奪ふ男
――ジョーカー 1−1――
小学生にもなると、人が群がり始めた。
幼稚園のときだって、かわいい子ね、と大人に頭をなでられることは多かったから、同級生、下級生、上級生の親愛も普通に受け入れた。
僕は人に好かれる。『魅了する』という言葉を覚えるのは先のことだ。僕のちょっとしたことで周囲の人間を一喜一憂させるのは面白い。ほんの少し笑いかけたくらいで大騒ぎになる。
それでもルリは別格だ。
ルリは他のやつらとは違う。僕にやさしくしてくれるのは同じだけど、媚を売ろうとはしない。それでも他のやつらが何人もいるよりも、ルリ一人が一緒にいた方が嬉しい。
すでに隣にいることが自然になっている人だった。ルリも同じだっただろう。
僕が群がる人の相手をしてやっている間に、ルリは他のクラスメイトと話すことがあったけど、それでも僕が「ルリ」と名を呼べばすぐに来る。逆もまた同じ。ルリが「智明」と呼べば、僕はすぐにルリの側に行った。
ルリにとって僕は最優先の人でもあって、それが自尊心をくすぐるのだ。
「智明ってすごく人気者だね。何をやったの?」
不思議そうに尋ねられたことがあった。僕は肩をすくめる。
「普通に笑いかけたりしただけだよ」
僕にとってはその程度のことだ。笑うだけじゃなくて思わせぶりな行動もするけれど、簡単なことばかりだ。
人が常に群れてくることも、その人たちが競うように媚を売って僕と仲良くしようとすることも、僕にとっては当たり前なことだ。それはこの当時からも変わらない。
ただ面白くないこともある。
小学生は遊ぶ時間が多く、いつもルリと遊ぶ。楽しくて楽しくてたまらない。
だけど、二人で遊んでいるところに他の人がやってきて、一緒に遊ぼうと言うのだ。そういう人たちは僕に媚を売るために来ている。
ルリは一緒に遊んでもいいと言うけれど、僕はむっとする。
僕はルリと遊びたいのだ。ルリと二人だけで遊びたいのだ。他の人に邪魔してほしくない。
そういう邪魔は、遊んでいるときだけでなく話しているとき、下校のときも起こってくる。
何度断っても違う人が同じことを言う。僕に群がる人はたくさんいるから、いつまでたっても終わらない。怒りながら困って、結局ルリとの時間以外でそこそこに相手をしてやるしかないとわかった。
そういう面倒さはあったけれど、僕に好かれようと努力している人たちに囲まれることは嫌ではなかった。だってもはや好き嫌いの問題ではないから。それは僕にとっては本当に自然で当たり前の状況だから。
中学になると、状況が微妙に変わり始めた。
ルリは次第に僕を呼ばなくなった。
「智明が呼ぶからいいじゃない」
とルリは言ったけれど、確実にルリは遠慮し始めた。
僕が他の人たちと話していたりするとき、ルリはすぐ近くまで来ても、そのまま背を向けてしまうことがあった。
「だって智明が他の人と楽しく話しているのをわざわざ止めるほどの話じゃないし……」
どうして遠慮するんだよ。
僕はルリに呼ばれたら、他のやつらなんて置いて、最優先でルリのところに行くのに。どんなくだらない話だって、ルリの話を聞きたがるのに。
不満があったけど、まだそれでもそのときはよかった。明確な変化が起こったのは、中三の頃だ。
中三の夏。
僕とルリは帰り道、道草を食っていた。いつもというわけじゃない。僕は集団行動が嫌いだから帰宅部だけど、ルリは水泳部で特に夏は泳ぎっぱなし。帰るのは遅くなるから、寄り道できない。
その日は、顧問の先生が休みということで、急遽部活が中止になったそうだ。
ゲームセンターに行って十分遊んだ後、喉が渇いたからと、喫茶店に入った。駅前の家電量販店の八階にある喫茶店。ルリ曰く、ケーキが美味しいと評判の店で、一度来てみたかったという。
僕たちは共に夏用の学生服。教師に見つかったら寄り道をしていたと怒られるかもしれないけど、似たような制服姿の学生で店は溢れているし、多分ばれないだろう。
