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奪ふ男

――ジョーカー 1−6――


 確実にルリは僕を避けていた。
 次の日の朝は、登校するところにも出くわさなかった。学校でも会えなかった。
 その次の日も会えない。どうやら登校時間を変えたらしい。
 その翌日になって、僕は少し遅めに登校することにした。ルリに会えると思って。だけど、その日も会えなかった。どうやら遅刻したようだ。でも、学校でも会えない。
 その頃には、鈍い僕も薄々感づいてきた。ルリが僕を避けていること。何があっても僕と顔を合わせまいとしていること。
 何かを考えるより、僕はただただ呆然としていた。


 ある日の夕方、チャイムが鳴ったので家の扉を開けると、そこにいたのは、ルリのおばさんだった。手には煮物の入ったタッパーだ。
「智明君、今日は里芋の煮物を持ってきたのよ。お口に合うといいんだけど」
 うちは母さんも父さんも、ほとんど家にいない。だから食事も、食事代を渡されるだけの日が多い。毎回料理を作るのが面倒な僕は、食事を抜くことがある。
 そんな状態を見るに見かねたおばさんは、たまにこうやって料理をお裾分けしてくれる。
 だけど、いつもそのお裾分けの料理を運んでくるのはルリなのに。おばさん自ら持ってくるのは、かなり珍しかった。
「……ありがとうございます。ところで、ルリは……?」
「瑠璃子? 部屋にいるわよ。いつも喜んで持って行くのにね、ホラ、智明君も瑠璃子も受験生でしょ? 持って行きなさいって言っても、勉強があるからって部屋に籠もってね。ごめんなさいねぇ」
「……そう、ですか」
 確かに僕とルリは中学三年生で、今は秋で、学校でも受験だ受験だとうるさい。
 けど、本当に勉強があるから?
 最近のルリの動きを見ると、おばさんの言うことを信じて楽観的には思えなかった。


 それでも僕は楽観的すぎたのかもしれない。
 しばらくしたらこんな日々は終わると思っていたから。
 でも、いつまで待ってもルリは僕を避け続けた。
 いつまでもいつまでも。イチョウは黄葉し、散り始める。空気は刺すような冷たさを増す。葉の散った裸の木がそこかしこにある。
 それでも、それだけ経っても猶、ルリは僕を避ける。
 僕は逆に楽観的に考えたくなってきたほどだ。受験前なのだから、ルリは避けたくて避けているのではなく、ただ勉強しているだけなのだ、と。
 現実の、ルリに会えない辛さに、全てがめげそうだった。耐えられなくて、どこかに逃避したいほどだった。
 死にたくなった。
 それを踏みとどまったのは、ルリからの直接的な拒絶の言葉を聞いてないからだ。ただそれだけのことに、僕はすがっていた。
 もし決定的なルリの拒絶の言葉を聞いたら、僕はどうするだろう……。
 

 ルリのことで悩む一方、僕たちは中学三年生であり、受験戦争まっただ中にあった。学校は徐々に受験の色に染まり、否応なしに勉強に駆り立てられる。
 年が明けて、私立の高校へ願書を出しに行った。僕の中学は同じ高校を出願する生徒にグループを組ませ、そのグループで一緒に出願に行かせる。
 そこで久しぶりに、ルリと会えた。
 同じ高校を受験する以上、同じグループになることは逃れられない。グループで学校を出て、出願する高校に向かう。その途中、僕はルリに話しかけた。
「ねえルリ」
「…………」
 ルリは早足で僕の前を歩く。高校までの道のりは全て把握しているようで、歩みに迷いはない。僕が隣に行こうとしても、ルリは足を速め、前に行く。
「ルリ、話を聞いてよ」
 こうしてルリが無視し続けるのは、どう考えても、鈴山とのこと以外にありえない。
 事態の打開には、鈴山と付き合ってない、と真実を言うしかないのかもしれない。でもそれを言うと、ルリが再び鈴山とよりを戻す危険がある。
 ルリはあまりに懐が深く、許すことができる人だ。昔、ルリの持っている大きなぬいぐるみを欲しい、と駄々をこねた時――ルリがあまりにそのぬいぐるみを手に入れたことを喜んだものだから、嫉妬のあまり欲しがったのだけど――、彼女は最初は嫌がったものの、僕に譲った。
 こんな例はいくつもある。ルリは僕のことを何でも許してくれた。
 ルリは真実を知れば、僕の代わりに、鈴山を許すのかもしれない。鈴山すら許しかねないくらい、ルリは優しすぎる。そして鈴山と再び付き合うのかもしれない。
 それはすごく嫌だ。想像するだけで嫌な、背筋がぞわっとする悪夢だ。
 でも、だからって、僕はこのままルリに無視されたくない。
「ねえルリ、話をさせて」
 懇願し、僕は目の前を歩くルリの肩に手をかけた。だけど次の瞬間、ルリは無言でそれを払ったのだ。パン、と手の甲を打って。
 僕は呆然として、打たれた手を見た。ルリにこんなことをされたのは初めてだった。
 ルリは何も言わず、険しい顔でまた一人で前を進む。
「なにあれ。感じわるーい。サイアクー」
 後ろから西島が、さも僕に同情し、ルリを非難するように言った。どうでもいいことだが、西島も同じ高校を受験する。
「ああいう人と一緒の高校受験したくないなあ。ねえ、智明君。こっちの私立は併願にして、公立狙おうよ。感じ悪い人が受けない公立の高校にさ」
 出願日に何を今更。
 それに、ルリがいない高校生活なんて……。
 そう思った時に、はっとした。
 もし落ちたら、ルリと一緒の高校生活を歩めないんだ。
 ルリも僕も、この出願する私立高校が本命だ。ルリは僕より頭がいいから、きっと受かるだろう。
 このまま中学を卒業し別々の高校に通うことになったら、と思うとぞっとした。今でさえろくに会えない現状で、会えたとしてもこうして無視される。元通りの関係に戻るためには、時間と場所が必要だろう、多分。
 違う高校にでもなったら、家が近かろうが、これから一生会えない気がする。
 結局、その日ルリは僕と一言も口をきかなかった。それが、僕の焦りに拍車をかける。
 ルリと一緒の場所にいたい。ルリと一緒に話がしたい。
 その単純な願いを叶えるには、高校に合格するしかない。


