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裁判 5
数年が経ち、ヴァシーリーという重すぎる枷の外れた世界に、反旗を翻す『蛮族』が現れ始めた。
ガロオン国の残党、バガリ=シルタ、征服した地に住まう民族。
魔法軍将軍として、リュインは戦場に征くことが増えた。
そして、女皇の息子として、ゼルガードも戦場へ兵を率いた。
はじめはルクレツィアが難色を示していたのだが、ゼルガード自身が望み、押し切った。
ゼルガードは蛮族を圧倒し、打ち倒していった。彼には戦うセンスと才能があったのだ。
兵からの支持も得て、次期皇王として、その存在感は増す。
かつて形だけの女皇の後ろにヴァシーリーが控えたように、ゼルガードは脅威として認識されていった。
そうした重しが再びできあがったことで、グランディア皇国には、平穏なときが戻る。
そうやって平穏が訪れたにもかかわらず、国には問題が起こっていた。
ルクレツィアが、人前に出なくなったのだ。
「ルクレツィア、具合が悪いのですか?」
「……いいえ」
リュインの前には布がかかっており、ルクレツィアのシルエットしか見えない。
だんだんと、彼女はその布で隠された部屋に閉じこもるようになり、夫であるリュインにすら姿を見せなくなったのだ。世話のための侍女数人しか、中へ入ることを許さない。
「それならば、外へ出てはもらえませんか?」
「……出とうありませぬ」
リュインは小さくため息をつく。何度言っても、出てこないのだ。何が原因なのかも、リュインにはわからない。
「最近、このような噂が流れているのを知っていますか? 女皇はもうすでに崩御されている――と。このような噂が広まれば、国に悪心を持つ者が、何をするかわかりません」
「何と言われようと、出とうはありませぬ」
「ゼルガードの婚儀にもですか?」
もうすぐゼルガードは元老院議員の娘と結婚する。リュインはまだ早いと思うのだが、政治的なことが働いたのだ。
息子が結婚するというのにルクレツィアが出てこないとなると、母子で何があったのかと、いらぬ邪推を抱かれる。
「……外へは出とうありませぬ」
「祝ってやりたいとは、思わないのですか?」
「……祝いたくても、外へは……」
「何がそうさせるのですか? 何かが怖いのですか? 何を恐れているのです?」
リュインは問うが、布に阻まれ、彼女の表情は伺えない。
「まあまあ」
と後ろからリュインをなだめたのは、ヨナス=ポランスキーだった。
「陛下が出ることを望まれないのなら、仕方がない。それならそれで、別の、祝える方法を考えれば済む話です」
リュインは彼へ振り向きながら、眉を少しだけ寄せた。
「陛下は来られないのか」
グランディ族のとある人たちが、こそこそと婚儀の席で話した。
「もしや、陛下とゼルガード皇子とは、確執があるのでは……?」
グランディ族直系の血を引く者は、聖窟で婚礼をするのが決まりとなっている。そこで行われたゼルガードと元老院議員の娘の婚儀は、形式的にはつつがなく終わった。
しかし、リュインは出席しているのに、肝心のルクレツィアが来ないことは、他のグランディ族に疑いを抱かせ、さらには花嫁まで、
「陛下は……私をお認めになられないのですね……。私、何か御不興を買ってしまったのですね……」
と、泣きそうな様子である。
ゼルガードがなだめるも、花嫁は不安そうな顔のままだ。
場は気まずさを含んだものになっていた。
「みなさん、陛下が酒宴を用意されました。どうぞ、こちらへ」
リュインが言ったことに、誰もが驚いた。
「陛下が……?」
酒宴の席は酒にしても、料理にしても、最高級のものが並べられていた。
だが、誰もがそこへ入って目をやるのは、幕に覆われた上座である。
薄い布の奥には、女性のシルエットがある。
「どうぞ、みなさん。息子の婚儀においでいただき、嬉しく思います」
中からの声に、みなが戸惑う。
「へ、陛下なのですか……?」
「はい」
「その……失礼ながら、なぜそのようなところへお隠れに……」
「…………」
ルクレツィアは答えない。
「そのようなところに隠れられては、陛下だとわかりません。顔を見せていただければ……」
ルクレツィアは動こうとしない。
