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――6――
もうすぐ夜明けの時刻、ロタールは王宮に入っていた。仕事の時刻ではない。
同じ侍従に聞くと、国王陛下は図書室にこもられたまま、と聞いて図書室の扉を開いた。
眠っているかと思っていたが、ジギスムントは起きて本を読んでいる。
「ロタール」
寝不足な顔でジギスムントは声をかけた。
隅のテーブルで、ランプを灯して本を読んでいる姿は、ある人物を彷彿とさせる。
「……何を、読んでおられるのですか?」
「ん、ああ。聖書とか神話とか、歴史書」
「ずいぶんと広範囲ですね」
「そうでもない。結局は事実を述べるってことには違いない。それが本当かどうかはさておくとしても」
ロタールはジギスムントを見つめていた。ジギスムントはぱたん、と大きな本を閉じる。
「それで、こんな時間にどうしたんだロタール」
「ジギスムント様こそ、こんな時間に起きておられて」
ジギスムントは肩を揺らす。
「眠れないんだ」
カタリナ姫のことを考えていたのだろう。亡くなったのは、今日、いや昨日だ。
カタリナ姫は、ジギスムントが五歳のときからの妻だった。産まれたときからずっと一緒なのも同然だ。
彼女はまだ、十二歳の子どもだった。それを考えると、無性に泣けてくる。それが、死と隣り合わせの王室のさがだとしても。
「明日、いや今日は葬儀ですね」
ジギスムントは何も言わずに、ロタールを見上げる。
「ロタール」
「何でしょうか」
「いなくならないでくれ」
「!」
ロタールの穏やかな顔がこわばる。
「……どうした、ロタール」
「……ジギスムント様、いや国王陛下」
と、足をおって頭をたれる。どことなしか緊張していた。
「私はこの王宮の勤めを辞そうと思います」
ジギスムントは、今度は見下ろしていた。
彼の表情は変わらない。だがロタールには分かる。
(怒っていらっしゃる……)
こんなに静かに怒るのは初めてだ。
「なぜ、出てゆく」
「……それは、一身上の都合で……」
「答えろ、ロタール=イーデン=マーストン。お前にぼくへの忠誠がひとかけらでもあるなら」
そう言われては答えないわけにはいかない。
「私には恋人がおります。いや、おりました。その人は、異国人でした。今までこの国にいたのですが、故郷に帰ると言いました。どんなに引き止めても、彼女は決心を変えませんでした。そして、今日この国を出てゆくと書置きを残して去ってゆきました。ですが、私には諦められないのです。だから、私は彼女を追おうと思います」
どんな風に考えても、ソフィアを諦められない。
「去ってゆくんだ。お前が追ってもいい顔はしないんじゃないか」
「そう、かもしれません。ですが、私には諦められない。彼女を諦められません」
彼女の占いにこうあった。
『破滅の道と後悔の道。二つの道へ扉が開いている。どちらも受難の道』
(彼女が去るのをただここから見ているだけならば、一生後悔する。それだけは、わかっている。破滅しても、それでも、彼女を追わない後悔をするよりも、ずっといい)
「異国の女の、どこがいいんだ。分かっているのか? ここで去るということは、今までのお前の侍従として積み上げてきたものは全て意味がなくなるんだぞ」
「わかっています。今までいただいた栄誉も何もかも捨てても構いません。父のことだけは、私の事とは関係のない話ですからこれからも陛下と懇意にしていただければ嬉しいです。ですが、私の持てるものなら、全て捨てても構わない。私の恋人は、そういう人なんです」
爵位も、何もかも、そんなものに惹かれていない、とソフィアは断言していた。ただ、面白い話をしてくれて嬉しい、と笑った。その顔が素敵だから。
ジギスムントは表情を変えた。ひどく傷ついた顔をした。
「陛下……?」
「お前、は、全てを捨ててもいいだと?」
「はい」
「ぼくも、捨ててゆくのか!」
ロタールは声を失った。
「ぼくには、もう、誰もいない。誰もいないことを分かって、分かっていてそう言うのか。こともなげに捨ててゆくと?」
「陛下……」
「やめろ! いつも、名前で呼んでいただろう! ぼくの周りの人が死んだとき、慰めてくれただろう。じゃあぼくは、お前がいなくなって誰に慰めてもらえればいいんだ!」
ロタールは悲痛な叫びに耳を閉じたくなる。
本がばらばらと落ちてゆく。
「本当にもう誰もいないんだよ、ロタール。家族も、友も、何もかもが! それを知ってお前は出て行くというのか!」
ロタールは泣きそうな顔のジギスムントを見上げる。
「出てゆきます」
自分を心底憎みたくなる。残酷な言葉を、残酷と分かって言うのだから。
「いま、わかりました。どんな道であろうと、必ず後悔する、ということが。彼女を追っても、ここに留まっても。でも、私は彼女を……愛している」
「ロタール」
