勘だけど」
榊はなんてことなさそうに新たなパンの袋を開ける。
なあんだ、と笑って冗談を許すほど、僕は寛大でいれなかった。
「勘!? ふざけるなよ」
「ふざけてねえよ。確たる証拠がないから、勘、って言ってるだけで。でもそんな雰囲気するって」
「あたしもそう思うな」
今まで黙っていた西島が口を出した。ここまでずっと黙られていた、というのも今考えれば不気味だ。何を考えていたものか。
「男次第で女は変わる、って言うでしょ。あんなに変わったのって、他の男の人の影があると思うよ。きっとラブラブなんじゃないかな」
「付き合ってるかどうかまではわかんないでしょう。片思いの可能性だってありますよ」
榊はそう反論する。ふと気になった。なんで榊は西島に敬語らしきものを使っているのだろう。女子には丁寧語を使ってしまうタイプか? でもルリとは普通に話していたような……。やはり僕をごまかして、榊はルリのことが好きとか?
僕の些細な疑問とは関係なく、西島は強く自弁を奮う。
「えー、絶対付き合ってるって。絶対絶対。もう誰もどうにもできないくらいラブラブなんだよ」
西島はちらりと僕を見た。僕の胸に、言葉一つひとつの棘が刺さる。
「相手は多分、明るくてはっちゃけてる感じの人なんだろうな〜」
「……なんで、そんなことが言えるの」
棘の痛みに耐えながら、振り絞る。
「谷岡さんの変化を見てればわかるよ」
「まあ確実に言えるのは、お前じゃない、ってことだな」
榊が僕にとどめを刺す。
またか。
鈴山のことが終わり、もうあんな悪夢はないかと思ったら、また。
「それ、誰」
喉の奥から低い声が出た。
「誰って、谷岡さんの相手? 水泳部の奴らではなさそうだけど、俺は知らねえよ」
「あたしも知らない」
誰だ。
また僕とルリの間に入ってくる奴は、誰だ。一度解決してそれで終わりじゃないのか。まだ、邪魔者になる奴が現れるのか。
鈴山のときのような激しい憎悪がぶくぶくと生まれてくる。
絶対に消してやる。
榊がびびって身体を引いた。
「おい、すげえ怖い顔してるって」
思考の淵に囚われていた僕は、緩慢な動きで榊に目を向ける。
本当に、こいつじゃないよな?
もしそうだとしたら、殺しても殺し足りない。ルリと会話をさせた甘い僕自身を後悔する。
「もしかしたら、谷岡さんの相手って榊なのー?」
くすくすと笑いながら、西島が僕の思っていたことを問う。
「俺じゃありませんって」
「えー、あたしにとって、すごく残念。ほんと誰なのかな。……なんとか接触したいところだけど」
最後の方はあまりに小声で、聞き取れなかった。西島は自身の唇を触りながら、何かを考えている。
「榊ィ、何か知らないの?」
「知りません。本人に訊けばいいでしょう」
「谷岡さんがあたしに教えるわけがないじゃん」
僕にだって、教えるかどうか。
鈴山の時だって、ルリは自分から教えてはくれなかった。僕が問わなければ、あのままずっと黙られていた可能性だってある。あのままずっと、鈴山と付き合って――不愉快な想像を僕は打ち消した。
「……そういえば、変な音楽聞いてたっけ」
頭を掻く榊は、そうぽつりと漏らした。
「変な音楽……?」
「夏休みの部活の帰り、谷岡さんがイヤホンから変な音楽聴いてたんだよ。んで『何?』って訊いたら、すんごい勢いで薦められて、その曲の入ったCD貸してくれてさ」
ほら、と言いながら榊はカバンからCDを出してきた。
「今日返そうかと思って持ってきたんだ」
……ルリとCDの貸し借りをするくらいに仲良くなっていたわけか。
こいつ、僕にルリには近づかないとちゃんと言ったわりに、影でそういうふうにルリと会い、話をしていたのか。この分だとただ話をする以上に、ルリに友達を作る手伝いをしていたんじゃないか?
僕は疑いを濃くしたまなざしで榊を見つつ、彼の手にあるCDを見る。
「何の曲?」
「よくわかんないロック。多分インディーズバンドのだと思う」
「へーえ」
感心した西島が手を伸ばそうとするより早く、僕はCDを取り上げた。
「又借りになるけど、これ借りていいか?」
金原家の居間は一階にあり、窓も大きく日の光を取り入れる構造となっている。
夕食後のそこで、激しいギターやドラムの音が響く。オーディオ機器に入れた、学校で借りたCDからが音源だった。
最後まで聞いたけれど、まったく聞き覚えがない。メジャーな曲でないことは確かだ。榊の言うように、インディーズバンドの曲なのだろう。あくまで音楽に詳しくない僕の感想だが、ちょっと微妙だ。もしこれが大々的に売り出されていたとしても、僕は買わないし聞こうと思わないだろう。
リモコンで操作し、曲を繰り返させる。
なぜ、ルリはこんな曲を聴いていて、なおかつ人に勧めたのだろう。
好みと言っちゃえばそうだけど、そもそもルリがインディーズバンドの曲に興味を持つなんて、おそらく初めてだ。ルリは激しいロック系より、穏やかなバラード系を好んでいたし、好きなアーティストだってもちろんプロデビューしたメジャーなグループばかりを挙げていた。
いや、考えるべきことはそれより。
ルリに、他に好きな男がいる……。
鈴山が消えてそれで終わりじゃないのか。またなのか。
一体誰だ。
ルリの周囲にいる人物を思い浮かべるが、榊以外それらしき人間は思いつかなかった。だって、排除してきたのだ。
他に可能性があるとすれば、バイト関係。
いまだにルリはどこでバイトをしているのか明かしてくれないから、どんなバイトをしているのか知らない。そこで誰かと出会って……?
ルリが誰かと笑いあっている図を思い浮かべた。途端、不快さが身を支配する。
誰だ。誰だ、誰だ。ルリの隣にいるのは、僕の場所を取るのは。
ふつふつと頭が沸騰しかけているとき、間延びした声で頭を冷やさせた存在があった。かけ続けていたCDからの、ボーカルの声だ。激しいロックなのに、どこか冗長なところがある。語尾にくせのあるボーカルの男の声。
CDのケースには、「DANTE」というグループ名が書かれてある。その名前にも聞き覚えはなく、メジャーでないことは確かだ。
……まだ、わからない。
確実な証拠も証言もなかった。ルリに他に好きな男だとかいうのも、榊と西島の予想にすぎないのだ。全部想像、妄想、という可能性だってある。
そう思ってみても、一度ざわめいた胸は治まらない。
一番疑うべき榊が、嘘をついているかもしれない。
疑念が疑念を呼び、ソファに寝ころびながら考えているうちに、次第に僕に睡魔が襲ってきた。思考が分断される。
音楽がリピートされ続け、僕の鼓膜に刻まれる。
周囲から取り残されたような細やかな焦燥感、でも周りへ踏み込めない些細な躊躇を冒頭で語らっておいて、サビになったら、さあ動け、走れ、声を上げろ、と攻撃的な口調で煽る。
覚えたくもないのに、ボーカルの語尾のくせが脳内に記憶される。息継ぎの直前が間延びしたように感じるのだ。
リモコンに手を伸ばすのが億劫になるほど眠く、一晩中僕はこの曲を聴いていた。