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奪ふ男

――ジョーカー 1−2――


 中学最後の夏休みが訪れた。
 僕たちは去年、一昨年のように、二人で勉強し、二人で遊んだ。
 ルリは水泳部でよく泳ぎ、こんがりと日焼けした。僕は何度もルリの泳ぐ姿を見る。トビウオのように跳ね、水に飛び込む姿も、静かで優雅に泳ぐ姿も。
 だけど僕はルリが泳ぐのを見るのは好きではない。僕がプール脇で見ていても、ルリはただまっすぐ前だけを見ている。僕なんていないかのように、ちらりとも目を向けない。
 一度、二人で海に行った。電車で二時間の場所にある海は、その近辺の海水浴スポットとして、僕たちと同じような人たちが多く集まっていた。
 砂浜近くではしゃいでいるだけの人が多い中、ルリは遠くまで本気で泳いでいた。水泳部で泳いでいるときのように、ただ黙々と泳ぐ。
 学校で着るのと同じスクール水着を着ていたのを見たときから、遊びより泳ぐことが目的だということはわかっていたけど、どうにも苦笑してしまう。かわいい水着を着た姿にも期待していたし。
 昼食にと、屋台でルリと僕の分のフランクフルトを買ったものの、当のルリは沖の方へと泳いでいた。戻ってきたのは、大分経ってから。
「ルリって、泳ぐのが好きだねえ」
 少し冷めたフランクフルトを渡しながら、僕は呆れを混ぜた感嘆を示す。
「好きって、いうのかな。泳いでいると、何も考えなくてすむんだよね」
「現実逃避みたいなもの? じゃあ、今日は一緒に来た僕のことを考えたくなかったんだ?」
 いたずらめかして言うと、ルリは僕の肩を軽く叩いて、
「そんなわけないでしょ。勝手に泳いじゃってごめん。食べたら一緒に遊ぼ?」
 と笑う。濡れた髪が、日の光に輝いていた。
 それから。波打ち際で、僕たちははしゃぎ、かけあいっこをして遊び、たわむれた。
 楽しかった。ただただ楽しかった。
 それでもなお、僕はルリが泳ぐのを見るのは嫌いだ。
 その無駄のない美しい体付きも、泳ぐ様も、見惚れるようなものであるのが十分わかるから、他の人が見る場所で泳いでほしくなかった。
 他の人間がルリを見ているのが不快だった。僕だけが見ていたい。僕の腕の中にいて、全てを僕だけの自由にさせてほしい。
 僕はずっと以前から、ルリに対する自分の感情がよくわかっていた。言葉にすることはないけれど、する必要はないだろう。ルリだって同じ気持ちのはずだから。
「こんな日が続けばいいのにね」
 ルリがとても残念そうに言った。いつの間にか、日が暮れ始めていた。他の客も帰り支度をしている。
「夏休みが終わらなきゃいいのに」
 夕暮れが近づく海は、赤みを帯びてきている。
「うん。そうだね」
 深くそう思う。
 学校が始まれば、また人が集まってくる。
 ルリと二人だけの時間、二人だけの空間がもっともっとほしかった。
 でも願いとは逆に、学校が始まればクラスは別で、腹立たしいくらいに他の人たちは僕たちの間に入り込む。
 そのときルリもまた、新学期のことを考えたのか、憂鬱そうな顔をして遠くの海を見ていた。