この場にいるグランディ族は、戦乱の世を生き抜いてきた男達ばかりなだけに、警戒心は強い。誰も酒にも食事にも手をつけようとはしない。
「陛下が確かに陛下であるという証のために、顔を見せてください」
リュインは心の中で息をつく。
こうなることは、想像がついていた。このまま顔を隠したままでは、誰も納得しない。婚儀に出席しなくとも、こうして披露宴を開くことで不和の噂を解消しようというのは間違っていないと思うが、そもそも姿を隠したままでは信用しない。
ルクレツィアのシルエットが動いた。
出てくるのか、と思ったが、シルエットの動きは止まった。
そしてしばらくして、琴の音色が響き始めた。
結婚を祝う、グランディ族に伝わる曲である。
弾き終わると、ルクレツィアが訊いた。
「メイルォン、覚えていますか?」
「ああ……これは、わしの結婚のとき、陛下が祝いのためにお弾きになった……この音、覚えている。確かに陛下の音だ」
「確かに」
「久しぶりに聴いたが、お変わりない……」
グランディ族の面々は、うなずいてゆく。
ルクレツィアの琴の腕は、絶品である。弦一本分踏み越えて、神の領域かと思うような響きを作り出す。
聴いた者は忘れられない、彼女の音色だ。
「私の都合で、顔を出せないことは悪いと思っています。しかし、息子の結婚を、私は祝いとう思って、この席を用意しました」
ルクレツィアは言葉を切る。
「ゼルガードを、よろしく頼みます」
向けられた言葉に、花嫁は、「は、はいっ」と答えた。
「さあ、無礼講です」
宴会は、楽しいものだった。ルクレツィアが琴を弾き、踊り子が踊り、みなは酒を飲む。
新婚の夫婦が去った後も宴会は続いたが、それも深夜には酔いつぶれた人も現れて、宴会は自然とお開きとなった。
つぶれた人は城の部屋に運び、歩ける人は帰って行く。人々を見送った後、リュインとポランスキーは安堵したように、苦笑しあった。
「なんとかなりましたね」
「そうですね。まあ、陛下も隠れるのは仕方がないとはいえ……」
ポランスキーの言葉は、リュインに聞き逃せなかった。
「……あなたはルクレツィアが隠れる理由を知っているのですか?」
ポランスキーは上を向きながらあごのひげをなでる。
「知っているのですね?」
「……将軍にはわからない理由ですよ」
リュインの追及を受け流して、ポランスキーは歩いてゆく。
「どちらへ? 泊まる部屋は用意していますよ。ポランスキーどの」
「帰りますよ。妻が病気で、心配でしてね。息子の嫁が見てくれているのですが、やはり気になりましてね」
ポランスキーは、自嘲気味に疲れたような笑みを残して、去っていった。
宴会場は酒や皿が散乱している。
上座には、幕が下りている。
「……ルクレツィア、起きていますか?」
暗くなっていて、シルエットもわからない。幕の中でどのような姿でいるのかもわからない。酒宴の席ですらその幕から出てこず、酒や料理を心を許した侍女に中へ運ばせていた。
「ルクレツィア?」
中から応答がない。眠っているのかもしれない。……風邪を引くかもしれない。
「開けますよ?」
リュインは一応確認しながら、幕を開ける。
そこでは、ルクレツィアが横になっていた。藍色の長い髪が顔にかかっている。
久しぶりに目の前に見える妻に、リュインは胸がいっぱいになるような気持ちに襲われた。
かかっている彼女の髪を、さらりと指で梳く。
彼女がそれに気づいて、ゆっくりと目を開ける。長い睫毛の下から紅い瞳が現れる。
「……リュイン……?」
寝ぼけながら言ったかと思うと、さっと顔を青くさせて叫んだ。
「きゃ、あああああっっ……! いや!」
ルクレツィアは袖で顔を隠す。そのまま、背を向ける。
「いや、出て行って! 見ないで!」
「ルクレツィア、落ち着いて……」
「いやぁっっ!」
リュインは幕の外に出た。
ルクレツィアは袖で顔を隠したまま、リュインを見る。
「幕も、下ろして……」
リュインはその通りにした。
「落ち着きましたか? ルクレツィア」
しばらくしてから、ルクレツィアは答えた。
「……驚かせて、悪かったと思います。けれど、勝手に、この中へは入らないで」
声は震えていた。
「もう……私を見ないで。……見ないで……っ!」
