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奪ふ男

――ジョーカー 1−3――


 僕はやっぱり信じられなかった。僕が想うように、ルリも想ってくれているはずだ、と信じていた。
 祈るような気持ちで、行為に及ぼうとした。僕が野球部のボールに当たって、保健室のベッドにいるときだった。
 でも、ルリは拒否した。そういう冗談は嫌いと言った。
 挙句、いつも二人で下校するのが習慣だったのに、ルリはひとりで帰ってしまった。
 絶望的な気分だった。ルリが消えてから、アメにむらがる蟻のように人々が群がってきたけれど、彼らのどんな言葉だって、僕の気持ちを浮上させなかった。適当にあいづちを打っていたら、いつの間にか、彼らと帰宅することになってしまった。
 
 ぐるぐると考えた末、僕とルリは離れるしかない、と数日後にようやく結論が出た。
 しかし、何の関係もなくなってしまうことまでは勇気が出ない……と言うより、耐えられない。
 登下校を別々にするくらいまでなら、と断腸の思いで決めた。
 少し離れて、ルリに僕を意識してもらわなくてはならない。
 秋めいてきたある日のホームルーム後。僕は震える喉を叱咤し、穏やかに言ってみた。
「これからは、登下校、一緒にしなくてもいいんじゃないかな」
 一緒に帰ろうと教室の前で待っていたルリは、きょとんとした。そして目をぱちぱちと瞬きさせる。瞬きは何度も繰り返された。そして次第に視線を下げながら、ルリは、「そっか」と言った。「そっか、そうだよね、うん、やっぱり」とうつむきながらルリはつぶやく。
 それから顔を上げたルリは、微笑を浮かべていた。何かが吹っ切れたような、さっぱりした顔だった。
「うん、そうだね。もう私たちも中三なんだし、いくら幼なじみだって言っても、一緒に登下校するのは子どもっぽかったもんね。むしろ、やめるのが遅かったくらいじゃない?」
 明るい、声。何てことなさそうな……。
 本当は、僕はルリに、嫌だ、と言ってもらいたかった。だけどそんな気配は微塵も感じなかった。
 じゃあね、と言って、ルリは軽い足取りで帰っていく。
 ……今更呼び止めて、一緒に帰ろう、とは言えなかった。
 
 ひとりで帰る道。沈黙の道。隣にルリがいない道。
 小学生がキャッチボールをしている土手も、車の通りが多い道路も、大きな橋も、今まではルリと一緒に通っていた。
 心の中でつぶやく。
 これは必要なことなんだ。離れなければいけないんだ。今だけだ。今だけ。
 土手に陽射しを遮るものはなく、僕の影は前に長く伸びている。
 チリンチリン、と鳴らす自転車が前から来た。今までだったら二人並んでいたから、自転車が来ればどちらかが――大抵は僕が、ルリを守るようにして避けた。
 けれど今はひとり。自転車は簡単に僕の隣を通り過ぎる。
 今だけだ。今だけ。今後の僕たちのために、必要なことなんだ。
 言い聞かせるようにして、僕はのろのろと家路をたどった。
 
