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裁判 6
いかにポランスキーのマントを身にまとっているとはいえ、女皇の夫とわかる人間だっている。いや、わからない人間の方が少数である。
謁見の間の前にいる侍女と兵士は、リュインの顔を見ると慌てた。
「ヨナス=ポランスキーが、謁見を願いたいと、お伝えください」
そうリュインが言っても、扉の前の兵士は困惑する。
「ヨナス=ポランスキー……様……?」
「はい」
「あの……皇配殿下……?」
「いいえ、わたくしはヨナス=ポランスキーです」
兵士は困って隣にいる古参の侍女を見た。
その侍女は、ルクレツィアが皇女だったときから侍っていた女で、女皇の新婚初夜も部屋の前にいた。
もちろん、女皇夫妻の現状も知っている。
侍女はリュインを見上げると、深々と頭を下げた。
「お越しになることは聞いております。女皇陛下もお待ちです、ヨナス=ポランスキー様」
リュインはほっとしたように笑みを浮かべた。
兵士は驚きながら、古参の侍女がそう扱うのにならった。相手は皇配殿下であり、格段に身分が上なのは確かなのだから。
しばらく待たされた後、リュインは謁見の間への入室を許可された。
「ヨナス=ポランスキー様のお越しです」
リュインが部屋へ入ると、少し高い段に綾の布が降りていて、奥の人物のシルエットしか映さない。
ということは、中から見てもリュインのシルエットしか映さず、顔かたちもわからない。
綾布の奥には、中央にある肘掛け椅子に半分身体を傾かせたシルエットと、その側に立っている侍女姿のシルエットがある。
入るところを見たから、その侍女は、先ほどの古参の侍女だ。
中央のシルエットから声があった。
「ヨナス、ガロオン国の残党の話とのことですが……」
中からいきなり聞こえた声に、リュインはしばらく反応できなかった。
それは一年ぶりに聞く、妻の声だ。どこか弱々しく、か細い。
一年会わなかったのに、聞かなかったのに、たった一言で、彼女の存在を肉薄した場所に感じる。
以前より、かすれている。風邪でもひいたのだろうか。
「……ヨナス?」
いぶかしげに問われた。
奥のシルエットは肘掛けにもたれさせるのをやめ、背筋を伸ばす。
「……誰です?」
「わかりませんか?」
「……!」
リュインがルクレツィアの声を聞いてすぐにわかったように、彼女も彼の声を聞いてすぐにわかった。
椅子から立ち上がり、侍女へ顔を向けた。
だが、侍女は何も言わなかった。
何度かルクレツィアは細い腕の先にあるこぶしを振り上げようとしたが、震えるように下ろす。そのこぶしは侍女へ向けたというより、行き場のないどこかに向けたようである。
リュインも侍女と同じく何も言わず、その場から動かない。
ルクレツィアは苛立ったように椅子の周りを回る。だがしばらくして落ち着いたのか、もう一度椅子に座った。
ルクレツィアは何も言わなかった。リュインがヨナスと偽ってここに来たことを問い詰める言葉も、一年避けていた理由も、何も言わなかった。
リュインは彼女と会えたならば、別れを告げようと思っていた。
それは冷たい感情からの結果ではなく、別れを彼女が望んでいると思ったからだ。
リュインはなぜこうなったのかという理由は求めない。そんなことに執着はない。ここまで来た以上、自分がどうにかできる問題だとは思えない。できることなら、ルクレツィアは何か言っていただろう。
大事なのは彼女は一年会おうとしなかった、そしてこれからも会おうとしないだろうという現実と結果である。
彼女も、避けている人物と同じ城で暮らすのは、苦しいだろう。
リュインが口を開こうとしたとき、先にルクレツィアが言った。
「……寒うございますね」
リュインはヨナスのマントに付着して溶けかかっている雪を見た。
部屋の中は暖かくなるようにしているとはいえ、少し寒気立つ。今も外では雪が降り続けているのだろう。
リュインは昔のことを思い出した。昔、というには彼にとって最近すぎる過去。
「確かに寒い。とても……あの夜と同じくらい」
リュインは自分でも不思議ながら、顔に笑みが浮かんだ。かすかな、おっとりとした笑みである。
そうやっていると、なんだか滑稽で楽しくなってきた。まるで自分らしくないと思う。
