翼なき竜

9.誘惑の魔(2) (4/5)
戻る / 目次 / 進む
 宰相は胸がむかむかするのを覚えながら、にやにや笑うブッフェンの横を通ったが、少し歩いて立ち止まる。
 どうしても、彼に対しては気になることがある。忘れようと思ったことだが、今の嫌がらせのような言動を見て、不安になった。
「……昨晩、陛下に何か言いましたか?」
 いつもと違った様子の女王。焦っていたような女王。
「言いましたよ。イロイロ」
「何を」
 そうですねえ、とブッフェンは考えるそぶりを見せる。
 口ひげをなでながら、こともなげに言った。
「まあイロイロ言いましたけど、偽善者だ、って陛下をののしりましたかねぇ」
 激流のように、宰相は胸にのぼってくるものを感じた。
 豁然と悟る。こいつは――いけないと。
 宰相は険しい顔で振り向くと、即座にカフスボタンを外し、中指を引っ張り、自分の両手の白い手袋をはずした。
「若様っ、まさか――」
 執事が悲鳴のような声を上げる。
 その声は宰相の行動を止める結果とはならなかった。ブッフェンが御前試合の勝者で騎士団長だということも、今の宰相には関係がなかった。
 怒りをこめ、あざけるように笑うブッフェンへ二つの手袋を投げつけた――


 手袋は、軽い音をさせて、受け止められた。
 小さな、白い手だった。長い指がしっかりと手袋を捉え、つぶすように握りしめられた。
「――手袋を投げつけるとは、決闘を申し込む作法を忠実に守っているな、宰相」
 手袋を握りしめる手の先には腕があり、金環が二つ飾りとしてある。さらに上を見ると、肩につながる。
「しかし、決闘禁止令が我が国で出されていることを知らないとは言わせない。……たしかに、あってないような法令だ。騎士はもちろん、身分高い貴族までもが守らないことはしょっちゅうだからな。決闘とは頭の痛い問題だ」
 肩の先には、もちろん首をつたって顔にたどりつく。
 その顔には、頬に片翼の竜の印がある。その頬が動き、口を開いた。
「……まさか、その頭の痛いことをお前がしでかすとは、思わなかったな」
「……陛下」
 投げつけた手袋をとらえた女王は、宰相をにらみつけた。
「私がこれを取ったということは、宰相と私が決闘することになるか? 日時は一週間後。場所は城外の北にある森でいいだろう。互いに介添人を二名用意すること。武器は同一の剣。男女の決闘の場合ハンデが必要ということもあるが、それは結構。全て同一の条件ででいい。いいか?」
「なっ、いいわけないです! 私が手袋を投げたのは、ブッフェンにです!」
「そうですよ、陛下ぁ。勝手にわたしの決闘を横取りしないでもらえますか?」
 ブッフェンも面白くなさそうに女王を見下ろす。
 女王はぎろりと獣のような鋭い目で見て、ブッフェンに冷たい炎のような言葉を打ち込んだ。
「黙れ」
 ブッフェンはすぐに口を閉ざした。迫力の余波で、宰相も押し黙った。
 とにかく女王は二人の仲裁に入った。ならば、ここは引き下がるしかない。たとえ今もブッフェンに敵意があっても。
 宰相は一歩出て、女王の手にある手袋を取り戻した。
「あー、つまらないねえ」
 決闘がなかったことになり、ブッフェンは口を尖らせた。
「つまらなくなくなるさ」
 女王は感情を一切排した声で告げた。
「……決闘どころではないことが起こった。先ほど聞いたばかりの情報だ。休戦協定を結んでいたラビドワ国が、再びカプル国へ攻め入った」
 宰相ははっとして手袋から視線を上げる。

戻る / 目次 / 進む

stone rio mobile

HTML Dwarf mobile