 
 一週間も過ぎて、そろそろ僕は苛立ち始めた。だって、ルリは何の変わりもないから。僕のようにイライラすることなく、戸惑うこともなく、普通にしていたから。……寂しいとか、やっぱり嫌だとか、あるだろうに。
 僕が物憂げに靴箱で靴を履き替え、帰ろうとしていたとき、ぽんと後ろから肩を叩かれた。ルリか、と思って、笑顔で振り向いた。
「智明君、今帰りなの? 一緒に帰らない?」
「……西島さん」
 心中としては、あからさまにがっかりした。だけど表に出すことはなく、そのまま笑顔でいた。他の人間に絶えず笑顔を向けるのは、感情云々ではなく、もはや習慣だ。
「やだ、ひとみって下の名前で呼んでいいよお」
 覚えるのが面倒だから、下の名前を記憶するつもりも呼ぶつもりもない。
 西島はルリに食ってかかってきていたときのような鬼の形相から一変して、いつものあかるい猫のような笑みを浮かべていた。けどあの顔を見た後だと、どうにも嘘くさく感じる。
「ごめんね。一人で帰りたい気分なんだ」
「そんな、一緒に帰った方が楽しいよ」
 ルリと一緒なら、だ。他の奴が一緒でも、楽しいわけがない。
 ごめんね、と再び言おうとして、やめた。
 彼女に少し追及したいことがあった。
「……ねえ、ルリと喧嘩してたことあったよね、西島さん」
「え……?」
「大喧嘩して、ルリにわけのわからないことを言ってたけど、どういう意味? 僕に関係あるっぽかったけどさ」
 西島は視線を宙に浮かせ、考えるそぶりを見せた。
「え、ちょっと何のことか……」
「とぼけるの?」
 僕が笑みを消して見据えると、西島は大きく手を振って早口で否定する。
「とぼけてるんじゃないよ。確かに……谷岡さんとは喧嘩っぽいことはしたことあったけど、あれは本気の喧嘩じゃなくてさ、うん、友達同士のスキンシップ? 智明君の言うような、大喧嘩なんて。ふざけあっていただけっていうか」
「ふざける……? 僕は、ルリと西島さんが友達っていうのを初めて知ったよ」
「ええ、谷岡さん言ってないんだあ。それともあたしが勝手に谷岡さんのことを友達だと思ってるだけで、谷岡さんはそう思ってくれないのかなあ。ちょっとショック〜」
 西島は傷ついたように胸を押さえた。
「友達だからキツイことも言い合えるっていうか、智明君が心配することないから」
「僕のことが話題になっていたようだけど?」
「そもそも智明君はあたし達のどんな話を聞いたの?」
「……僕がルリのことを疎んじているだとか、僕が君を女として見てるだとか、わけのわからないことを言ってた」
 ためらいつつ、口に出す。本当は言いたくなかった。詳しく思い出そうとすれば、それはルリの問題の発言をよみがえらせることになるから。
「ああ、あれね」
 西島がほっとしたかのように見えた。気のせいか?
「うんあれは……仮定の話だよ。もしそうだったら谷岡さんはどうするの、って聞いてたの。なんだかヒートアップしちゃって喧嘩しているように見えちゃったかもね。気にしないで、本当に、友達同士のふざけ合いなんだから」
 何やらごまかされている気がする。本当にあれがふざけあい? 喧嘩じゃなかった? あれが友達に向ける顔?
 でも、次に焦ったように口にした西島の爆弾発言は、もっと大きな問題を僕に突きつけ、もやもやと抱いていた彼女への疑問を忘れるほどのものだった。
「谷岡さんっていえば、最近一組の鈴山君と付き合い始めたんだってね」
 僕の中の時が止まった。
 ――は?
 なにそれ……。


