奪ふ男
――ジョーカー 2−4――
「ルリ!」
追いかけて、姿をようやく見つけたのは、靴箱の前だった。ルリは靴を履き替え、校舎を出て行く。僕も慌てて外靴を履き、その背に追いすがる。
「ルリ、西島の言ったことは全部、嘘だから!」
ルリは足を止めて、僕を見てくれた。
「迷惑なんて思ってない! ルリと一緒にいれるのは、むしろ嬉しいんだよ!」
こわばっていたルリの表情がほぐれていく。ルリの濡れた瞳が揺れた。
しかし、ふるふると水に濡れた子犬のように、ルリは首を振る。
「私……一人でもいいんだよ」
ぽつりとルリは漏らす。動揺しながらまくし立てる。
「一人でいたって、空に浮かんだ雲の数を数えたり、葉っぱの数を数えるのも、悪くないんだよ。別に一人でお昼を食べるのだって、慣れれば何ともない。だから……」
嘘つき。とても寂しそうな顔で、そんなことを言うなよ。
「寂しいとか言って、同情させてごめん。智明に迷惑かけて、ごめん」
「ルリ。本当に、西島が言ったようなことは、僕は全然思ってない。迷惑なんて考えたこともない。僕はルリと一緒にいて嬉しい。本当に嬉しい。西島の言ったことは全部忘れて。他はどうだっていいと思おうよ。ルリだって、僕さえいれば寂しくないだろ?」
僕だけを見るよう、ルリの両肩をつかむ。
寂しいと言われてから、僕は努力してきた。以前よりもっと濃密に二人で過ごしてきた。ルリからは次第に寂しさの影が薄れてきたというのに。
僕を揺れる瞳で見上げながら、ルリはまたも首を振る。
「……ダメ」
「何が? 何か悪かった?」
「悪くないって思っちゃうことが、ダメなんだよ」
意味がよくわからなかった。
悪くないと思うなら、それでいいじゃないか。なんでダメなんだよ。
ルリはかすかに苦悶の表情を浮かべ、やはり首を振る。
「このままじゃダメ。やっぱりいけない。だめだ私。ちゃんとしなきゃ……」
「何が、何を」
僕はじりじりと焦ってきた。
「榊君の言うとおりだ。私、このままじゃいけない……私、自分が、恥ずかしい……」
え、と僕は反応した。
「智明に恥ずかしいと思われない、ちゃんとした人になりたい」
「恥ずかしいなんて、何言ってるんだよ」
「思ってるでしょ? だから智明は他の友達に私を紹介してくれないんでしょ?」
僕の、他の友達?
僕には友達と思っている人間なんていない。ルリだって、現状は友達であるけれど、友達であることに満足したくない人だ。
僕の周囲に群がる西島のような奴らが友達だというなら、誰だって友達だろう。でもルリは、そんな西島たちのことを『友達』と指しているらしい。
「幼なじみってだけで、他に友達もできないし、取り柄もないし……智明は私のことを他の友達に紹介するのが恥ずかしかったんでしょ?」
紹介なんてするはずがない。
ルリに友達を作らせないようにしているというのに、どうしてそんな馬鹿げたことをしなければいけないんだ。
取り柄がないだとか、ルリは卑屈になりすぎている。最近弱くなっているとはわかっていた。その弱さが、卑屈さに繋がったのだろうか。
「ルリ。変なことを考えないで。榊のことも西島のことも、全部忘れて。僕はルリと友達でいたいから」
「私だって智明と友達でいたい。でもこれじゃだめ。私、変わらなきゃ……」
嫌な空気だった。望まぬ方向に吹くぬるい風が、ルリに向かっていた。風は僕が何をしても止めることはできない。とどめる僕の身体をすり抜けて、ルリに向かう。
ルリの中で、僕の望まない方向に、何かが固まりつつあった。
「私、バイトをするよ」
「えっ」
虚を衝かれた。
「急になんだよ」
「前から考えてた。ちょっとでも環境を変えようかって」
「意味がわからないよ。ルリは水泳部でただでさえ忙しいじゃないか」
学業、部活。ルリの忙しい日常を縫うようにして、僕たちは二人でいたというのに、バイトまで始めてしまえば。
「夏休みも始まるし、何とか両立してやるよ」
「大変じゃないか。ろくに遊べないよ?」
「うん。でも、がんばるよ」
ルリの中ではもはや決定事項のようだった。僕が何を言おうと、変えない。
いくつか押し問答を繰り返しても、「私やるよ」とルリは決意を深める。
水泳部に入部するときもそうだった。僕がやめた方がいいと言っても、ルリは入部した。水着姿なんて、他の奴らに見せたくなかったのに。
そのときと同じく僕は根負けし、それに適応するしかなさそうだと考えた。
