奪ふ男
――ジョーカー 1−5――
適当。軽薄。猿並に単純。などなど。鈴山を罵るための言葉なら無尽蔵に出てくる。
その中には、優柔不断、という言葉も含まれる。
僕が選択を迫った後、鈴山は「ちょっと時間をくれ」と言った。
鈴山が僕とルリのどちらを選択するか、それは明らかだったにもかかわらず、それでも時間を求めた。「あまりに急なことで」、とかごちゃごちゃ言ってた。
「だから、その、一週間でいいから、時間がほしい。谷岡とも……急なことだし、別れを切り出すには、その、覚悟というか、心の準備というか、そういうのが必要で」
そんなの知るか。ぐずぐずしやがって。さっさと別れろよ。それともルリにまだ未練があるって?
僕は絶対的な捕食者たる、獅子のように瞳を光らせ、鈴山を見やった。鈴山は一瞬身をすくませる。
「あの、本当に、一週間のうちに別れるから。本当だから。あんまり急に別れを切り出すと、谷岡だって納得できないだろうし、な、時間をくれ」
ルリの納得。
それは大事なことだ。
せっかくこうして別れさせるというのに、ルリ自身が鈴山に未練を残したのでは話にならない。
「一週間、ね。それで確実に別れるっていうんだね?」
もはやこの時点で、鈴山は僕の下僕同然だ。こくこくと彼はうなずいた。
目を細めて、観察するように鈴山の顔を見る。嘘をついているようには見えない。が、釘を刺しておくに越したことはないだろう。
「わかった。時間をあげよう。ただし、もし一週間で別れなければ――」
「わ、別れなければ?」
僕はにっこりと、柔和な笑顔を浮かべた。
「君は僕を手に入れるチャンスを失うことになる。その代わり、ちゃあんと言うとおりにするなら、君が望むこと、何でも、してあげるよ。何でもだよ、何でも」
彼の肩に手をかけ、耳から直接頭の中に吹き込むように、囁く。
ごくりと唾を呑み込む鈴山。僕はそれに満足し、彼の隣をすり抜けるようにして、立ち去った。
それから、鈴山はルリと距離を置き始めた。苦い思いで見ていた二人の登下校がなくなり、僕は喜びではずみ、安らぎを再び手に入れた。
一人で土手を歩いて帰ろうとしているルリに、僕は声をかけた。嬉しさをにじませながら。
対照的に、振り返ったルリはどこかしょんぼりとして、長く伸びた影が哀愁に拍車をかけ、精彩を欠いている。
「……あ、智明」
「一人だよね? 一緒に帰ろう?」
「……あ、うん……」
ルリの歩き方は、とぼとぼ、という表現がふさわしいものだった。
僕は思い切って、鈴山の話題を出してみた。その名を口に出すのも不快だが、確実に今、僕たちの間に横たわる問題なのだから。
「今日は鈴山君と一緒じゃないんだね」
「……そうなの。最近は全然一緒にいないんだ。いろいろ理由は言われるけど、避けられてる、ような気がするんだよね」
僕はかすかに笑みを深めた。
「そうなんだ。そういえば鈴山君っていえばさ、あんまり良くない噂を聞くね」
ぴくん、とルリはうつむきがちだった顔を上げた。
「噂って?」
「ルリ以外の他の奴に手を出してるんだとか」
「……嘘」
「さあ。でもルリを避けているっていうなら、信憑性があると思わない?」
噂なんて不確かなものでなく、僕自身が身をもって、鈴山のいい加減っぷりをよく知っている。
「そんな……」
ルリは口許に手をやり、肩にかけていたカバンを落としてしまった。
そのカバンに付いてしまった砂を払い、僕はルリの背を撫でた。優しく、いたわるように。
「可哀想なルリ。ね、鈴山ってそういう人間だったんだよ。ルリが付き合う価値なんてなかったんだよ。いくらでも僕が慰めてあげる。ね、鈴山なんていなくても、僕がいるんだから……」
