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 番外編 薔薇のつぼみ rose bud(3) 


 医者によると、骨が折れたということもなく、しばらくすると治るということだった。
 母は相変わらずだ。
 安静にして部屋にいる間、母が部屋に来ることはなかった。
 静かなのは部屋の中だけだと、分かっていた。
 家令が口止めに苦慮していることも知っている。終わりが、近づいていることを感じ取っていた。
 父は現状を知っているはずなのに、帰ってくる様子はなかった。
 これでよくも、『クラレンス家当主』などと言えるものだ。
 冷たい何かが、シュテファンの心を侵食している。
 シュテファンはある日、部屋を出た。
 廊下を歩いていると、開いている窓から、涼しい風を感じた。ふわりと亜麻色の髪を持ち上げ、するりと通ってゆく。
 風と共に、庭から泣き声を聞いた。
 不審に思って、シュテファンはその元へ向かって歩く。声は近づく。シュテファンはだんだんと、焦るように走る。
 生垣の影に、うずくまって泣いている妹がいた。
 一つ下の妹、長女のナディーンだった。赤毛は三つ編みにされて、長く垂れている。うつむいて、泣いていた。
 走ってきた荒い息を整え、シュテファンはナディーンの背をなぜた。
 ナディーンは震えつつ、顔を上げた。泣いていて、ぐちゃぐちゃだ。
 まさか、あの男に……。
 最悪の予想が頭の中に浮かんだ。
「ナディーン、落ち着け。どうした。誰かに、何か……されたのか?」
 ナディーンは首を振る。
「……う、……見たの……。母様とモーズレイ様が……」
 そして再び、ナディーンは泣き始めた。
 シュテファンは分かった。ナディーンは自分が見たものと同じようなものを、見てしまったのだと。
「兄様……どうしたら、いいの? 兄様……」
 すがる目だった。
 父のいない今、助けを求める対象、すがりつく対象が、シュテファンしかいない。それを改めて知らせるような、そんな目だった。
 自分しか、いないのだと。
 シュテファンは立ち上がった。
 ナディーンを置いて、庭を走った。
 どこへ向かっているかも分からない。ただがむしゃらに、走った。
 色とりどりの花、木々が視界に写っては消える。
 シャーリングス像の噴水がどんどんと迫る。その前で、談笑している男女。
 母と……男。
 シュテファンは走る勢いのまま、男の頬を全力で殴る。
 男は倒れた。
 母は悲鳴を上げた。
「きゃあ!! あ、あ、シュテファンっ……!」
 倒れた男は、前に襲ってきた男であった。
 殴ったこぶしが震えていた。
 モーズレイは立ち上がり、シュテファンに襲い掛かる。
 殴り、殴られ。蹴り、蹴られ。
 それでもシュテファンは倒れなかった。倒れるわけにはいかなかったのだ。
 渾身の力で殴り、再びモーズレイを倒れさせる。
 モーズレイは立ち上がらず、そのまま地に伏していた。
 ぜえぜえと息をして、満身創痍でシュテファンは立ち続ける。
 母は二人から少し離れたところで、震えながら見守っていた。シュテファンは母へ目を向ける。
 けれど母は目もくれず、モーズレイの元へ駆け寄った。
「モーズレイ様っ! しっかりしてください! 今、人を呼びますから!」
 シュテファンは呆然とした。
 母は気絶しているモーズレイの肩をゆする。
 シュテファンは……世界が斜めに傾いている気分になった。
 騒ぎに、家令、庭師、ナディーン、他の侍女達が集まってくる。
「早くモーズレイ様を運びなさい! ほら早く!」
 母は必死に侍女や家令に命令する。家令や侍女は、シュテファンの顔色をうかがい、動けないでいた。 
 母はシュテファンへ怒りを向けた。
「シュテファン! あなたは、あなたは、何てことを……! 最低で、最悪な! モーズレイ様が何をしたというの! こんないい方を。何があったか知らないけど、殴るなんて!! もう、アタシの可愛いシュテファンはどこにもいないのね! 恥を知りなさい! あなたなんて、もうアタシの子じゃないわ!」
 そのとき。
 シュテファンの中で、何かが、ぶつり、と音をたてて切れた。
 『アタシが頼れるのはお前しかいない』そう言った母は今、目の前で、愚劣な男をかばっている。
 自分の子供より、男を選んで。
 すがりついてきた、泣いてきた母が。
 自分に敵意を表している。
 もはや、何の説明もする気になれなかった。
 この女は、周囲にいる人間がどんな目で見ているかすら、気づかない。彼らは冷たい目をむけ、動こうとしていない。
 どれだけ陰で笑われていたか。愚行を隠すために、どれだけ家令が苦労したか。 
 どれだけ愚かで、どれだけ……
 娘が泣いていたことも知らないだろう。息子の思いも知らないだろう。
 こんな女から生まれてきたことが、恥ずかしくなる。
 短いながらの今までの人生が逆流して、シュテファンの口を動かした。
「出て行け」
 母はその言葉に呆けた。
 その言葉が自分に向けられた言葉だと、すぐには理解できないようだった。
「この家から出て行け。クラレンス家に、もう一歩たりとも入ることは許さん!」
 体中に、憤怒と憎悪の感情が巡りめぐり、燃え上がっている。
 家令は私兵を呼んだ。
 呆然とした表情のまま、母は兵に連れ去られていった。ついでにモーズレイも連れ去られていった。
 シュテファンもまた、呆然としていた。
「よくご決断なされました」
 隣で家令が言った。
 沈黙があった。シュテファンは母が行った方向を見つめていた。
 姿が見えなくなってから、呆然としつつも、シュテファンは首肯した。