含んだ笑い声が漏れる。静かな部屋に、リュインの笑い声が響く。
ルクレツィアも笑った――気がした。
ふとそう思ってリュインが彼女の声に耳をすましたとき、ルクレツィアは側の侍女を手招いて呼んだ。
かすかな声で侍女に何かを指示する。
侍女は急いで幕の外へ走っていった。そして手に大きな荷を抱え、幕の中へ戻る。
今度は「ありがとう」というルクレツィアの声が、リュインにも聞こえた。
そして突如、楽の音が響き始めた。
優美で繊細な、グランディ族伝統の琴の音だ。
そして曲は、『リュイン』。
以前と、まったく変わりのない音である。その神の域の技術も、込められた感情も、何も変わっていないと言わんばかりの。
リュインは懐かしいような苦しいような思いで、静かに聴いていた。
もうすぐ終わる。
それは避けたいことのように、思われた。短い曲ではなかった。だが、終わらないでほしいと……思った。
しかし、やはり、終わった。
残響も消えうせる。
ゆっくりとルクレツィアは言った。
「……この曲を弾くのは、これで終わりです。私はもう、あなたへ顔を見せとうありませぬ」
はっとした。
「こうして声を聞かせとうもない」
はっきりとした声音。リュインにはとても冷たく感じた。
「私の顔も、声も、あなたの記憶から消せれば、どれほど……苦しまなくて、すむか」
「ルクレツィア」
「忘れてたもれ。そして、どこぞなりと、行って……」
リュインは、彼女と話をするまで、静かに別れ話を持ち出そうとしていた。できるだけ波風を立てずに、穏便に。
だが、聞いているうちに、リュインの中に反抗心のようなものが芽生えた。
それはこの場で突然生まれたものではなく、一年のうちに降り積もっていたものかもしれない。リュインはそれを心の内に留めなかった。
「嫌です」
ルクレツィアは狼狽する。それまで、リュインはルクレツィアに面と向かって否定するようなことはなかったからだ。リュインはそういうとき、いつも直接的には否定せず、肯定しながら、否定とはわからないように否定する話術を使うのだった。
けれど、今は違った。
「夫が妻の側にいることの何が悪いのですか。あなたが会いたくないと言っても、わたくしは会いたいと思っています。そう思うことの何が悪いのですか。理由も言わず、納得できますか」
子供のような言いぐさだとはわかっていた。
「はっきりと何も言わず、ただ一年避けられ続けて、本当に穏便にここで別れられるわけがないでしょう。一年、わたくしがどのような気持ちであったのか、想像がつきますか?」
「わ……私の気持ちなど、リュインにはわかりますまい……!」
「ええ、わかりません。わたくしは人の心を読む魔法など使いませんからね。口に出されなければ、わかるものもわかりません」
「……出ていって!」
兵士達が近づき、リュインに促す。リュインは両側から近づいてくる兵士に目を向けず、まっすぐルクレツィアのシルエットを見て、立ち上がり部屋を出て行く。
ただ、最後にルクレツィアに釘を刺して。
「わたくしは、別れるつもりなんてありませんからね」
リュインの寝床はルクレツィアの寝床からは遠い。
だが、同じ城内であり、街の端から端のような距離もない。
ルクレツィアと会った日の夜から、『リュイン』の曲がリュインの耳に聞こえ始めた。
音はルクレツィアのもの。――いや、それ以前に、『リュイン』の曲を知っているのはルクレツィアしかいないのだから、彼女が弾いている以外ありえない。
これで最後だ、と言いながら毎夜弾く彼女に、寝床でリュインは不思議に思う。
あれから会う機会はない。声を聞くこともない。その点では何も変わっていない。
しかし、毎夜彼女は『リュイン』を弾くようになった。
穏和に別れようと思ったこともあった。だが、初めて喧嘩して、わかった。やはり、別れたくないのだと。
毎夜ルクレツィアは『リュイン』を弾く。
リュインは思い出すのだ、自分がルクレツィアに毎夜物語を語っていたころを。
うつらうつらと寝床の中で、毎夜彼女の奏でる曲を聴きながら、その曲を通じて彼女の声を聞いているような気分になる。
幻想的な音色が、眠りに誘われるリュインに刻まれてゆく。
……そのときの自分は最も大切なことを忘れていたのだと、後にリュインは思い返すのだった。