「私を……憎んでも構いません。後悔しない道がないのなら……私には、彼女を追う外にないのです」
ロタールは立ち上がる。
「私は、行きます。決して、捨てたいわけではないのです。彼女を一番に愛しただけ。それが、結果として捨てるととられても仕方がありません。ジギスムント様、私はあなたも大切に思っていました。まるで、まるで弟のように」
いや、息子のように、と表現してもいいのかもしれなかった。
だけど、ジギスムントにはそれだけではいけない、とカタリナ姫の死のとき、わかった。侍女の腕を切り落とすその姿に、庇護だけされる人間ではないことを思い知らされた。それだけの人間になっては逆に困ることを、思い出した。
そのためにも去らなければならない。
だが、この理由は言わない。
それは、責任をジギスムントに押し付けることになるから。
ロタールは後ろを向いた。
「ロタール。待て、待って、ロタール」
必死な声を背に、ロタールは扉に手をかける。
「待って! 行くというなら、ぼくも連れて行って!」
ロタールは動きを止める。
半分だけ振り向いて、顔をしかめた。
「それは無理な話です。わかっているでしょう」
「何が無理なんだ」
「だって」
ロタールは先ほど本を読んで座っていたジギスムントを思い出す。その姿は実兄であるアルブレヒト三世を思い起こさせた。
「だって、ジギスムント様は国王陛下ではありませんか」
ジギスムントは雷が落ちるほどの衝撃を受けた。
「国王陛下が国を捨てるわけにはいきますまい」
この目の前にいる少年は、弟でも息子でもない。
万民を見下ろし支配し戦う人間。カタリナ姫の死のあと思い起こせば、自分のしてきた行動が正しかったとは思えない。
だが、自分がいればどうしても庇護するように扱わないことは無理なのだ。
「ジギスムント様。いや、国王陛下。国民はあなたを愛しております。私の代わりはすぐにみつかります。人生において、全ては出会いと別れなのです」
ジギスムントはろくに聞いていなかった。
真っ白い顔。その口元が笑みの形を作る。狂った笑みを作る。
「裏切り者」
冷たくジギスムントは言った。
「裏切り者、裏切り者!」
突然の変化にロタールはたじろぐ。
「許さない許さない許さない許さない!! っ出て行け! お前なんて、いらない!!」
ロタールは傷ついていたが、あまりの剣幕に退かずにはいれない。一言言おうとするも、
「出て行け!!」
と追いやる。ロタールはこうなればそう簡単に出ることはできるはずがない。
業を煮やしたのかジギスムントは聖剣ハリヤを抜く。
そして、一閃。
ロタールの右の頬に一筋の傷ができた。
「つっ」
「もういいだろう。さっさと、出て行け」
剣を抜いたまま、ジギスムントは冷たく言い放った。
「陛下」
と、すがるような声で言うも、ジギスムントは目を合わせることはなかったのだ。
それが最後だった。ロタールとジギスムントの会話は。
ロタールはその後扉から出て、外から呼びかけるが何も答えはなかった。でも、言わずにはおれなかった。
「ジギスムント様。もう二度と会えなくても、それでも遠い地で、幸せであるようにと祈ります。あなたが、国王として立派になるようにとも」
ジギスムントは答えない。だから、深く深く一礼をして、
「さようなら」
と言って、去ってゆくほかには道はなかったのだ。
ロタールはいつまでも覚えていた。剣をふるったときのジギスムントの表情が、泣きそうだったことを。
ロタールはその後、北の国境付近でソフィアと再び出会い、エリバルガで結婚をする。
文字を知っていたおかげで、教師としてエリバルガで二人で生活をするようになった。ソフィアもまた、占い師としてエリバルガで働いている。
このあとは、ジギスムント一人の話である。
ロタールが去ってゆく足音を聞いた後、彼はずっとその場で立っていた。
聖剣ハリヤについている新しい血を眺めながら、なぜ狂うこともできないのだろう、と考えていた。
こんなにも自分はいろいろなものを失って、それでもこうして立っているのはなぜなのだろう、と。
夜明けが訪れた。
一条の光が、ただ真っ白い光が窓からさす。
それに気をとられていると、ばたばたと大きな音を立てて人がやってきた。
思い切りよく扉を開け、言ったのだ。
「陛下!」
と。
ジギスムントは、ただ強くて他の色の光を消すほどの真っ白い光が、怒涛のように押し寄せるように感じた。その言葉は、そんな力を持っていた。
他にも2人やってきて、また同じ言葉を言う。
「陛下!」
「陛下!」
ジギスムントはその強い光が自分を支配していくのを感じ取った。
(……だから、狂えないのか)
その強い光は、命綱のように自分をこの現実につなぎとめたのだった。他の、いろいろな色の光は失っても。
(これが、ハリヤの求めた『結果』なのか。ぼくが、国王の座にいるべき人間ではない、と知りながら?)