 中学最後の新学期が始まり。やはり、僕たちは夏休みのように、二人だけの時間、二人だけの空間は、多くは持てなかった。
 それでもなるべく多くその時間と空間がほしくて焦りながら、水泳部の部活動のない日の放課後、ルリのいる三組に向かった。
 けれど、不思議なことに、ルリはそこにいなかった。
 誰かに呼び出され、食堂横の自動販売機が並んでいる場所に行ったのだとか。
 このまま三組の前で待っていてもルリは帰ってくるだろうけれど、僕はそこに向かった。誰が呼び出したのかは知らないが、そいつなんて追い払い、二人だけの時間がほしかった。
 走ってそこへ向かうと、怒声が響いた。思わず足を止めた。
「ウザいってこと、わかんないわけ!? いい加減、消えてよ!」
 女の声だった。しかも、聞き覚えのある声だ。
 壁から少し顔を出し、見てみる。
 目と眉をつり上げ、鬼のように醜い形相をしている女。普段と違いすぎて驚くが、あれはクラスメートの西島だった。関わらないクラスメートなら覚えきれていないが、僕によく近づく女のため、他の人よりは何とか記憶している。背の高く、気取ったように歩く女だ。
 その鬼神のような西島が怒鳴っている相手が、後ろ姿のルリだった。
 ルリは静かに立っていた。顔は見えない。
「よくも平気でいられるわね! ほんっと図太いね!」
 西島は怒鳴り続ける。
 ――イジメ? ルリを虐めている?
 僕はルリを庇おうと、出ようとした。
「なんで西島さんの言う通りにしないといけないんですか!」
 ルリが負けじと反論した。
 僕は唖然として、再び足が止まった。ルリは人と人が争っていたなら、その間に入り、諍いをなだめるような人間だ。喧嘩なんて買わないし、売らない。文句を言われても、それがどんなに理不尽な文句でも、自分の中に溜め、反論することなんてめったにない。
 そのめったにないことが、今あった。
「私が智明と一緒にいて、何が悪いんですか! 友達が一緒にいてどこが悪いんですか!」
 ……僕? 何、僕のこと?
「友達。ばっかじゃないの? はっきり言いなさいよ、智明君のことが好きで、つきまとってるって! 智明君は嫌がってるよ!」
 西島が、わけのわからないことを言い出した。
「智明は嫌がってるように見えません。西島さんの思いこみでしょ。だったら智明に訊けばいいでしょ、私のことを嫌がってるのか、って。うなずいたなら、私は消えるよ。でもそんなことないよ。友達だもん、嫌がってないってことぐらい、わかるよ」
 ルリの言うとおりだ。誰が嫌がっているものか。
「西島さんの方はどうなのよ。別に智明の恋人ってわけでもないようじゃない」
「でも、ただの友達のあんたより、女としては見てもらってるんだから」
 西島は鼻で笑い、胸を張って言った。ルリは言葉を詰まらせた。
 わけがわからない。なんで西島はあそこまで自信満々に、立場が上であるかのように、ルリに向かってるんだ? 別にあいつを女として見た覚えなんてない。どうでもいい周囲の取り巻きが、なんであそこまでルリに胸を張るんだ。
 西島は笑いながら、挑発するようにルリに近づく。
「谷岡さんは、ばっかみたいに、友達から恋人に格上げされるのを待ってるんだ。いつか女として見られる日が来るのを待ってるんだ。自分があの智明君にふさわしいとか思っちゃって、夢見てるんだ。そんな日は来ないのにね、笑っちゃうよ」
 だからお前は、何を根拠にそんなことを――。
「違う!」
 ルリは大声で、裂くような鋭い声で否定した。
 後ろから見たルリの肩は上下に大きく動き、震えていた。
 ルリは声を上ずらせていた。
「わ、私は、智明の友達で――それ以上のことなんて、望んでない……!」
「嘘ばっかり」
 またも西島は鼻で笑う。
「智明のことなんて恋愛感情を持って見たことなんて、一度もない! ずっと一緒にいすぎたから、そんな目で見れないの! もう私たちは家族も同然で、恋人になるとか、あり得ない!」
「…………」
「でも、西島さんたちより、ずっと智明とは繋がりを持ってる。そんな刹那的な汚い関係より、ずっと精神的に強い繋がりを持った友達だもの、私と智明は」
 ルリは声を震わせていた。
「…………。ふーん、別にそれならいいけど」
 西島はどこか皮肉気味にかすかに笑いながら、僕のいる方向とは別方向に、去っていった。

 僕は、呆然と、していた。ただその場から立ち去り、人気のない階段横で、座り込んだ。影が濃く差している、薄暗い場所だった。
 走ってきたせいで、僕は息が荒かった。息を整えようとしながら、今聞いたばかるのことを思い返す。
 わけのわからないことだらけの言い争いだった。
 だけど、大事なことが、ひとつあった。
 ルリが僕のことを、恋愛感情を抱けない、そんな目で見れない、家族も同然で、恋人になるのはあり得ない、と言ったこと。
 確かに聞いた。大声でルリが叫んでいるのを聞いた。聞き間違いではあり得ない。
 僕は混乱していた。パニック状態になった。
 どうしてどうしてどうして!?
 僕はそんなのじゃ満足できないのに。もっともっと近づきたいのに。ルリの一番近くにいたいのに。ルリの一番近くに僕がいてほしいのに。
 ルリは、僕と同じ気持ちであるはずだった。その前提が覆されたことは、世界が反転するのと同じことだ。嘘だ嘘だ、と思う。だけどルリの言葉が耳から離れない。心の中で否定しても、ルリの言葉は変わらない。ルリが僕に恋愛感情を持てない、ということに変わりがない。
『ずっと一緒にいすぎたから』
 ルリの言葉が、僕の頭の中で響き渡る。
 もうちょっと、離れるべきだった……?
 だって離れることなんて我慢できなかった。クラスが違うだけで腹が立って、授業中だって隣のクラスにいるルリのことを考えていた。離れることなんて、考えてもいなかった。
 だって――そんな――僕は――

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