僕はいくらだって、裏切られて辛いルリを慰めてあげよう。どんな人間であろうと、裏切られれば、一時的には怒りや辛さがあるものだろう。
でもそんなこと、本当に一時的なことだろう? 鈴山なんてどうでもいい人間なんだから。
僕はいくらでも慰める。あとはそしたら、きれいさっぱり元通り。いや、以前よりも僕たちの仲は深まるだろう。
「……ありがとう、智明」
「お礼を言われることじゃない。当然のことだよ」
僕はルリの背を撫でる手を、彼女の肩に移動させた。
「ね、忘れないでね、ルリ。僕はいつだってルリの近くにいる。それはルリが大切だからだよ。家族のように、何となく近くにいるわけじゃないんだ。近くにいたいと思っているから、近くにいるんだ。一番近い他人として、僕はいつだってルリを慰めるよ」
僕はルリを家族のように思ったことはない。父さんや母さんのような、いようがいまいが同じの『家族』と一緒じゃない。
一言でいうなら、特別なんだ。他とは比べられない、特別。
ルリは顔を上げた。表情が少しあかるくなっていた。
僕の手からカバンを受け取り、ルリは強くうなずく。
「うん……本当にありがとう。慰めようとしてくれる気持ちが、すごく、嬉しい。心に沁みるよ」
でもね、とルリは微妙に硬い表情となって、続けた。
「本当に鈴山君が……浮気、しているのか、わからないでしょ?」
「いや、確かに鈴山は……」
「それは噂だけでしょ? 本当はどうかわからない。鈴山君に話も聞かず、噂を鵜呑みにするのもどうかと思うんだ」
はっとしたように、ルリは僕に弁解した。
「智明の話を信じてないってことじゃないよ? 本人に話を聞くと、実は誤解ってことはよくあるから、確認は必要じゃない? 彼女としてね、本人に直接聞きたいっていうか」
噂どころじゃなく、本当なのに。
しかしルリはもうすぐ、それが真実だと知り、別れることになる。それはあと数日後のことだ。それくらいなら、広い心で待とう。
「……わかったよ。でもね、ルリ。本当に鈴山君がルリを裏切って、別れを切り出してきたら、僕のところに来るんだよ。いくらでも慰めてあげるんだから。ね、忘れないでね」
「なんか不吉なこと言うね。……でも、うん。もしそうだったらね」
ルリはカバンを肩にかけ直す。
それから、鈴山の話題から別の、とりとめのない話題に転換し、僕たちは二人で帰宅した。
僕は、ルリと久しぶりの二人きりの時間、二人きりの会話を楽しんだ。
胸の中に宿った、種を見なかったことにしながら。
気づいちゃいけない。芽生えさせちゃいけない。
このまま、予定通り鈴山はルリに別れを切り出すだろう。そして、僕はルリを慰める。そうすれば、僕の大切さをルリはより知ることだろう。鈴山は排除され、ルリと近づく完璧な計画。
僕のすべきことは、優しさに溢れた言葉でルリを慰めること。
そのためには、この種は芽生えちゃいけない。気づいちゃいけないことがあるんだ。
僕は裏切られるルリを可哀想だと思う。誰にだって裏切られれば、辛いものだろうから。
だけど、鈴山と別れることを可哀想だとは、微塵も思わない。あんな男と別れたって、別に構わないだろう。大体、害としかならない男なんだ。
ねえ、ルリだってそう思っているよね?
僕は今、気づきたくない部分に蓋をする。
その蓋が開いてしまうのは、種が割れて毒々しい葉が芽生えるのは、すぐのことだった。
その日はやってきた。
「金原っ!」
休み時間、クラスの違う鈴山が、息せき切って僕のクラスに現れた。
一直線に僕の元に近づくと、待っていた言葉を小声で告げる。
「谷岡と、今朝別れてきた」
僕は喜びに目を爛々と光らせる。
別れた。
別れた……!
