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裁判 7
「お久しぶりです」
馬から下りながら、リュインは笑顔を向けた。
ルクレツィアの墳墓の前。
「あれから一年以上経って、ようやく、笑うことができるようになりました」
リュインは穏やかにおっとりと笑む。
「向こうで、もう知っているでしょうが、ヨナス=ポランスキーが死にました。……グランディ族の戦士として戦場で死ねて、彼も本望でしょう」
草原に、穏やかだが強い風が吹き通す。
「いいこともありました。ゼルガードのところに、子供ができたのです。ルクレツィア、あなたとわたくしの、孫ですよ。男の子です。とてもかわいらしいです。ゼルガードも赤子の時はあれくらいかわいかったのでしょうか」
リュインは楽しそうに笑う。
「ゼルガードは皇王となったばかりですが、人々の信望を集めています。ヴァシーリー様の再来とまで言われているのですよ。……きっと、長くこのグランディア皇国を支えてくれるでしょう」
ほんの少しだけ、リュインの表情にかげりが見えた。
「……ただ、ゼルガードにはまだ少し覚悟が足りないようです。……前に来たときに話したとおり、わたくしは皇配殿下の位を返上し、ただの魔法軍将軍となりました。つまり、もうゼルガードの父親ではなくなります。だから、『陛下』と呼ぶようにしたのですが、ゼルガードはひどく嫌がるのです。『まるで親子ではなくなるみたいだ』と言って……」
リュインは風の吹く先を見た。風の起こる場所、通り過ぎる場所、消える場所。
「……わたくしは、何を勘違いしていたのでしょうか。信じてくれないかもしれませんが、わたくしはあなたといたとき、自らが『不老不死の魔法使い』ということを忘れていたのですよ。……本当に。……普通の人間だと、勘違いしていたのです。謝っても、謝りきれないことだと、わかっています」
ヴァシーリーから結婚を打診されたとき、断わるべきだった。誰からどう言われても断わっていた、それまでのように。一時的なことだというヴァシーリーの説得に耳を貸さなければ。ルクレツィアの美しさに目を奪われなければ。
ヴァシーリーの墓は、別の場所にある。しかし、ルクレツィアと似たように、草原に埋葬されている。
死の間際のヴァシーリーの言葉こそ、心に刻むべきことだった。
『儂が死んだとき、お前が従うべき相手が誰か、わからないほどの頭ではあるまい。ルクレツィアなど論外だぞ。お前の従うべき主君は、ゼルガードとなるのだ』
夫や、父親や、家族でいるべきではなかった。
近づきすぎてはいけなかった。
あるべきだったのは、臣下という立場だった。
そうできなければ、国を出奔してでも離れるべきだった。
「わたくしは……今、どこかの山奥に一人で暮らそうかと、考えているところです。誰のためにも……わたくしは人と関わり合うべきでないと……」
リュインは馬に結びつけてきた、グランディ族伝統の琴を取り出す。
彼女の弾いたように、『リュイン』を奏でようとした。
だが、うまくいかなかった。リュインの心に刻まれた、彼女の音色ではない。もはや、彼女の音色を作り出す人はいない。
最後の意識を失いかけたそのときまで、弾こうとしたルクレツィア。
彼女はいない。
ポランスキーもいない。ゼルガードには子ができた。
そうやって、時は過ぎゆく。滅び、栄え、死に、生まれる。その繰り返し。
『リュインよ、賭けをしようぞ!』
若きヴァシーリーは、リュインに臣となるよう賭けを持ちかけた。
その彼は兄弟を兄弟とは思っておらず、親も、子も、冷淡な目で見ていた。誰かと親しもうとしたことはなかった。情はあったかもしれないが、それを表に出すことはなかった。
己のあるべき姿は、それではないかと思う。
自分はヴァシーリーを尊敬する。その強さも、何もかもを。
彼との賭けを破ることになるのは辛いが、もう自分を人間と勘違いしたくはなかった。
「父上」
「…………」
「父上!」
「……どなたのことでございましょうか、陛下。わたくしは陛下の父親ではございません」
「あなたの他に、誰が私の父上ですか! それに、陛下などと……名前で呼んでくれと、言っているではありませんか!」
「……陛下、臣に対し、敬語を使うのはいかがなものと思われます。絶対なる皇王陛下という御自覚を」
リュインはどれほど言われようと、目には冷静さと、口元にはやんわりとした笑み浮かべていた。
「父上……!」
ゼルガードはもどかしいように、こぶしを握りしめる。
息子の気持ちも少しはわかるつもりだ。
母を失い、父を父として失う。そして、国の頂点に立ち、『ヴァシーリー様の再来』とあがめられる。ヴァシーリー時代を生き抜いてきた老臣は死んでゆく。
心細さがあるだろう。せめて父だけでも、父としていてほしいと思っているだろう。
だが、そうするつもりはリュインにはもうない。
荒療治としても、やはり、職を辞し、山奥にこもろうと思えた。
だが、彼がいるときにそうすれば、確実に引き止められる。
なので、ゼルガードが蛮族という名の周辺民族討伐へ赴いた日に、実行した。
ごく少しの荷を手に、城を出ようとした。
「リュイン将軍!」
背に、引き止める声がある。
誰の声かは知らないが、無視して城門を通ってゆく。
「リュイン将軍! 大変です! 皇王陛下が……! 皇王陛下が……!」
その声に立ち止まり、振り返ったのは、思い出したからだった。
とてもよく似ている光景。言葉。
ルクレツィアのときと、よく似た光景。
