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奪ふ男

――ジョーカー 1−7――


 教室は静かすぎるほどだった。ほとんどが参考書や教科書を開いている。たまに、仲間うちで最後の勉強をしている人たちがいる。とにかく勉強をする人たちばかりで、いやが上にも緊張感を高められる。
 僕もまた、最初に試験となっている英語の参考書を開いている。
 目の前の席にいるルリは、筆記用具を用意している。
 カラン、と音がした。
 床の上を、ルリの席の方から僕の席の方へ、ころころと鉛筆が転がっている。
 落としてしまったのだろう。
 それを拾い上げた僕と、床に手を伸ばして鉛筆を探し始めたルリとの目が合った。
「はい」
 差し出すと、ルリは黙って手のひらを上にして手を出した。渡そうとして、ふと見たルリの指先は赤く、かすかに震えている。
 顔も教室に入っているにも関わらず赤い。
 もしかして、ルリ、すごく寒いんじゃないか?
 廊下側には暖房の恩恵はあまり届かないし、ルリ自身の防寒もちゃんとしているわけじゃないようだし。
 僕は思わず、ポケットに入れていたカイロを鉛筆と一緒に手渡した。
 ルリは自分の手のひらを見下ろす。
「……何のつもり?」
 寒すぎるためか、硬い声だった。
「寒いんだろ?」
「……いらない」
「そんな手で鉛筆を握れるの?」
「…………」
 ルリは手の中にあるカイロを見下ろしてしばらく何かに葛藤していたかと思うと、それを握りしめて、前を向いた。


 最初の試験は英語だった。テストが回収され、いたるところで伸びをしたり、問題の答えを話し合っている人たちがいる。
 引っかかるところはあったけど、次の試験のことに頭を切り換えよう。そう思っているところに、突然目の前にいたルリが立ち上がった。
 その横顔は、蒼白だ。僕のあげたカイロを握っていた。
「ルリ、どうしたの」
 ルリは答えない。いや、答える気力もなさそうなほど、ひどい顔色だ。ルリはふらふらとした足取りで、教卓の周辺にいる試験官たちの元へ近づき、
「すみません、気分が悪くて……」
 と話しかけた。大丈夫なのか?
「智明くーん、英語どうだったー? あたし長文がヤバくてさ」
 場違いな西島のあかるい声。強引に僕の腕に腕を絡ませてきたものだから、つい僕は西島に顔を向けた。それどころじゃないっていうのに、この女は。
 その間にルリは荷物を持って、試験官と一緒に教室を出て行った。
 同じ中学の奴らは去っていくルリに、ざわめく。
 まさか、このままルリは受験を断念するのか? それじゃあ、僕が合格できたって、同じ高校に行けないじゃないか……!
「谷岡さんって、保健室受験するの?」
 しつこく僕の腕にすがりつきながら、西島がぽつりと口にする。
「え? 保健室受験?」
「気分悪い人は、教室じゃなくて保健室で受験するってやつ。あんまりひどいと病院行きか家に帰るんだと思うけど、あの様子じゃ、保健室行きなんじゃない?」
 ちょっとほっとした。受験するのが同じ教室じゃなくて保健室に移ろうと、合格が目的なんだから、大きな問題じゃない。
「でもさー、テスト問題はあたし達と一緒なんだし、気分悪い分、力は出せないだろうなあ。途中でリタイアってこともあるじゃん。谷岡さん、この学校の偏差値的には余裕だったはずだったけど、本格的にヤバいかもねー」
 あはは、と西島は軽快に笑った。ひどくむかむかとした。
「……何を言ってるのさ」
「智明君も喜びなよ。ライバルが一人減ったんだよ?」
 西島の笑い声に、嫌悪感がこみあげる。
「一人で合格したって意味がない、僕はルリと一緒に合格したいんだ。喜べないね」
 腕に絡んでいた西島の手が、するりとほどけた。驚いているその目は、観察するように僕を捉える。いつものあかるく軽い様子からは想像できないような聡明さを秘めた瞳だった。
「まさかまだ……そう、だったんだ、鈴山とのあれはそういうこと……」
 西島は自身の下唇に指を這わせながら、独りごちる。
 そのとき、静かに再び扉が開いた。
「……受験票を、忘れてて……」
 何やら西島から視線を逸らすようにうつむいて、遠慮がちに元の自分の席に戻ろうとするルリ。もしかしたら、さっきの話を聞かれてたのだろうか。
 僕の方が机に近かったものだから、先に僕がそれを取り、差し出す。
「保健室だったら、ここより暖かいだろうから、リラックスして受験できるんじゃない?」
 受験票を手渡す時、手を握りしめた。
「がんばろうね」
 ルリはうつむいていた。
「ありがとう……」
 僕の耳に、ルリの小さな声が届いた。そして彼女はふらふらとした足取りで、再び教室を出た。


