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奪ふ男

――ジョーカー 2−2――


 榊とルリとの会話のすぐ後。六月の上旬、雨の日に遠足があった。
 雨天のため、行くのは近場にある水族館だ。教師に牽引されるのでなく、各生徒の自由行動となっている。
 と言っても、ルートは一本道。同じ高校の制服がいたるところで溢れていた。
「あ、ほら智明、マンボウだって。かわいいね」
 笑顔のルリが指差した先に、丸く愛嬌のある形をした魚がゆっくりと通っていった。その大きなマンボウの周囲に、小さな魚達も遊ぶように泳いでいる。ガラスに顔を近づけてそれらを見るルリは、生き生きとしている。
「そうだね。本当にかわいい」
 そうやって喜ぶルリがね。
 僕は自然に笑った。
 やっぱり、ルリと一緒にいるからと、他の奴らの誘いを断わって断わって断わりまくった甲斐があったと思う。一番しつこい西島が風邪で休んだのも運が良い。
 ルリはこういうときに一緒に行く友人はクラスにいない。必然的に僕の元に来るしかないのだ。
 正直なところ、僕は団体行動が好きではない。こういった行事も同じだ。
 でもこうしてルリと二人で一緒にいれるなら、周囲の連中はいないものと思ってもいい。
 しかし。いないはずの人物達が声をかけてくるのだった。
「ねえ智明君、あたしたちと一緒に見てこうよ」
 彼女たちは服の端を引っ張ってくる。
 さんざん、事前に告げていたというのに。思わず小さなため息が漏れる。
「ルリと一緒に回るから、ごめんね?」
 振り返って、にっこりと笑む。
 ええー、とかいろいろと彼女たちは言っていたけれど、僕はルリの手を強引に引き、その場から立ち去った。
「……智明、いいの?」
 神秘的に揺れるクラゲのフロアに来たとき、ためらいがちにルリが手を離して言った。
「さっきの、クラスの人たちでしょ?」
「いいんだって。ルリと一緒に回るんだから」
 黙ったルリに、「ほら、あのクラゲ、光ったよ」と水槽の中を指し示した。
 僕には余裕があった。他の奴らを気にしつつも、ルリは僕に、あっちに行った方がいい、なんてことは言えないのだ。そんな余裕は今のルリにはない。何があろうと、罪悪感らしきものを持とうと、ルリは僕から離れない。
 ゆっくりと水族館内を見回っていたが、出口までたどりついた。
 しかしまだ見回っている連中が多いようで、大分待たなければならないようだ。
「土産屋にでも行こうか」
 時間つぶしのために、僕たちは館内の土産物屋に立ち寄った。
 魚やイルカやラッコのグッズが並べられ、僕たちのような生徒でひしめいている。
「このラッコの携帯ストラップいいなあ」
「ルリはケータイ持ってたっけ?」
「ううん。でもそろそろ欲しいかなって思ってる」
「そうだね」
 僕もそろそろ買おうかと思っていたところだ。ないならないで問題はないが、あった方が便利だというから。
「あー、谷岡さん……と、金原……?」
 冒頭はのんびりとした普通の声だったのに、僕の名字を呼ぶときはトーンが幾分か下がっていた。その声の主は、榊だった。
 またこいつか。
 相変わらず眠そうなぼうっとした顔をしている。
「二人も暇つぶし?」
 榊は言いながらちゃらちゃらと陳列されてるキーホルダーをに触っていた。
 ルリはうなずく。
「……もしかして、回るのも二人一緒だった?」
「え? うん」
 ルリは戸惑いながら答える。
「……あのさ、この前から気になってたんだけど、どうして谷岡さんは金原と一緒にいんの?」
「えっ?」
「僕とルリが一緒にいて何の問題があるんだよ。家も近くて小学校も中学校も同じ幼なじみなんだから」
「金原に訊いてるんじゃないって。谷岡さんが、どうして、金原と一緒にいるのかって訊いてんだよ」
 榊は僕でなく、ルリを見ている。むっとする。僕が答えるのとルリが答えるのと、何がいけないっていうんだ。
 ルリはわけがわからなさそうでありながら、素直に言った。
「え、智明の言うように幼なじみだから、っていうのはおかしい? 前にも言ったと思うけど」
「…………。いや、おかしくないけどさあ……」
 榊は眉根を寄せながら、頭の後ろを掻いた。納得した顔ではない。ルリが僕と一緒にいることのどこが悪いんだ。
 彼の質問の意図が掴めず、僕とルリは顔を合わせた。
「んー、一緒だったっていうんじゃあ、中学もこんなだったわけ?」
「こんな、って?」
「谷岡さんに友達がいない状態だったのか、って」
 ルリの表情が凍った。
 こいつは何を言い出すんだ。
 僕が話題を変えようと口を開きかけたのを、ルリが腕を引いて留めた。そしてルリは深呼吸し、強ばった顔に無理に笑みを貼り付けて答えた。
「中学の時は、友達はちゃんといたよ」
「ふうん。じゃ、高校になってから金原以外、友達いない状態、ってわけか」
「そう……だね」
 笑みを貼り付かせることが不可能になったのか、ルリは視線を下に向ける。
 榊はちらりと垂れた目で僕を見た。
「――ところで、水泳部の一年でさ、今度カラオケ行こうって話になってんだけど、谷岡さんも来ねえ? 部員同士、仲良くなるきっかけになると思うけど」
 なんて、榊は余計なことを言う。
 ルリは顔を上げた。希望に満ちた光がルリの目に宿る。
「わ、私……」
 上ずったルリの声に、あかるいものが混じっていた。
「やめた方がいいよ、ルリ」
 僕はルリの言葉を鋭く遮った。
 ここまでの努力を水の泡にしてたまるか。
「あんまり仲良くないんだし、居たたまれない微妙な空気を味わうだけに終わると思うよ。ルリが行くことに、他の人だってどう思うかな」
「別に俺は何とも思わないけど」
 榊が口出しする。行った方がみんなに迷惑だ、とルリに思わせようとしてるのに。邪魔な奴だな。
「榊がそうだって、他の人たちがどう思うかはわからないだろ。みんな楽しくやっているところにルリが入ってくるのは、ルリだけでなく向こうだって気まずいだろうね。それなら行かない方がマシじゃないかな」
「…………。そう……かもね」
 途端にルリは意気消沈する。
 心の中で、僕はうなずく。
 そうだよ。それでいいんだよ、ルリ。
「あのさあ!」
 榊は我慢できないとでも言いたげに、声を荒げた。
「谷岡さんは友達作ろうって気、あんの? 多少気まずくても入っていくしかないじゃん。今日の水族館だってさ、こいつと一緒にいるより、クラスのグループにでも無理にでも入れてもらってた方が良かったんじゃねえの? こーゆー行事って仲良くなるためにあるようなもんじゃん。誰も谷岡さんを嫌ってるって話じゃないんだしさ」
 本当に余計な奴だな。しかも僕を『こいつ』呼ばわりか。
 僕は目を細め、ルリをかばうように前に出て榊と対峙した。
「さっきからルリにしつこいね。榊に関係ないだろ」
「ないけどさ……」
 けど、何だ。僕は榊の目をまっすぐ射る。先に逸らしたのは、榊の方だった。彼は疲れたようにため息を吐く。その顔の通り、覇気のない奴らしい。
「もういいや面倒くせえ。確かに関係ないしな」
 そのまま榊は僕たちに背を向け、土産物屋の人混みにまぎれていったのだった。