「……どこでバイトするかとか、考えてるの?」
「どこかの喫茶店とかかな。ちょっと探してみるよ」
「決まったら教えてよ」
「やーだ。智明に教えたら、絶対来るでしょ」
「いけない?」
「うん。恥ずかしいから、来てほしくない」
隣で一緒に帰るルリは、絶対教えない、と言った。
毎日のように行こうと思ったのに。
最悪の、とまでは言わないけど、嫌な方向へ進んでしまった日だった。全てうまく行っていたのに、ルリは妙な遠慮をし、確実にルリと一緒の時間が減ることが決定した。
これも全て――
恨みに思ったのは、一人だった。
「西島さん。昨日のはどういうことかな?」
いつものように寄ってくる西島に、教室に入る前の廊下で、きらきらしい朝日が差し込む中、柔らかく笑いかけながら問いかけた。
「僕がルリのことを迷惑だとか、事実無根のとんでもないことを言ってくれたね」
「智明君……」
「勝手なことを言うのはやめてほしいんだけど」
これだからルリ以外の他人は嫌なのだ。いつもルリとの間を邪魔する。
西島は深刻そうに息を呑む。
「ごめんなさい……。あたし……」
どんな言葉が続くかと思いきや、西島は両手でうつむいた顔を覆った。
それから、すすり泣く声が聞こえてきたのだった。
「智明君のことを考えるばかりに、あんなこと言っちゃったの……。きっと智明君は困ってるんだと思って……」
「僕は全然困ってないよ」
「ごめんなさい、谷岡さんにも悪かったと思ってる。本当に智明君のことしか頭になかったの。……昨日からずっと反省してる。許して、智明君……」
「…………」
西島はか細い弱々しい泣き声をあげ続ける。
「智明君のことを考えるあまりに、なんて言い訳に聞こえるかもしれないけど、本当なの。あたし、智明君のことを考えてばっかりで……悪気はなかったの。ごめんなさい……」
西島は顔を手で覆ったまま、本格的にしゃくり泣き始めた。いつも勝ち気な西島が、秘めた女の弱さを見せつけるように。
同じクラスの奴らは、榊のようにそっと知らんふりで教室に入っていく奴らと、何があったのかと心配そうに見つめる奴らとの二極に別れていた。視線が痛い。
僕は目の前でぐすぐすとうつむいて泣き続ける西島の肩に、やさしく手を置いた。
「西島さんは、僕を思ってくれてああ言ったんだね。よくわかったよ。責めてごめん」
「智明君……」
涙をぬぐうようにしてから、西島は顔を上げた。
「もう勝手に推測して変なことは言わないでほしいけれど、昨日のことはいいよ。僕も責めすぎたね」
優しさに溢れた笑みを佩く。
「水に流してくれるの? ありがとう、智明君!」
西島は僕に抱きついてきた。
こうして僕と西島が仲直りしたところで、周囲の人間は安堵したように教室に入っていった。ちょうどチャイムが鳴る。教師がやってきた。
僕はやんわりと西島を身体から離し、それから教室に戻った。隣には先ほど僕より前に教室に入っていた榊が座っている。
席につき、ようやく僕はため息をついた。
……女の涙とは面倒なものだと、よくわかっている。
このまま責めたところでこじれにこじれ、結局脱力するような結果しか生まないとわかっていたから、適当に西島が望むであろう言葉を告げ、終わらせた。
腹立たしいことは腹立たしいままだけど、泣いた女とそれを責める男では、客観的に男に分が悪い。人も多すぎた。
たとえその女の涙が、嘘だったとしても。
普通の男だったらころっと騙されるかもしれない。泣き落としなんて、僕は見慣れていた。それほど泣き真似がうまかったと称賛はできるが、感情はまったく動かなかった。
それにしても――
どうしてこう、うまく事が運ばないのだろう。大切に手のひらにすくい取ったものが、次第にこぼれていくような気持ちだった。
それから、ルリは再び友達を作ろうと努力し始めた。
けれど弱りに弱ったルリに残った勇気はごくわずかで、積極的に友達を作る行動に移すまでにはいたらなかった。話しかけたり輪の中に入ろうとする前で、躊躇してしまっているのだ。
無駄な努力。
そう冷ややかに見つめながら、ほっとしている。
たとえそうできたとしても、僕が排除すればいい話だ。さっさと全部諦めてしまえばいいのに。
ルリの実らぬ努力を見るだけの僕に、やっぱりルリは変わらずすがっていた現状。結局の所、一学期の間にルリの周囲に変化は訪れなかった。