 受験前日に、久しぶりに家族揃って夕食を取った。
 母さんと父さんと僕の、金原家の食卓。こんなことを思うのも何だけど、違和感を覚える。三人で一緒に食事を取ることに対して。あまりにめったにないことだから。
 受験前日の僕に、父さんが問うた。
「それで智明は、どこを受験するんだ?」
 端的に高校名を答えると、少しだけ父さんは首をかしげた。知らないらしい。そんなに有名な高校でもないし、父さんはここが地元というわけでもないから、知っているはずもない。
 あえてここで説明する気になれず、僕は油っこいカツを食べていた。
「うん。まあとにかくな、智明が自分で決めて自分で選んだ高校なら、父さんはどこでもいいと思ってる。がんばれよ」
 多分応援のつもりの、適当に感じる父さんの言葉。
 同じように適当に返しておいた。やる気がないように見えたかもしれない。実際、絶対に合格してやると思っているけれど、その内面を知らせることに意味があるとは思わなかった。僕にやる気があろうとなかろうと、父さんも母さんもどうでもいいと思っているだろうし。
 父さんも母さんも、子どもの教育に関して、自由主義を標榜している。子どもの自主性を重んじる、といえば聞こえはいいが、簡単にいえば放任してるだけのこと。
 受験する高校を決めるとき、親と相談したことはない。
 相談し、一緒に悩んだのは、ルリとだった。あれは夏休み前ぐらいだっただろうか。偏差値のランクや、制服や、場所や、いろんなデータを付き合わせて、あっちがいい、こっちがいい、と話していたのだった。
 明日僕が受験する高校は、徒歩で通える距離の、そこそこのレベルの偏差値の、制服も悪くない高校。
『絶対一緒の高校行こうね!』
 決めたとき、ルリと僕は誓い合ったのだ。いや、そもそも一緒の高校を受験することは最初から決まっていた。条件の良い男子校、女子校はあったものの、受験する高校を決める上で、選択肢に含まれていなかった。それは、最初から一緒の高校を受験し、一緒の高校に行こうと思っていたから。
 そうだ。ルリは僕と同じようにそう思ってくれていたはずなのだ。違う高校を受験するなんて、少しも選択の余地にはなかったくらいなんだから。少なくとも、そのときは。
 何がこんな状況にさせてしまったのだろう。何が悪かったのだろう。
「ともかくがんばりなさいね」
 適当な母さんの言葉。うなずいておいた。
 とにかく、今考えるべきは明日の受験。明日の試験に合格しなければ、ルリとの高校生活は訪れないのだから。それがたったひとつの道だ。
 僕は握る箸に力を入れながら、カツを食べた。


 受験当日。
 雪の降る寒い日のことだった。制服の上に黒いロングコートを着、マフラーをかけてきた。それでも猶、寒い。同じ受験生が、みな白い息を吐いて、高校校舎に呑み込まれていく。
 受験票と地図を照らし合わせながら教室に入る。机には受験番号が振られていていて、席が決まっている。受験番号は出願順に割り振られていたようで、一緒に出願した同じ中学の生徒は固まっていた。
「あ、智明君。おはよう! がんばろうね!」
 西島がにこにこと近づく。
「あっ、試験直前まで勉強したいよね。邪魔しちゃいけないね」
 西島は自分の席に帰って行った。
 他にも数人、同じ中学の同級生がいる。
 廊下側の一番後ろの席が、僕の受験番号と同じ番号が張られた席だった。
 暖房から暖かい空気が流れるのは窓側らしく、廊下側はひどく寒い。
 筆記用具と参考書を取り出す。参考書を開いて、最後の最後まで暗記しようと視線を走らせる。
 目は参考書に向けながら、左手をポケットに入れ、入れていたカイロを握った。
 ルリがやって来たのは、そのときだった。胸が高鳴りながら、一挙一動を目で追ってしまう。湧き起こる妙な興奮を抑えながら、ただ見ていた。
 ルリは制服に上着を一枚羽織っただけ、マフラーも手袋もない格好。顔だけでなく耳まで赤くなっていて、あきらかに寒そうだった。片手に単語カードを、もう一つの手に受験票を持ち、近づいてくる。
 ルリの席は、僕の前の席だった。
 一度、目が合う。
 そこにどんな感情があるのか確かめる前に、ルリはふい、と視線をそらして、席についた。
 ルリが目の前にいる。髪の毛が流れ、肩が少し動くのを見るだけでも、胸が落ち着かない。
 話しかけたかった。だけど、今は試験前。この最後の貴重な時間に、ルリだって勉強したいだろう。ぐっとこらえた。
 その日、僕は久しぶりにルリと会話をすることになる。四ヶ月十四日ぶりのことだった。

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