 ああ、やっとどっかに行ったか。僕は気を取り直してルリに向き直った。
「さ、土産物を見て回ろう」
「……榊君……私のために言ってくれていた、よね」
 ルリは榊の去っていった方を目で追う。
「ルリ。気にしなくていいんだよ、どうせ他人事だと思って適当なこと言ってただけなんだから」
「でも、悪い人じゃない。むしろ正しいことを言ってた気が、する。確かに、友達を作るには、努力が必要だよね」
「そんな努力は必要ないよ」
「でも」
「ルリ。ちょっと知り合ってろくに知らない奴と、十五年間一緒にいる僕の言葉と、どっちを信用するの」
 僕は少し勇気を出して、そう問いかけた。ルリの答えに恐怖を抱きながら、それでもゆっくりと言い、余裕を見せて。
 ルリは詰まり、沈黙した。その反応に、僕は内心、大きく安堵する。
 けど、黙られるだけではだめだ。もっともっとと求めてしまう。僕は更に勇気を奮う。
「僕は別にいいけどね。榊の言うとおりにするなり何なり、したいようにすれば?」
 僕はルリから顔を逸らし、興味を失ったようにキーホルダーの陳列棚に目を向ける。
「……いじわるなこと、言わないでよ」
 服がちょっと引っ張られた。肩越しに見てみると、ルリが小さな手で僕の制服の裾を掴んでいるのだった。泣く寸前のように、声は本当に弱々しい。
「智明を選ぶに決まってるじゃない」
 勝った。
 そう思った。
 ルリの揺れる目は僕を見ている。
 その弱々しさに胸の奥に熱いものが募る。
 ルリはただ僕を見ている。ただ掴んだ裾を離さない。
 頼るべきものは他にない、このひ弱な表情がなんて素晴らしいものだろうか。笑顔もかわいいけれど、この哀しみと追い詰められてどうしようもないものが混ぜられたこの表情、僕の裾をつかんでいる小さな手、指先、全てに恍惚と見蕩れてしまう。
 榊に僕が負けるわけがないと思ったからこそこう言って、わざと引いてみたけれど、成功して思った以上に僕は満足感を得られた。
「ふふ、ごめんね。冷たくしちゃって」
 僕は満面の笑みをルリに見せ、優しくルリの黒い髪を撫でる。
「安心して。僕はルリの側にいて、寂しくなんかさせないから。だから他に友達を作るとか考えなくていいんだよ」
 努力も何も要求しない甘い言葉に、ルリがほっとしたのを、僕は確かに見た。そして強く握っていた僕の服の裾を、ようやくルリは離した。
 籠の中に小鳥を飼っているような気分――とでも言えばいいだろうか。
 僕の手で食餌をやり、全ての世話をし、大切にかわいがり、全てに楽しむ。籠の外に出すなんてとんでもない。他のものを見せるなんてとんでもない。せっかく閉じこめたというのに。
 そんなことを思いながら、僕は口の中で笑いをかみ殺した。


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