その年の夏休み。かつてないほど、つまらない夏休みだった。
ルリは水泳部の部活とバイトで忙しく、ほとんど逢えず、遊べない。
バイトに採用された後も、ルリはどこがバイト先かを教えてくれなかったから、顔を出すこともできない。
ルリと僕は携帯を買った。ルリはバイト代が入ったから。僕はルリと繋がるため。でも慣れていないためか、ルリからの返事はマメではない。その繋がりは細い。
そしてルリと話したりするために買った携帯には、他の奴らからのメールや電話がひっきりなしだった。適当にメルアドとかを教えるんじゃなかったと後悔しても後の祭り。
夏休み中、あっちに行こう、こっちに行こうと誘われる。なぜだか強制的に参加させられることも多く、そしてそこにはルリがいないこともあって、憂鬱さを駆り立てた。
盆前のプールもそうだった。郊外のプールに行くとかいう計画が立てられ、知らず知らずのうちに、僕がそのメンバーの中に含まれていた。断わろうとしても断り切れず、行くことになった。
現地集合のため、一人でバスで行く。駅前のバス停には、まだバスが来ていない。
ちなみに駅には北口と西口の二つの出口がある。西口は寂れた公園と川が前にある、人通りの少なく寂しい出口。一方僕のいる北口は車道が片側三車線あるような、車通りも人通りも多い出口だ。あまりに車通りが頻繁で、車線も多いから、バス停の向かいにあるギターの形をした看板の楽器屋も、ろくに見えないくらいだ。
駅自体はビルと一体化しており、八階建てのビルには化粧品から電気製品から食べ物からを扱う、さまざまな店が詰まっている。そのビル目当てにも、北口付近には人がよく通っていた。
入道雲が積み重なっているものの、太陽を隠してはくれない。ベンチに座って待つものの、蝉の鳴き声がうるさくて不快に耳に残る。
バスはまだ来ないかと近くの大きな交差点を見ていると、会いたくもない、名前も忘れたいくらいの奴が信号を渡っていた。思わず舌打ちし、視線を向けるのをやめる。
しかし、えてしてそういう場合というものは、相手の方が僕に気づいてしまう。
そう、奴は僕に気づき、わざわざバス停前までやって来たのだった。
「よ、よお、金原」
「…………」
奴は大柄だから、僕は影に隠れた。そのため少しだけ涼しくなったような気がしたが、まったく嬉しくない。暑くてもいいから、さっさと消えてほしい。
地元というのはこういうところが嫌だ。同じ中学だった奴も近くに住んでいるから、何かと顔を合わせてしまう。
鈴山と顔を合わせるなんて、最悪だ。
僕はそれらの気持ちを何かで包むことなく、鋭いままで吐き出した。
「どこか行ってくれないかな」
「な、なんだよそれ」
「見たくもないんだ」
「何かしたかよ」
何かした?
しただろう。ルリと付き合った。それで十分だ。
あのときのことを思い出すだけで、はらわたが煮えくりかえる。掴みかからず、こうしてただ座っているだけの自分を褒めたいくらいだ。
「消えろ、って言ってるんだ」
強く噛みしめる歯を離し、重く告げ、睨み上げる。
「な、なんだよ……」
ごにょごにょとまだ鈴山は言っている。
僕は鈴山から顔を背け、車道を見る。バスはまだか。
すると、一瞬、視線を感じた。
ルリからの視線。彼女からのものだと直感した。
はっとして立ち上がり、思わず周囲を見回す。
ルリが近くにいる?
並ぶバス停にはバスは一台もつけられていない。巨大な交差点では、歩行者がそれぞれ向かう方向に歩いている。駅の出口には人が出入りしている。
それぞれに目を向けるが、ルリの姿は見あたらない。
「どうしたんだよ」
まだそこにいた鈴山がが不思議そうに問う。
僕はそれに答えず、再び座り直し、車道に目を向ける。
……気のせい、だったようだ。確かに、ルリの視線をどこからか感じた気がしたのだけど。
今日は朝から暑いから、どこかぼんやりとしてしまったのかもしれない。街路樹にいる蝉はうるさく、陽射しはきつい。アスファルトには蜃気楼が浮かんでいる。そんな、暑い暑い、プール日和だった。
その日の夜、手作りのエビチリや麻婆豆腐などの中華料理を持ってきてくれたルリに、
「今日の朝、駅前にいた?」
と訊くと、
「いないよ。朝からバイトだったんだから」
と普通に答えられた。その返事に、僕は気のせいだったと片付けた。
本当はそこにいたと知るのは、それが波紋を呼んでいたと知るのは、後のことだった。