 父母は離婚した。
 シュテファンはそれに力を尽くした。何度か母から話がしたい、と言われたが、全て無視した。
 父はシュテファンの勝手な決断に難色を示したが、
「ほう、今さら、私の行動に文句を言いますか。私も父様の考えを仰ごうと思ったのですが、家にいないもので。それも何日、何週間も帰ってこられないもので。そこまで家にいない人間を、忘れてしまうのは仕方がないことでしょう?」
 と、痛烈な皮肉で返し、何も言えなくさせた。
 シュテファンが推進した離婚も、父はかなり抵抗したが、結局なされた。
 クラレンス家に平和な日々が訪れる。
 シュテファンはそう思い込もうとした。
 社交界では、母を追い出した少年、と、噂になり非難を浴びる。それらを経て、宮中での立ち回り方などを学んだ。
 妹達は、シュテファンに怯えるようになる。
「兄様は冷たくなりました」
 そう言われるのも仕方がないことだと思った。事実、自分は以前より、冷めた見方をするようになっていたから。
 前と変わらず接してくるのは、末の妹・パトリーだけだ。
 会いに来て、相手をしてやれば、きゃっきゃと喜ぶ。本を読んでやったりすることは、シュテファンにとっても癒しのひと時だ。
 クラレンス家に平和な日々が訪れる。
 それはやはり思い込みだと、気づいたのは、パトリーが五歳のときだった。


 パトリーが五歳のとき、一族での花見の席があった。
 あまりの人手のせいで、パトリーが迷子となった。妹たちとも手分けして、探し回る。
 花園のため、むせるほどに花の香りが充満している。
 薔薇の花園の隣を通ったとき、シュテファンは顔をしかめた。
 嫌な花だ。
 そこを足早に通り過ぎて、チューリップの花園があった。
 そこに、女がいた。
 その女が、パトリーを抱きしめていた。
 つばの広い、リボンの長い帽子。それのせいで顔はよく見えないが、見えた瞬間、血が逆流するのを感じた。
「貴様っ! 何をしている!!」
 振り向いたその顔はやはり、母のものだった。


「痛い、痛いよう、シュテファン兄様」
 パトリーの泣き声交じりの言葉に、シュテファンは手を離した。
 あの後、あの女からパトリーを取り戻した。そして母を私兵に捕らえさせた。
 シュテファンとパトリーは、花見を欠席して、クラレンス家に戻ってきたばかりだ。
 彼は彼女を部屋へ連れて行く。そしてしゃがみこんで、パトリーに鋭いまなざしで尋ねた。
「もう一度聞く。あの女に会ったことはないな」
 震えながらパトリーはこくこくと頷く。
 シュテファンはそれを確認すると、部屋を出て行った。
 機敏に歩き、いつの間にか、庭沿いの廊下を歩いていた。
 おずおずと家令が言った。
「それで……捕らえた元奥様はいかがいたしましょう。いつまでも捕らえておくわけにもいきませんし……」
 シュテファンは突然、ガン、と壁を殴った。
「……いつまでも、忘れさせてはくれないというわけか……忌々しい!」
 口元は端を上げたような笑みの形のシュテファンであるが、その双眸は暗く光っている。
 突如、壁にかけてあった剣を抜いた。
 何をなさいます、と止める家令を無視し、シュテファンは庭へ走った。
 庭の奥では、紅い薔薇が咲き誇っていた。
「ふっ!!」
 ザン、と一なぎに薔薇が地に落ちていった。何度も何度も慣れない剣を振るい、薔薇を斬ってゆく。
 花壇へと足を踏み入れ、薔薇のとげに傷を負いながら、一心不乱に薔薇を斬ってゆく。
 ぼろぼろと、血が流れるように薔薇は宙を舞う。
 夕焼けは赤かった。朱色の空には、不吉な黒い鳥が飛んでいた。
 全ての薔薇が無残なことになったとき、シュテファンの息は上がっていた。
 いつの間にか庭師がいて、悲しげに彼を見つめている。
 シュテファンはその場に剣を落とすと、ふら、と館へ戻った。
 冷たい瞳の奥で考えるのは、パトリーのことだった。
 パトリーは何も知らない。母の愚行も、父の眼を背ける弱さも、一時期の感情の恋愛結婚が、どんな結末となったのか。
 それはそれでいいと思っていた。
 しかし、知らない、ということは、反省も改善もない。
 もし、勝手に母親を理想化し、会いたいなどと言って家を飛び出したら。
 そんな正しい心ともう一つ、別の自分勝手な心もあった。
 何も知らずにいるパトリーへの妬ましさ。自分だとてできるなら、何も知らずにいたかったものだ。許せないというほどの抑えられない憤怒の感情など、抱き続けたくなかった。
 平和など、受けた痛みを生々しく思い出し続けなければ、成立しない。
 自分と同じ場所に引き摺り下ろしてやろう。
 シュテファンはいつの間にか、パトリーの部屋の前まで来ていたことに気づいた。
 扉を叩くと、しばらくして入室の許可があった。
 部屋の中で、パトリーはむくれていた。
「兄様なんて嫌いっ」
 ぷい、と横を向くパトリーの後ろで、シュテファンは、冷たい声で話し始めた。
「……そうか。特別に、お前の父と母の話をしてやろうと思ったのだがな」
 それに、パトリーは振り向いた。
「父様と母様の話?」
「ああ。話してやろう。何度でも、お前が理解するまで話してやる……」
 初めて聞く父母の話に目を輝かせるパトリーには、シュテファンの瞳の奥の冷たさも、暗さも、気づいていない様子だった。
 シュテファンは昔話でもするように、語り始めた。




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