皇国歴89年。十二月の晴れた日だった。雲一つ無く、雪も溶けきった、珍しく暖かい日。
リュインがルクレツィアにポランスキーと偽り会った日から、二ヶ月後のこと。
数日前からリュインは周囲の妙な様子に気づき始めていた。
どこか、おかしい。世話をする侍従も兵士も、誰もが何かを隠しているような気配がする。
そろそろ問い詰めようとしたときだった。
涙で顔がぐちゃぐちゃになった侍従が、リュインの部屋に駆け込んできた。
「……皇配殿下! もう、隠してはおけません……! 女皇陛下が……女皇陛下が……!」
うっ、うっ、と侍従は涙声を上げる。
「ルクレツィアがどうしたのです」
「数日前にお倒れになられ……もう……」
リュインの顔がさっと青くなった。
侍従を押しのけ、リュインは走ったことのない城内を走った。
まさか、そんなことが、あるはずがない。
昨晩だって、楽の音を聞いた。変わりない、彼女の音を。
ルクレツィアの部屋の前には、ポランスキーが武具を身につけ、座り込んでいた。
彼はリュインを視認すると、組んでいた腕をとき、顔を上げた。
「ルクレツィアはっ!!」
「陛下には、もう意識もないようです」
「……!」
リュインは急いで部屋へ入ろうと扉に手を伸ばした。
しかし、びゅっと低い風の唸りがあるかと思うと、伸ばした手の先に、槍先が差し向けられていた。
「ここを通ることは、なりません」
「なぜ!」
「女皇陛下の御意志です。この槍とこの命に賭けても、皇配殿下をお通しするわけにはいかないのです」
ポランスキーは立ち上がり、大槍をリュインへ構えた。
「どきなさい!」
どんなにリュインが言おうが、ポランスキーは揺るがなかった。
「陛下の命です」
リュインは血が上ってゆくのを感じた。憎しみに似た感情がポランスキーに対して湧き起こる。
「……あなたが倒れるまで、通さないわけですか……。『不老不死の魔法使い』を侮ったことを、あの世で後悔なさい……!」
リュインはマントを脱ぎ捨てる。
「父上!」
そのときゼルガードが走り寄ってきた。
「何をなさろうと……落ち着き下さい」
「あなたも死にたいのですか」
リュインの目は本気であった。黒眼が息子を射抜く。
手をリュインが伸ばしたとき、ゼルガードは思わず離れた。ポランスキーはぐっと大槍を構え直す。
その手が握りしめられ、リュインの顔に笑顔の片鱗も――それどころか、表情全てが消え失せたときだった。
扉が内側から開かれ、さめざめと泣いている侍女が両膝を床について、宣告した。
「女皇陛下、崩御なされました……!!」
おお、とさざめいた。
いつの間にか周囲にはリュインたちだけではなく、他の人々も集っていた。
リュインの手が緩められる。
「母上……」
ゼルガードは目元に手をやり、肩を震わせている。
ポランスキーは槍先を下に向け、ギリンシア神教の正しい礼を扉に向かってした。
リュインは手を下ろしたが、表情は無表情のままだった。
周囲で泣き声やルクレツィアの業績をたたえる声が聞こえ始めて、ふらりとリュインは扉へ向かう。
ルクレツィアの最期を見るためだった。信じられない死を確かめるためだった。
だけど、力を失ったリュインの手をゼルガードが引き止め、首を振る。
「どうか、どうか、母上の顔を見るのだけは……おやめください。母上の心中を、お察し下さい……。母上は絶対に望まれません」
「……ルクレツィアの心中……?」
ゼルガードは全てを知るような顔で、うなずく。
「あなたは本当に気づかれてなかったのですね」
ポランスキーが、皮肉そうな敵意のあるような笑みを浮かべながら、淡々と話す。
「女皇陛下がなぜ、あなたに顔を見せたくなかったのか。なぜ、あなたの顔を見たくなかったのか。声すら聞かせたくなかったのか。……いつまでも若いその顔では、いつまでも若い声では、わからないでしょうね」
ポランスキーはしわの刻まれた顔を歪ませた。あごひげも髪も白くなっているポランスキー。
霧が、晴れた気がした。
結婚してから今まで、自分の視界には霧がかかっていたのだと、リュインは気づいた。
ゼルガードはもう幼い純粋な子供ではない。自分より少し背が高くなり骨張った大人の顔、大人の声をしている。
……何年経った? 彼らは今、何歳だ?