 慣れない学校の保健室にたどりつき、軽く叩いてから、静かに扉を開けた。
 窓からは西日がやわらかくそそぎこんでいる。すでに国語・数学・理科・社会・英語五教科全ての試験を終え、夕方にさしかかっていた。
 昼休みに一度この保健室を訪れたものの、そのときのルリは何も食べずにただベッドで眠っていた。
 風邪を引いて、熱があるらしい。
 全ての試験が終わった後に訪れた今、ルリは確実に風邪を悪化させていた。瞳は潤み、咳がある。やってきた僕をゆっくりと見たものの、視点は焦点が合っていないようで、ぼんやりしている。僕を認識できているのか疑わしい。
「帰り……ます」
 ルリはかすれた声で、保健室のおばさんに告げた。
「保護者の方をお呼びした方がいいと思うけど」
「いいです……早く、家に帰りたいので……」
「そう? 大丈夫……?」
「僕がついていきますよ」
 僕が口を挟むと、おばさんは少し考えながら、うなずいた。
「じゃあ、ちゃんと見てあげてね」
 ルリはぼんやりとしたまま、荷物を持とうとする。
「僕が持つよ」
 そうして取り上げると、ようやくルリは僕の顔をしっかりと見た。こわばった顔でも、拒絶の表情もない。ただただ風邪がつらそうな顔。こくりと力なくうなずくと、
「お願い」
 と言った。

 この高校と僕たちの家までは、徒歩で通える距離だ。事実、僕は今日、歩いてきた。
 でもこの状態のルリを歩かせるのは忍びない。僕たちはバスに乗って帰ることにした。バスは学校の近くに乗り場があり、僕たちの家の近くで下車できる。ただし、遠回りするので徒歩で行くのと同じくらいの時間がかかる。それでも、座っていれる方がルリにとってはいいだろう。
 バスには人が少なく、座席も空いていた。
 一番後ろの端の席に、僕たちは座った。窓側がルリで。静かにバスは走り始めた。
 暖房の効いた車内で座ったことによって、ルリはうつらうつらと目をつぶり始める。
 窓に倒れ込もうとしたルリの身体を、僕は自分の方へ引き寄せた。
「な、に……」
「冷たい窓ガラスより、こっちの方が温かいだろ?」
 事実、雪が打つ窓はとても冷たそうだ。
 僕とルリは抱き合った状態で、一瞬見つめ合う。ルリは目を閉じる。そして顔を僕の胸に押しつけるようにして、身体を預けた。
「うん……」
 風邪を引いて弱ったルリの言葉は、考えた末に口に出したようではなく、子どものようにただ感情の赴くままに素直に言っているようだ。胸元で囁く声が甘くて、脳髄がしびれそうだ。
 ルリは今、僕に全てを預け、安堵のうちに眠りについている。なんて温かいんだろう。僕のコートを着て眠るルリの表情はなんてかわいいのだろう。
 このままバスがずっと走ってくれればいいのに。ずっと、ずっと。