「な、言ったとおりにしたろ。何でもする、って言ったよな……」
馴れ馴れしく鈴山は顔を近づけてきた。その目は血走り、急いている。
なんて簡単で単純な男なんだろう。こんな誘惑に弱い男、ルリにはやはりふさわしくなかったのだ、と僕は再確認した。
こんな男、ルリと僕の間から消えてくれて用済みになれば、いい顔をする理由などない。
「何のこと?」
僕は一歩引き、距離を作る。
「は? 何のことって、この前の……ほら……」
鈴山はたどたどしい言葉を使い、よくわからない手振りをする。
「知らないね。鈴山君、何か勘違いしているんじゃないかな」
僕は教科書とノートと筆記用具を手に、鈴山の横を素通りする。次の時間は移動教室だ。
「お、おい、ちょっと待てよ! 何言ってるんだよ! お前この前俺に迫ってきてただろ!?」
鈴山の大声によって、教室中でざわめきが起こった。
こんな人の多い場所で、この野郎……!
「え!? 金原君が鈴山に迫った!?」
「嘘だろ……!?」
「にしても、なんで相手が鈴山……」
誰も彼も聞き耳を立てていたのか、と思うほどに、教室中でささやきあっている。しまった、という顔をしている鈴山。
「ちょっと! 鈴山、嘘つくのやめなさいよ!」
遠巻きに見ているクラスメートたちの中で、ずかずかと西島が近づいてきた。彼女は鈴山に食ってかかった。
「そもそもあんた、谷岡さんと……」
「いや、それは、過去のことっていうか……。とにかく、金原が俺に迫ってきたのは本当だって!」
「はあ?」
西島は意味不明、とばかりに、高い声を上げる。
「一体どういうことよ?」
その疑問は、この場にいるほとんどの人の思いだったらしい。みながみな、じっとこちらを見ている。
興味本位の視線に晒される不快感は、ピークだった。
「ここじゃなんだから、別のところに行こう」
僕が鈴山に促す。鈴山も居心地悪かったのか、黙ってついてきた。
校舎の横の、人気のない花壇のあたりで、僕は足を止める。人気がなく、誰もろくに手入れをしていないのか、枯れた草花がそのままそこにある。
振り返り、開口一番こう言った。
「とにかく、迷惑だから近づくな」
もはや大抵の場合は浮かべている笑顔すらない。ああいう目立ち方は、最悪だ。あの様子では、一日で噂が学校を駆けめぐりそうだ。
「な、なんでだよ。俺、言うとおりにしたぜ? 理由を説明しろよ」
うるさい。さっさと黙って消えればいいものを。
僕は無視し、早足で去ろうとした。そこに焦った鈴山の声がかかる。
「谷岡とのことを怒ってるのか? 言っとくけど、俺は谷岡をそんなに好きってわけじゃねえんだから。谷岡が告ってきたから何となく付き合ってただけなんだからな」
僕の足が止まる。
……なんだって? ルリが、告白した? ……こいつに?
「俺としては、仕方なく付き合ったっつーか、とにかく谷岡のことは俺はもう何とも思ってないし」
ルリが。
必死で見ないふりをしていたものが、目の前に現れた。
僕には手を繋ぐことを許さなかったのに、鈴山には許したこと。鈴山にファーストキスをあげたこと。
浮気していると言っても、庇うような言葉を口にしたルリ。
僕は気づかないふりをしていた。
ルリが、僕よりも鈴山を選んだことを。それはルリ自身の意思であることを。
その理不尽さに、ふつふつとした怒りが生まれてくる。それは絶対にいけないと思っていた、ルリに対するもの。感情が全身を支配する。思わずこぶしを握りしめていた。
僕は、ルリに優しくしたかった。ただただ、いたわりたかった。
それは、ルリが鈴山のことを何とも思っていなかったら、だ。付き合ったのも、せいぜい好奇心程度の感情によるもの、もしくは鈴山に騙されたためだと思っていた。
だけど、ルリは、鈴山に告白した。それって、進んで鈴山と付き合おうと思って、それまで一緒にいた僕を捨てた、ってことだよね?