そして、ルクレツィアは……?
「陛下はよく耐えられたものだと思いますよ。いつまでも老いない夫、老いてゆく自分。……それでもなお、陛下は自分から別れを切り出さなかった。それだけ、あなたを愛してらっしゃったのでしょうね」
ポランスキーはしみじみと語る。
「正直なことを言いますと、あなたを見ていると私は自分の若い頃を思い出し、今の老いた身体が厭わしくなる。……妻は、風邪をこじらせて死にました。若い身体であれば、風邪くらいで死ぬこともなかったかもしれないと思うと、無性にあなたを憎く思えましたよ。ええ、あなたに非はない、自分勝手な考えだとはわかっていますが。あなたのことは好きです。しかし、これとは別問題なのですよ」
「父上……気づいておられますか? 今の私と父上とが並び立ち、もし何も知らない人が見ても、親子だなんて気づけません。……母上は、年の割に若く美しい人でした。……けれど、それは本当に、その年にしたらという意味で、いつまでも若い父上を見ることは……つらかったでしょう。そしてそれ以上に、自分の老いた姿を、見られたくなかったのでしょう」
「…………」
リュインは沈黙した。そして、扉へ一歩でも進もうとは、もうしなかった。
葬儀の後に、侍女から聞いた。
ルクレツィアが最後に意識を取り戻したのは、死ぬ前の晩のことだったそうだ。
『女皇陛下は目をうっすら開けられると、琴を取ってくるよう、かすれた声で命じられました。そして、無茶なことに体を起こし、毎夜弾かれるあの曲を、お弾きになられたのです。病を忘れたかのように、いつもと変わらぬように……。私たちは、病から回復したのだと、一瞬信じかけたほどです。けれど、弾き終わると同時に、そのまま倒れられました』
新婚の初夜に部屋の外にいた侍女もまた、老いた人となっていた。
『陛下は……自らの中で老いないもの、変わらないものを、求めておられました。そして、リュイン皇配殿下と喧嘩をなされたあと、陛下は気づかれたようにおっしゃりました。――私の中で永久不滅のものは、この曲しかない。不老不死のあの方は、いずれ私の顔も声も忘れる。けれど、この曲だけは、私の想いと私の全ての籠もったこの曲だけは、覚えていてほしい。老いもせず、美しいままのこの曲だけは――そうおっしゃられ、体を悪くされていたのに無茶をして、毎夜、弾いておられました……』
ゼルガードが葬儀の場で言った。
『母上は、幸せだったと言っていました。母上の兄の亡きオルテス様と会えたことも、父上と結婚したことも。だからお前も幸せになるのだと、母上は……死ぬ二日前に私を呼び寄せられ、おっしゃりました。そして……悲しむことはない、私は草原に帰るだけだから、私に会いたければいつでも草原へ来なさい……と、病に苦しまれていたのに、笑って……』
葬儀の三日後、号泣するリュインの姿が、草原にあった。
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