僕はケーキを遠慮してアイスティーだけ頼み、ルリが美味しそうに木苺のタルトを食べているのを眺める。おいしさに身もだえて幸せそうなルリを見ているだけで、僕は満足してお腹いっぱいになりそうだ。笑顔がかわいい。
「おいしい?」
こくこくとルリはうなずく。
「智明も食べる?」
「僕はいいよ」
「生クリームの部分以外なら、木苺が酸っぱくてあんまり甘くないよ? タルトの生地もサクサクしておいしいし。ほら」
ルリは半分食べかけのタルトの皿を、フォークごと僕の方へ差し出す。
言葉に甘えて一口、とフォークに手を伸ばしかけたところで、ひとつ良いことを思いついた。
「僕に食べさせてよ」
「え?」
「ルリが僕に、あーん、って食べさせて」
絶句するルリに対し、僕は微笑んで、「ほら早く」と促した。
「そっ、そんな恥ずかしいこと……人が見るよ……」
「他の人なんかこっちを見ないよ」
「今だって智明の方、たくさんの人が見てるじゃない」
確かに、視線を感じている。いつも通りのことだから、あまり気にしていなかったけど。
きょろきょろと、まるで犯罪者のようにルリは周囲を見回している。
周囲の人間なんて気にする価値もないのに。
仕方ない。
僕は身を乗り出した。
「ほら、これだけ近くなればすぐに終わるし、していることは見られにくいでしょ?」
「そこまでしなくても、自分で食べれば……」
「僕は今、ルリに食べさせてもらいたいの」
強く言った。どうしても諦めるつもりはない、という意思をにじませて。
はあ、とルリはため息をつく。
まるでスパイが計画を遂行する間際のようにルリは周囲を見回し、小さく切って乗せたタルトの一部分をフォークの上に乗せ、さっと僕の口に運んだ。
木苺の甘酸っぱい味が口に広がった。
「うん。ルリが言った通り、おいしいね」
ルリはとても恥ずかしそうに小さくなって、タルトを黙々と食べる。僕の口に運んだフォークを使って。
あ、これって間接キスだ。
ルリは気づいていないようだ。今までだってこういうことは多かったから、あえて意識することでもないけど。
アイスティーを飲みながら彼女が食べるのを見ていた。そのときちょうど、彼女の唇の端に白い生クリームが付いた。なんだか子どもっぽいな、とほほえましく思って僕は少し笑った。
僕は思わず手を伸ばし、彼女のあごに手をかけていた。
「な、何?」
「動かないで」
あごにかけた手の親指で、そのまま生クリームをぬぐう。
その親指についた白いクリームを舌で舐め取った。丹念に全てを、ちょっと音をたてながら。
ああ、甘い。
「…………」
ルリがその僕の行為を凝視していた。頬を紅潮させ、困惑気味の顔。
僕が上目遣いで見ると、ルリは視線を逸らす。目を背けたまま、ルリは言った。
「智明って、そういう……恥ずかしいこと平気でできるよね」
「恥ずかしい?」
心外だ。僕はこれでも多少は人目を気にしている。
口移しで食べさせてもらうのではなく、あーん、と食べさせてもらうことを選択したくらいの常識はわきまえている。
逆に、ルリが周囲を気にしすぎているように思える。他の人間がどう思うかなんてどうでもいいことじゃないか。どこで何をやろうが、他の人なんて関係ない。
彼女はうつむいて、暗い表情だった。打ちひしがれているかのような悲愴感も存在していた。
ここ最近、よく見る表情だった。そのたびに、何かあったのか、と訊いても、答えは返ってこない。理由がわからない落ち込んだ顔だった。
「そうやってさ、他の人にも……」
つぶやきのようなルリの言葉は、小さくなって消えた。
「何? もう一度言って」
「……なんでもないよ」
「なんでもなくないから、そんな顔してるんだろ? 何? 言ってよ。僕のせい?」
僕は強気で追求してみた。このまま黙っても、理由がわからない。
「言ってよ」
ルリは重い口を開いた。
「……西島さんが、言ってたんだけど」
西島?