 僕は帰るのをやめ、教室の方へと戻り、ルリのいるはずの二組に向かった。西島が引き止めようとしていたが、無視した。どうでもよかった。一番大事なことは、ルリに話を訊くこと。
 二組に走って行くと、教室に残っていた数人は掃除用具を片付けているところだった。掃除を終えたところのようだ。
「――ルリは!?」
「え、金原君? うそやだ、え」
 きゃあきゃあ言い合う女子。苛立ちを抑えることなく、もう一度問う。
「ルリは!?」
「ルリ……谷岡さん? 谷岡さんなら、同じ今日の掃除当番だったよ。ついさっき帰ったばかりで……あ、金原君?」
 それさえ聞けば用はない。僕は再び靴箱のある玄関へと、周囲を見渡しながら向かった。東校舎には二つの主な階段がある。僕が登ってきたのは北の階段。そこではルリは見かけなかった。つまり、ルリは南の階段を使っていることになる。
 僕は南の階段を駆け降り、二階にいるルリの後ろ姿を見つけた。肩ほどまでの黒い髪。学則通りのスカートの丈。そんな女はいくらでもいるけれど、僕がルリを見間違うはずがない。
「ルリ!」
 階段から下りながら呼びかけると、驚いた顔をして振り返ったのは、やっぱりルリだ。
「誰かと付き合うって、本当!?」
 ルリは周囲を見回す。まだ学校には残っている生徒がいて、僕たちの見える範囲にも何人かいた。彼らは興味深そうに見てきたけれど、知ったことか。
「ちょっと、大声でそんなこと……どこかの教室に入ろう」
 ルリは気にしたようだった。すぐ隣にあった、どこかの教室に入る。すでにそこは誰もなく、電気も消されていた。でも窓にはカーテンはかかってなくて、西日が差し込み、暗くない。
「付き合っているって……私と、鈴山君のこと?」
 小さな声で、ルリは僕に問いただす。西島の言葉を思い出すと、相手の名前は確かそうだった。こくりとうなずく。
 ルリは少し眉根を寄せた。
「鈴山君がしゃべったのかな……あんまり広まってほしくないけど」
 ひとつ小さくため息をついて、ルリは言った。
「うん、そうだよ。鈴山君と付き合うことにしたんだ」
 こともなげに。
「付き合い始めたのは、三日前からなんだ。智明と一緒に帰るのをやめて、ちょうど家が一緒の方向だった鈴山君と帰り始めたのが縁で。男子と女子で分かれてるとはいえ、同じ水泳部だったから、話もする方だったしね」
 こともなげに、ルリはすらすらと僕に説明した。信じられないことを、その口から。
 目の前が暗くなる。このまま倒れて、全てを悪い夢の中のことにしたいくらいだ。
 眩暈がした。喉がひくついた。次の瞬間、感情のままに言葉を口にしていた。
「……れろよ」
「えっ?」
「別れろよ!!」
 かっとなって叫んでいた。ルリの顔のすぐ隣にある壁に手をつく。その音にルリがびくりとしたのは一瞬。ルリの顔に、いろんな感情が走ったように見えたのも、その一瞬だけ。驚き、甘やかな悦び、次いで打ち消すように自嘲気味の苦い諦め。
 鈍い色の瞳で、ルリはぼんやりと僕の顔を見て、首をかしげた。
「どうして?」
 どうして――どうしてだって?
「理由も何もないだろ! とにかく、別れろよ!」
 そのときの僕は、ただただ感情に突き動かされて口を動かしているにすぎなかった。なぜ、別れて欲しいのか。そんな答えはしばらくしたら簡単に出てくるけれど、そのときの僕は、うまく口にできなかった。別れて欲しいから、別れろと言っている。それぐらいの、反射的なことしかできなかった。想像もできなかった事態に、そんな単純なことしか言えなかった。
 僕の答えに失望したのか、ルリは諦めたように首を振る。
「確かに私は鈴山君のことをよく知ってるとは言えないし、彼氏としていい人なのか悪い人かも知らない――そんな何も知らない状態で付き合うなんて軽すぎるとは思うけど――、でも、智明には関係ないことじゃない。私のことだよ。私の自由でしょ」
 どこか投げやりながら、譲るつもりのないルリの芯の強さが露わになる。踏み込むな、という。そして踏み込んだとしても変えるつもりはない、という強さ。
「私は智明にこういうことを口出ししたことなかったよ。私が嫌だと思っている人が智明の近くにいたって、私は何も言わなかった」
「な、誰だよ。言えば――」
 ルリが嫌がった人間が近くにいたというなら、ルリの望むようにした。そんなこと、言ってくれればすぐに――。
「私にとっては苦手でも、智明にはその人の良いところが見えたから一緒にいて仲良くしたんでしょ。私が文句を言うことじゃないよ」
 良いところが見えたとか見えないとか、そんなこと考えて他の奴らと一緒にいたんじゃない。ルリがいない間の、適当なものだったのに。
「親しき仲にも礼儀ありだよ。私たちはただの友達でしょ。鈴山君と智明が付き合っているならともかく、付き合っているのは私だよ。智明に何言われたって、別れるつもりはないよ」
 僕に向けられたルリの言葉は、胸を突き刺す杭だった。壁に伸ばしていた手を離す。
 ただの友達……なんて冷淡な響きだろう。僕たちの関係は、そんな言葉で片付けられるような、薄く軽いものだったのか。少なくとも、ルリはそう思ってたのか。
 僕のショックを感じ取ったのか、ルリはすまなさそうにしながら、小さく笑った。
「ちょっと冷たく言い過ぎたかな。智明のワガママはかわいいけど、子どもっぽいところは直していかなきゃだめだよ。来年は高校生になるんだし。それぞれ自分の世界ができあがっていくんだから」
 ルリは左手に巻かれたかわいい腕時計を見た。
「あ、もう時間。これから鈴山君と帰るんだ。じゃあね、智明」
 ルリはカバンを肩にかつぎ直し、教室を出て行った。

 ……なんだ、これ。
 僕は呆然としていた。この信じられない事態に。
 一週間前まで、ルリには確かに僕より近しい人はいなかった。それが、たかが一週間離れただけで、他の奴のものになる? 近すぎて恋愛感情抱けないとかルリが言ったから、僕は内臓がえぐられるような気持ちで離れたっていうのに、その隙をつかれた……!?
 何でだよ、何が悪かったっていうんだよ……!
 ルリの笑い声が聞こえて、反射的にそちらに顔を向けた。
 彼女は窓の外、校門に向かって歩いていた。隣に、男を連れて。
 そういえばさっき、鈴山と帰るとか言ってたな。じゃあ、あれが、鈴山。
 鈴山という男は、僕よりも背が高そうだった。筋肉質で、髪を刈り上げていて、見るからに体育会系だ。
 鈴山は何か面白いことを言っているのだろうか、ルリは絶え間なく笑って、軽く奴の腕を叩いてさえいる。
 二人は並んで、しばらく顔を見合わせる。ふいにルリはうつむく。右手に目を落としている。その右手を、奴の左手と繋げた。
 鈴山は振りはらうことなく、強く握りしめ、挙句の果てにルリを引き寄せる。
 二人は手を繋いで、そのまま校門を出て行った。
 ……僕はただ見ていた。その呆然とせざるを得ない現場を。
 十五年、僕とルリは一緒だった。それが、たかが一週間離れただけで、ルリは別の男のところに行った。一緒に登下校した。手を繋いだ。それ以上のことも……?
 かっとなって、衝動的に、側にあった机を椅子と共に蹴り倒した。横になった机を見下ろし、唇を噛みしめる。己の選択の間違いと、どうすることもできない現状を呪った。


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