兵士が、へたりと膝をつき、くちゃくちゃの顔をしている。
「陛下が、毒を盛られて……!」
リュインはしばらく黙って、ばかな、とつぶやいた。
城内は騒然となっていた。
リュインとゼルガードの妻と、その子は、急いでゼルガードの元へ向かおうと、馬車を走らせた。
誰もが止めたが、ゼルガードの妻は青白い顔をしながら、「陛下の元へ行きます」と言った。
ゼルガードは城を出たばかりの、その日の昼食時、毒を盛られたという。
犯人はガロオン国の残党。
今となっては、犯人などはどうでもよかった。
その場で急遽作られたテントの中で、ゼルガードは白い顔で横になっていた。呼吸はとても荒い。医者が必死に動き回っている。
「……ち、ちうえ……」
言ったと同時に、ゼルガードは血を吐いた。
ゼルガードの妻は、顔を青ざめた。
赤子を抱えたまま入り口にいる妻に、ゼルガードは外へ出るよう言った。
ゼルガードは咳き込み、血を吐く。
リュインは駆け寄り、布で血をぬぐう。
うつろな目をして血を吐く息子に、何と言えばいいのかと、口を開くものの声にならない。
「……泣い……てい、る……」
ゼルガードは咳き込みながら言う。
「……ミロン……泣いて……る……」
ミロンとは、ゼルガードの子の名だ。
はっと気づくと、テントの外から赤ん坊の泣き声が聞こえる。ひどく泣き叫んでいる。
「ち、ちうえ……ミロンを……」
「そんなことより、あなたが!」
「ミ、ロン……を……」
ゼルガードはうつろな目でありながら、リュインと目を合わす。
そして、手を伸ばし、リュインの手をつかむ。そこには意思がある。大人の男としての、意思が。
そして、ゼルガードの血に濡れた唇が小さく動く。声とはならないが、口の動きから、言いたいことはわかる。
必死なゼルガード。リュインは唇を噛みながら、背を向け、テントの入り口へ向かう。
「――頼みます、父上」
それは滑らかで、優しい響きだった。苦しさも辛さも感じられない。
『父上』
初めてゼルガードに、声変わりもしていない声でそう言われたときのことが、ふいに思い出された。
もう、十年以上前の、ルクレツィアも若く、ほがらかに笑っていた頃。ゼルガードはやんちゃに走り回っていた頃。
人間として、夫として、父として、生きられた頃。
リュインは足を止めた。
テントから日の光が漏れる。
――ああ、そういえばこんな、晴れた日だった。
ゆっくりと、振り返る。
――ルクレツィアが死んだ日も。
ゼルガードはもう、咳き込みもせず、静かに、目を伏せ、穏やかな顔でいた。
まるで聖なる神の像のように。
よろめきながら、リュインは走り寄る。
「ゼ……ゼルガード……」
走り寄る。手をつかむ。身体にすがりつく。
「ゼルガード、ゼルガード!」
呼ぶ。呼ぶ。呼ぶ。動揺した声で、裏返った声で、枯れたような声で。
「あ、ああ……あ、あ……!!」
まだ若かった。皇王になったばかりだった。結婚したばかりだった。子供が生まれたばかりだった。
全ては、これからだった。
「ああぁぁあぁぁ……!」
うめき声が混じる。
誰よりも、幸せになってほしかった。ルクレツィアのように老いで悩むことなく、父のことも忘れてほしかった。自分が幸せだと感じたようにゼルガードにも、自分の子が結婚し、孫ができる喜びを味わってほしかった。
全て、早すぎた。たった二十四才で。
爪で引っ掻くように、息子の身体にすがりつく。
だけど起き上がりはしない。咳き込みも、呼吸もしない。
「陛下……」
気づくと、テントの中にゼルガードの妻がいた。子のミロンはまだ泣いている。
リュインたちの様子から、彼女も悟ったのだろう。
ミロンを抱える手が震え始める。
リュインは立ち上がった。
「預かりましょう」
ゼルガードの妻はリュインにミロンを預け、ゼルガードに駆け寄った。
泣き声と名を呼ぶ声が、響く。
リュインはミロンを抱えたまま、テントの外へ出た。
太陽が、さんさんと、どんな日々とも変わらず照らしている。ぎらぎらと、痛いほどに光を照らす。罪を背負った者には、重すぎる光だ。
眩しそうに目を細め、うつむいて赤子を見る。
ミロンが泣きじゃくっているので、ゆりかごのように揺らす。
「泣かないでくださいね、ほら、何も怖いことなんてないのですよ。お日様も笑っています」
リュインは笑顔を向けた。
それでも日々は過ぎゆく。また明日も太陽は昇り、沈んでゆく。日が重なり年となり、何十、何百という年の時間が過ぎてゆく。
たとえ、どれほど悲しい出来事があっても。
ミロンは次第に泣きやみ、きゃっきゃと笑い始めた。
小さな手を伸ばし、リュインの頬に触れる。
頬を流れていた涙に、ミロンの手が濡れた。
「あーあ?」
それでも、リュインは笑顔を向ける。
リュインはミロンを高く掲げる。きゃあ、と赤子は喜ぶ。
逆光となったミロンに、涙が頬をつたいながら笑顔で、リュインは言った。
「陛下」
ミロンはきゃらきゃらと笑っている。
「陛下、新たな皇王陛下」
意味がわかるはずがない。高く上げられて、ミロンはただ喜んでいる。
「陛下へ、臣として忠誠を誓いましょう。陛下に、その御子に、その更に御子に、グランディア皇国が存する限り、永遠の忠誠を」
これは、ヴァシーリーと賭けをしたときから進むべき道だったのだと、リュインは悟ったのだ。
赤子はえくぼを浮かべる。
『頼みます、父上』
――ええ、頼まれてあげましょう。
* *
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