翼なき竜

12.無翼の雨(2) (3/5)
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 女王は黙している。暗い雲の下で、今、彼女がどんな感情を持っているのかわからない。
 心の臓がつかまれているような気がする。宰相は早口で、切実に言った。
「いたずらに戦をしかけることは、決して国益に叶いません。隣国に攻め入り領地を手に入れても、もろもろな費がかさみ、益とはならないのです。それ以前に、殺すために戦争を仕掛けるということは、絶対に、やめてください」
 雨は激しいままである。
「玉座にいて見下ろしていたら、人というものはみな同じ、ただ平伏するだけの存在だと思えるかもしれません……だけど、人は、一人一人、違う人生を歩み、違う考えをもって生きているものです。換えはきかないものです。その命を軽んじないでください。陛下はよく城下に降りているでしょう? そこで生活している人々は、陛下と同じ人間なんです」
 宰相は地に手をつけながら見上げる。
 暗い雲の下、雨に打ち付けられながら見下ろす女王の頬には、片翼の竜がいる。
「たしかに、陛下は『泰平を築く覇者』で、普通の人とは違います。でも、お願いですから、他の人を取るに足らない存在だと、決めつけないでください。……国民を、愛してください」
 雷光がひらめく。二拍して、重い音が鳴り響く。
 宰相にできるのは、ここで言葉を振り絞ることだけだ。思いとどまってもらうため、自分の正義を口にすることだけだ。
 兄のラシードは、宰相が王城に向かうとき、最後の別れのときに言っていた。
『お前は理想家だから、いつか現実の辛さに向き合って、心が折れてしまわないか、心配だ』
 と。
 折れるわけにはいかないのだ。
 理想と信念を、捨てるわけにはいかないのだ。
 ――宰相は、女王のことが好きだった。美しい姿に一目惚れした。
 微笑んでくれれば嬉しかったし、頼ってくれても嬉しかった。
 女王の望みは叶えてあげたいとも思っていた。
 だけど――自身の政策と対立するならば、宰相は意見を言ってきた。彼女は人の意見を聞き入れられる人だと思っていたから。むしろ、彼女は意見を言われることを望んでいた様子でもあったから……。
 でも。
 宰相は、先ほどの女王の言葉に、正直失望した。あんな言葉を言う人間だとは、思わなかった。
 あまりに失望が激しすぎて、まるで違う人間の言葉を聞いたような錯覚さえ起こっている。とても、信じられない気持ちで一杯だ。
 いや、信じたくないのか? この現実を直視したくないのか? これが、心が折れるということなのか……?
 女王は、ゆっくりと足を折って、宰相の肩にそっと手を置いた。
「お前の信念、よくわかったよ。ちゃんと、伝わったよ」
 手が温かく感じられた。
 女王は厳かにうなずいている。狂喜して笑っていた同じ顔とは思えない。
「先ほどの私の発言は、全て撤回する。ドウルリアへ攻め込むのもなしだ。もちろん、諸国への侵攻もしない。私の言葉全て、聞いた者に詫びよう」
 ずっと締め付けるように緊張していた胸が、緩められた気がした。
「……ありがとう、ございます。死ぬ前にそれを聞けて、よかったです」
 もう、これで首に縄をかけられても、後悔は少ないだろう。
 女王は目を見開く。
「何を言っているんだ。どうしてお前が死ぬことに」
「どうしてって……だって私は、陛下に手を上げました。エミリアン様もおっしゃった通り、万死に値する罪でしょう……」

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