奪ふ男
――ジョーカー 序章――
ルリは言ったことがある。僕がトランプのジョーカーみたいだ、って。
* * *
ルリが泣いている。
気づくと僕はベッドで寝ていた。白い部屋だ。少し固めのベッドに寝かせられている。
ぼんやりとした意識が状況を把握し始めた。ここはどこかの病院の病室らしい。隣にルリが座っている。
……確か、部屋にいて……睡眠薬を飲んで、遺書を書いて……。
そうだ、死ぬつもりだった。それが今病院で寝かせられているということは……。
僕は生きてるんだ……。
失望も歓喜もなかった。何もなかった。
三途の川を渡りかけたのだから、何かしらあるものだと思っていたが、特にない。自殺しようとする前の激情が収まったにすぎない。……こんなものか。
腹の中に違和感があって、顔をしかめる。医者にどんな処置をされたのかは知らないが、腹部中央……胃の辺りが妙な感じだ。
僕は目覚めてからいろいろと考えながら、ずっと天井を見ていた。
小さな泣き声を聞いて、初めて感情を覚える。
驚きだ。
ルリが泣いていた。ベッドの隣に置いてある丸い椅子に座り、しゃくり上げている。
『死んじゃえばいい』って否定したのはルリなのに。
悲しんでる? 僕が死ななくてよかった?
ルリは僕の身体にすがりつくようにつっぷし、同じ言葉を繰り返した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
その言葉を聞きながら、僕は遠い記憶を脳裏によみがえらせていた。
* *
僕とルリはいつも一緒だった。出会いなんて覚えていない。生まれたときから一緒も同然だ。
春も夏も秋も冬もいつだって。
僕の人生はルリとの人生であり、離れることなく隣にいた。共に公園でブランコをこいだり砂遊びをしたりした。共に夏休みを過ごし、自由研究をし、宿題を向かい合ってした。一緒にお風呂に入り寝たこともあった。
思い出は数えきれない。昔を振り返るということはルリとの思い出を振り返ると同義だった。
僕の父さんはテレビ局のプロデューサー。母さんはインテリアデザイナー。どちらも忙しくて、僕は小さい頃から家でよくひとりにされていた。近所のよしみで、ルリのお母さんのところに預けられることが頻繁にあった。
その分、同い年のルリと一緒にいる時間は増えた。スタイリッシュな三階建ての我が家より、日本家屋のルリの家に泊まることは普通だった。ルリの家の方が、家庭のぬくもりを感じさせてくれた。
それでも、寂しくなかった、と言えば嘘だ。
ルリの家で隣り合って寝ているとき、泣いてしまったことがある。幼稚園ぐらいのことだった。
僕の泣き声に起きたのか、僕の頭をルリは撫でて、
「るりこがずっといっしょにいてあげるからね」
と言ってくれた。彼女の胸の音はさざ波のように穏やかで、温かかった。人間のぬくもりというものを考えるとき、ルリのぬくもりを思い出す。
一緒に手を繋いで歩くことも、ごく当たり前のことだった。中学くらいになるとルリが嫌がったけど、幼稚園時分に普通だったのは確かだ。
幼稚園児であったあの頃、二人で手を繋いで歩いていたとき、大人がルリにぶつかった。
ルリは転び、手を繋いでいた僕も倒れた。
ルリはかすり傷程度だった。けど、目の前に四角いコンクリートブロックがあった僕の方は、頭から血を流す結果となった。
すぐに病院へ行って傷は残らず簡単に治った。だけど、ルリは病院で泣きわめき、何度も謝った。
「ごめんねごめんねごめんね……」
と。
悪いのは幼稚園児にぶつかった大人だ。でもルリは何度も謝った。
悪くはなくても、責任を感じたのだろう。僕が大切で心配したからだろう。ぼろぼろと涙をこぼすルリ。かわいい顔が台無しだ。
僕はそんなルリに、
「だいじょうぶ。ぼく、もういたくないから、きにしないで」
と言って微笑んだ。
ルリのくしゃくしゃの顔がぱあっと笑顔になる。
本当は打った場所が痛くて痛くてしょうがなかったけど、我慢していた。
ルリに責任を感じ、泣いていてほしくなかった。
花のように笑っていてほしかったから。
思えばそのときが、一番よかった。