 でも、バスは止まって、家の近くに到着した。
 そのときルリも起きてしまった。
 暖かいバスの外に出ると、雪の降る寒さが余計に身にしみる。ルリにコートを貸して、制服の上に何も着てないせいもあるだろうけれど。
 ルリはふらふらしている。あまりにふらふらしているものだから電柱にぶつかりそうになったのを、寸前でかばうようにして止めた。
「仕方ないなあ、僕がいないと。頭からぶつかるところだったよ?」
 笑いながら言うと、ルリはじっと僕のことを見てきた。
 雪がちらちらと降り注ぎ、ルリの黒髪に点々とくっついている。優しくそれを取り払っていくけど、次々と雪は降るものだから、終わらない。
「積もるかな」
「……さあ」
「そういえば昔、雪だるまを作ったことがあったよね」
 この地方は、雪はあまり積もらない。だから雪だるまを作ることができるなんて、めったになかった。小学校の時だっただろうか。はしゃいで雪だるまを作って遊んで、数日も経たないうちに溶けていった。
「楽しかったな。ルリと一緒に遊んで。溶けた雪だるま見て、ルリは泣いちゃったんだよね」
「うそ」
「本当だよ。僕はちゃんと覚えてる」
「……そう、だったかな。雪だるまを一緒に作って楽しかったことしか覚えてないや」
「良い思い出だ」
「……そうだね」
 話す間にも雪は止まらない。ルリの髪は白さを増していた。僕の頭も。服も、靴も。
 真剣さと困惑が入り交じった顔でルリは僕を見上げた。
「智明は……何がしたいの……?」
 何が……?
「何で、こうやってコート貸してくれて、ついてきてくれて……私のことが嫌いなんじゃないの?」
「嫌いなわけないじゃないか」
 即答した。そんな馬鹿なこと、あるわけがない。
「ルリのことを心配するのは当たり前じゃないか。まだ寒い? だったら学ランも貸そうか? 辛くて歩けないなら、担いで運ぼうか」
「何がしたいの、智明は」
 何が。
 僕が今、一番望んでいることは。
「元気になったルリが見たい、それから、一緒の高校に通いたいよ」
 ルリは黙った。
 突風がやってきて、風と雪が舞う。笛の音のような風音が聞こえる。
 足跡が消えていく。僕たちの歩いてきたことによって汚した白い道が、自然に元通りに戻っていく。
 ルリは小さな咳をした。そのまま電柱によろけそうになったルリを、僕は支えた。
「合格……」
 小さくルリはうわごとのように呟いた。
「……できたら、いいな」
 試験を振り返れば、僕だって結果に自信満々とはいえない。わからない問題もいくつもあった。時間配分を少し間違えたところもあった。
 でもルリは保健室受験だけあって体調は万全でなく、僕以上に全力を尽くせたとは言えないのだろう。悔やんだところもあるのだろう。
 大丈夫、なんて適当なことは言えない。
「できたらいいね」
 だから僕は、ルリの言葉を反芻した。僕自身に言い聞かせるためにも。涙をこらえながら小さくルリはうなずいて、うん、と言った。
 ルリは僕に時折支えられながら、うっすらと雪の覆う道を歩き始めた。
 合格したいね。
 一緒に合格できたらいいね。


 数日後に、高校からの速達が届いた。合否通知だ。
 速達だった。玄関のドアから階段を降りた先にある門扉でサインをして、配達人から受け取る。
 待ちきれなくて、その場で、A4ほどの大きさの袋を開ける。合か否か、果たして――。