――以後、リュインは妻の姿を見ることはなかった。
それから一年が経った。
「ポランスキーどの」
リュインが声をかけると、彼はマントを翻して振り返った。
「……リュイン将軍、久しぶりです」
少しだけ目を見開き、ポランスキーの目尻のしわが寄った。
ポランスキーの妻のミリーが病に倒れて亡くなり、しばらく彼がキリグートへ来ることはなかったのだ。
今、ポランスキーは元の調子を取り戻しているように見える。
城内の中庭であった。空は曇天。雪が降り出している。木々に、少しずつ降り積もっていくところだ。
「相談があるのですが、……よろしいですか?」
少しためらいがちにリュインは切り出した。
その様子にポランスキーは驚きながら、どこか別の場所で話そうか、と勧めた。だが、リュインはここでいい、と断わる。
雪の降る中庭。長い話をする気ではない、と言っているのだ。
「ルクレツィアへ伝言を頼みたいのです。別れたいのなら、反対するつもりはありません、と」
「将軍……!」
ポランスキーの顔がこわばり、リュインの肩をつかんだ。
「まさか本気で言っているわけではありませんよね!?」
「……こんなこと、冗談で言うことですか?」
リュインが笑みを浮かべることなく下から見上げると、ポランスキーは言葉を失った。
ゼルガードの婚儀から一年、リュインとルクレツィアは顔を合わせることはなかった。
ルクレツィアは幕の中に閉じこもり、リュインを寄せ付けなかったのだ。そして、顔を合わすどころか、話をする場すら作ろうとしない。
――女皇陛下と皇配殿下の仲が悪くなっている――そんな噂が飛び交うも、否定するすべもない。
この一年、ゼルガードやポランスキーはルクレツィアを取りなそうとしたが、無駄骨に終わっている。
妻に一年かたくなに避けられ続けた、夫としてのリュインの結論。
ふわりとすりぬけるように彼の手から離れ、リュインは背を向けようとした。
「っ別れるなど、できるはずがないでしょう!」
ポランスキーが小声で叫ぶと、リュインが少しだけ振り返る。
「子供もいる二人の関係が清いなど、認められるわけがない! 当たり前でしょう!」
離婚は認められていなかった。
別の誰かと再婚する場合、相手が死んでいない限り、認められないのだ。
もしくは、夫婦に男女の関係がない、と認められない限り。
リュインは口元に笑みを浮かべた。
「わたくしは、不老不死の魔法使いですよ?」
ぞわっと悪寒が走ったように、ポランスキーが背筋を伸ばす。
それを見て、リュインが口に出して笑う。
「あなたの想像とは違いますよ。……『不老不死の魔法使い』なんて得体の知れない奴が人間か否かで議論すれば、離婚も可能でしょう。……こんな話を知っていますか? 昔々、ある人間の娘が運悪く悪しき魔女に呪われ、妖犬と結婚してしまうのです。けれども呪いの糸が切れるとその娘は逃げ出して、普通の男と結婚し、幸せな家庭を築きました……」
リュインが何かを含んだように笑う。
「……あなたは自分が妖犬と同じだと言うのですか?」
「同じようなものですよ」
リュインはひらひらと手を振り、去ろうとした。
「お待ち下さい!」
ポランスキーは苛立ったように頭を片手で掻くと、自分のマントを外した。
そしてリュインへ差し出す。
「これをつけて、陛下の元へ行きなさい」
ポランスキーのマントは冬用の、毛皮で作られたものだ。右肩には獣の長い牙があり、左肩には獣の顔がついているのでかなりいかめしく、人々を居すくませる。マントを見ただけでポランスキーとわかるのである。
「これから陛下へ謁見する予定でしたが、私のふりをして、行ってきてください」
「な……」
「文句を言う人があれば、魔法でも何でも使えばいいでしょう。陛下は幕の中へ隠れられておられる。目の前に行くまで、気づかれないはずです」
「…………」
マントに雪がてんてんと音もなく落ち始めた。
「早く」
ポランスキーがぐい、と更にマントを突き出す。そして背を押した。
たたらを踏むように前へ出たリュインは一度振り返った。
「……感謝します」
そう言って頭を下げ、マントを羽織ってルクレツィアのいる謁見の間に向かった。
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