誰だっただろう……。僕は人の名前を覚えるのが苦手だ。僕の周囲に集まってくる人は多すぎて、覚えようという意欲すらなくなる。
僕は記憶の奥から、その名前の人物を思い出そうとする。
記憶の海から細い糸をたぐり、しばらくしてからようやくわかった。
クラスメートの女子だ。勝ち気で気が強く、他の人を押しのけてでも僕に近づこうと媚を売ってくる人物。何をしてもどこにいても近寄ってこようとする彼女に対して、特に感想はない。時々あしらうのが面倒だと思うくらいで、どうでもいい人物だ。
不思議だ。ルリとはクラスも違うというのに、どうして西島の名前がルリの口から出るのだろう。
ルリは顔をうつむかせたまま、震える声で言った。
「西島さん自身が言ってたんだけど……智明は、西島さんとセッ……」
でも、声が途絶えた。
いくら待っても、続きはなかった。
待って待って待って。そしてルリから出てきた言葉は。
「なんでもないよ」
がっくりとした。
「ちょっと待ってよ。最後まで話してくれないと気になるよ」
「もういいんだって。……ねえ智明。私のこと、大事?」
虚を衝かれた。
「当たり前だろ」
その答えは簡単に出てきた。恥ずかしがる必要もなかった。
ルリ以上に大事な存在なんてない。
僕の答えに満足したのか、ルリは何度かうなずく。
「私も智明のこと大事だよ」
そして伝票を持って立ち上がった。
僕たちは喫茶店を後にし、二人で並んで歩いていた。夏の夕暮れ時は遅い。まだ夕日が出ているけど、そろそろ帰らなくては。ルリとの時間が終わるのはとっても残念だ。
僕たちの歩いているのは、登下校で何度も通った土手だった。きれいな広い川が、オレンジ色に染まっている。
いつもの通り、たわいない話をする。
僕の前に、カップルがいた。僕たちから大分離れていたけれど、彼らが手を繋いでいるのだけはよく見える。
「ねえルリ。手を繋ご」
夏というのは何かを衝動的にしてしまいたくなる季節だと思う。暑さが身体の熱に変化する。
ルリはちらりと僕の方を見た。そのときショートカットの彼女の髪が揺れた。
「中学生にもなって」
そう返事がくることがわかっていた。中学生になってから何度も何度も言われたことだ。
でも僕は意地になる。夏だ。ちょっと羽目を外したっていいじゃないか。ルリは周囲のことを気にしすぎだ。
「前のカップルだって、手を繋いでいるじゃん。僕たちより年上そうだよ?」
「そんなの関係ないよ。手を繋いだら危ない。転んで頭を打ったりしたら、大怪我をするかもしれないでしょ、前のように」
僕は足を止めた。
「……覚えてたんだ」
ルリは夕焼けに染まった赤い顔で、笑う。
「覚えてるよ。忘れるわけないじゃない。傷、残ってないよね?」
ルリは背伸びをして僕の頭に触れ、髪をかき分ける。
「もともと大きな怪我じゃなかったんだから、全然残ってないよ」
くすぐったかった。ルリの触れる指が。ルリが覚えていてくれたことが。
「小学生のときはさ、ああいうことがあっても、智明と一緒にいたかったから単純に手を繋ぎ続けたけどさ。でも、やっぱり手を繋いでいると危ないじゃない。ね、やめよ」
そういう理由なら、僕は何も言えなくなった。ルリがちゃんと僕との思い出を覚えていて、それを大事に思っているゆえのことなら。
「手を繋がなくても、触れ合ったりしなくてもいいじゃない。いつも隣にいるんだから。……そうでしょ?」
そう念押しされてしまえば、僕は肩をすくめるしかない。
手を繋げなかったけれど、それでも僕は今日、満足だった。
ルリは僕のことを大切に思ってくれていることを知った。僕と同じように。
僕とルリのこれからの道はいつまでも隣り合い、こんな日々が続くはず。
……だった。