『合格おめでとうございます』

 あっけない、その文字。僕はしばらく眺めていた。徐々に、胸の奥から喜びがせり上がり、頬がゆるむ。
「智明、合格したの?」
 斜め向かいの塀の影から、ルリが顔を出していた。風邪は治って、元気な顔で。ルリも僕と同じ封筒を持っている。
 ルリのところにも合否通知が届いたのか。
 少し考えれば当然のことだった。同じ高校を受験したのだし、合否通知は一斉に配送したのだろう。僕とルリの家は近すぎるくらい近いのだから、配達人だって一緒に届けたはずだ。
 ルリが近づくにつれ、その手にある封筒の封が切られていることに気づいた。すでに中身も見たのだろう。
 僕の手許の合格証書を覗き込み、にっこりルリは笑った。
「一緒に、同じ高校行けるね」
 そうして、名前だけが違う同じ合格証書を、僕に見せたのだった。
 僕たちは合格証書を互いに見せ合った。並べて、透かして、とにかく笑いながら。笑って笑って笑って、笑い疲れたくらいになって、ルリはしみじみと言った。
「私ね、智明と一緒に合格できたら、しようと思っていたことがあったんだ」
「何?」
「……全部、水に流すこと」
 ルリは不思議な表情を浮かべた。静かな苦しみと慈愛の入り交じった菩薩のような表情と言えばいいのか。
「私、バカだったよ」
 何故か胸がどきんとした。その言い方は、良い言葉でも悪い言葉でも繋がるような気がする。
「智明が鈴山君を奪ったのは、タチの悪い私に対する嫌がらせだと思ってた」
「嫌がらせ?」
 そんなことのために、あの優柔不断野郎を誘ったと?
「そんなわけないだろ。僕がどういう気持ちで……!」
「わかってる。わかってるから」
 ルリはかぶせるように僕のまくしたてようとした言葉を遮る。
「智明は、意味もなくそんなことしないよね。私に優しいこともわかってる。智明はただ……一途に、想っているだけなんだよね」
「ルリ……!」
 わかってくれたんだ……!
 僕がどれだけルリのことを想っていたか。鈴山とのあれこれも全て、ルリを想うがゆえのことだと。
 思わずルリの肩と腰に手を回し、抱きしめた。ああ柔らかく、温かい。何もかもがぴったり合うような感じがする。ずっとこうして抱きしめていたい。
「わかってくれたんだね、ルリ」
「うん……全部、水に流す。智明も辛かったんだよね」
 そうだね、辛くて辛くてたまらなかったけど。
「もういいんだ」
 ルリが鈴山と別れて、元通りになってくれるなら、僕も水に流すよ。
「鈴山君のことは、私はもう、何も口にしない。謝りもしない鈴山くんに未練なんてないし……もう、いいんだ……。だから智明は、気にしないでね……」
 少し苦しそうに、ルリは僕の肩口で息を吐く。
 ちゃんとルリが諦め、忘れてくれるっていうなら、僕だって忘れるよ。あいつは高校も違うんだし、未練がないっていうなら、寛大な心で許してあげる。名前も顔も恨みも忘れてあげる。
 また元のように戻れるね。誰も割り込むことのない、二人だけの時間と空間が。
 夢のような心地だった。でも、そのふわふわと空に浮いた風船のような気持ちは、次のルリの言葉で、パン、とはじけた。
「それで、これからも、友達でいよう?」
 ……は?
「とも、だち……?」
 何を言ってるんだルリは。僕が一途にルリを想っていることを知って、それで、友達? たかが友情程度のために鈴山を排除しようなんて思うわけがないだろう。僕の深い想いを知った上で出てきた言葉が、友達?
 笑みが消える。
 僕は抱きしめていたルリの身体を少し離した。肩をつかむ手に力がこもる。
 ルリはおびえたように瞳を揺らす。
「友達……に、戻れない、の? いろいろ悩んだけど、私は、智明と無関係な他人でいたくないと思ってる……んだけど」
 ルリにとっては、無関係な他人と、友達、というのが二者択一なのか? 僕と仲を深めたいとは思ってくれないわけか?
 僕が探るように見ると、ルリは僕の手から離れ、うつむく。
「やっぱり、元に戻れない、のかな。そうだよね、智明にとっても、気まずいよね」
 ルリの言葉の意図が掴めない。気まずい? 何が?
 僕はそれ以上になりたいって思い続けているのに。何がなんでも、ルリにとっては、友達が最大限の譲歩なのか?
 そういえば、ルリは僕を『ただの友達』だとか言っていた。
 ルリには鈍いところがある。僕の想いを知りつつ、まだ、僕と仲を深めたいとまでは思ってくれないってことか。無関係な他人と、友達と、二者択一の……。
 その結論に心の中で落ち込みながら、僕は笑顔を作った。
「友達でいいよ」
 無関係な他人だけは嫌だ。今までさんざん無視され続けていた時の絶望は、もう味わいたくない。
「あ、ありがとう……」
 ようやく、ルリはほがらかな顔を見せてくれた。
 その顔を見ると、身体の中心が熱くなる。衝動的に、寒さで赤くなってきたルリの頬に、軽くキスをする。そのまま耳の側で、ささやいた。
「これからも一緒だね」
 ルリは真っ赤な顔で、キスされた頬を押さえている。
 高校に二人とも合格したことだし、時間はまだまだある。悲観的になることはない。鈴山のような例は、僕たちの間に起こった一種のはしかのようなものだったのだ。一度あれば二度はめったにない。
 空は晴れ渡る。僕たちの高校生活も、きっと晴れて幸せな日々なのだろう。きっと、きっと……。

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