ルリは、僕を裏切り、僕を捨てたんだ。
呆然とその事実に向き合う。
僕だけを見て、僕だけと一緒にいてほしいのは、今も同じ。
鈴山と別れた今、慈愛に満ちた顔を向け、慰めるのが最良だとわかっている。優しくしたいとも思う。でも、どれだけ包み込むように大切にしたところで、ルリは僕を裏切ったんだ。僕の優しさなんて意味がなかったのか。思わず笑いそうになる。
今、僕の心に宿るのは、どろりと濁った、明確な形をなさないもの。これは何だろう。ただ言えるのは、優しさなどと呼べるものではないこと。
燃えさかるそれに、最良の選択も理性も、吹き飛んでいた。
その日の放課後、僕はルリのいる二組の教室へ向かった。僕のいる三組はホームルームが終わるのが遅れ、二組はすでにがらんとして、ルリしかいなかった。
ルリは呆然と席に座っていた。本を読んでいる様子もなく、帰りの支度をしているわけでもなく、ただ座ってうつろな目でどこかを見ていた。
ショックを受けているらしいその様子に、僕は怒りが深まるのを感じた。
別れて傷ついたなら、僕の元に来て、って言ったのに、ルリは来なかったね。とっても傷ついていそうな様子なのに。
ねえ、ルリにとって、僕は何? 僕の言葉も何もかも、ルリにとって、意味がなかった?
そしてルリのそのショックは、『鈴山に』裏切られたから?
ふと、僕の存在にルリは気づいたようだった。
僕は自分がどんな表情をしているかわからない。その僕の顔に、ルリはひるんだようだった。座っていなかったら一歩引いていたような動きをして、ルリの手からシャーペンが落ち、ころころと転がる。
……ルリは、噂を知っているのだろうか。僕と鈴山がどうとかいう噂は、一日のうちにたちまち学校中に知れ渡っていた。
ルリの顔は驚きに満ちているものの、特にそれ以上の感情は読み取れない。知らないのかもしれない。
ルリにとって僕は何だろう、と再び思った。
ただ都合のいい、優しくしてくれる男?
ああそうだった、ただの友達だったね。その冷たい言葉ひとつで、ルリは僕たちの関係を表したんだった。
僕よりも鈴山を優先して、僕のことなんて本当にちゃんと見てくれなくて。
それでも、どうして誰より求めてしまうんだろう。その目が僕だけを見て欲しいと思ってしまうんだろう。
頭の中がごちゃごちゃとしている。ねえ、お願いだから、鈴山のことなんて忘れて。胸のうちにある感情を抑え、僕は許すから。だからこれから言う嘘を、ルリも許して。
僕はひたとルリを見据えた。
「鈴山君は、僕と付き合うことになったんだ」
ルリは大きく目を見開き、口許をわななかせた。
鈴山とのことを完全に断ち切らせるため、僕はそう言った。
僕が鈴山のことを何とも思っていない、鈴山が一方通行に思っているだけ、なんて馬鹿正直に告げれば、ルリはもしかしたら鈴山に希望を持つかもしれない。
どうせ僕が否定しようと、噂は広まっている。いずれルリは知るんだ。
お願いだから、鈴山のことを一切断ち切って。
ルリは、今までずっと僕を許してきた。どんな時も、どんな言葉にも。
もう仕方ないなあ、と頬をゆるませてくれたのだった。
どんなに大喧嘩をしようとも、次の日には、けろっといつものとおりだ。
押し倒して、拒絶された時だって、次の日のルリに気にした様子はなかった。普段通りに会話を交わし、いつも通り、仲良くやれていた。
僕はもう、鈴山のことを考えるだけでうんざりしていた。これで奴のことは僕たちの間に横たわらないのだ、断ち切れたのだ、と思うと、爽やかな気持ちにさえなれる。
そして、いつもの通り、ルリは僕を許してくれて、二人の日々が再び始まるのだと、思っていた。
次の日の朝。いつもどおり、スズメが電柱の上で鳴いている。
僕が家を出て鍵を閉めると、家の前をちょうど同じように登校しようというルリが通りかかっていた。
僕は笑顔で挨拶した。いつもの通りに。
「おはよう、ルリ」
当然、同じような挨拶が返ってくるものだと思っていた。
だけどルリは得体の知れないものを見るような顔をして、何も言わず、紺のスカートをひるがえして走り去ってしまった。
結局のところ、ルリが何でも許してくれるなんて、僕の驕りだった。
その日、学校に行って、ルリのいる二組に行ってみても、ルリに会えなかった。休み時間、昼休み、放課後、全て。
ルリは、僕を避けていた。