やってきた人間たちは急いで言葉を述べた。
「反国王軍がスバリオを占拠しました!」
「噂が他の都市にも広まりはじめています!」
「セランポーレ公爵もその報告を受け、何か動きがあるようです!」
やってきた人間の告げる緊急の要件は頭に入ったものの、別のことを考えていた。
(ハリヤは、それをしろと言っているのか? それが無意味だと知っていても? しょせん、この世のことは全て無意味だとでも言いたいのか? ……いや、どうせ答えは出ないのだ。この、聖剣ハリヤのように)
「どうしましょう、陛下。セランポーレ公爵の動きは読めませんし……」
「黙れ」
大人びた声でジギスムントは言った。
「至急、第三騎士団に連絡。スバリオを占拠している連中を蹴散らすように、と」
「で、ですがそれではセランポーレ公爵はどうします。その隙にこのアルジャを突かれれば……」
「セランポーレはまだ動けない。セランポーレの動きは逐一報告させてある。食料も何も、このアルジャを陥落させるほどのものは整っていない。今回のことは、反国王軍の先走りだろう。だがチャンスでもある。密偵を数人用意し、反国王軍とセランポーレとの間に亀裂を作るような噂を振りまけ。たとえば……セランポーレには、反国王軍が勝手に行動して手におえないと思わせるようなことを……そう、実際に反国王軍に入ってそう行動させてもいい。反国王軍には、セランポーレが国王側ともつながりを持って、いつこちらを裏切るか分からない、と思わせるような真実味のある噂を。内容はいくつか考えさせろ」
ジギスムントは扉を通って廊下を早足で歩いてゆく。
「他の貴族も油断がならない。第一騎士団をこのアルジャの守りとしろ。おい、余の武具はどこだ」
ジギスムントは『ぼく』とは言わず、『余』と言った。
「陛下の武具、ですか?」
「そうだ余もスバリオに巣くう虫退治に参加する。ああ、第三騎士団の団長に『国王陛下もご出陣』と伝えておけ」
「と、とんでもございません!! 国王陛下の出陣など! 御身に何かあったら……」
「国王が指揮を執ることが兵を奮い立たせると分からないのか。戦争に参加した国王は昨今少ない。その国王御自らが共に戦うことが、国王派の連中の鼓舞となる」
「し、しかし、このようなことで陛下が……」
まだ、渋っているようだ。
「くどい! 無論余を守る専属の兵は連れる。あと、余と第三騎士団がスバリオにつく前に、別の密偵にスバリオに侵入させろ。そこで、反国王軍のスバリオ占拠の横暴、を噂にして流せ。気になるのはセランポーレだ。それだけは逐一余に報告させろ。それと出陣までの間に、レガリスタ侯爵を呼びつけておけ」
レガリスタ侯爵はカタリナ姫の父である。ジギスムントにとっては舅でもある。
「カタリナ姫の葬儀のためにアルジャにいるとは思いますが」
「カタリナ姫の暗殺をした連中は、十中八九、余とレガリスタ侯爵に溝を作る為にやったのだろう。そのあたりのことを話し合わねばならん。その間に、武具は用意しておけ!」
ジギスムントは光の道を歩く。
あんなにも怖がっていた『そのとき』を、簡単に通り過ぎた。
まぶしすぎる光の道を、一色に飲み込まれながら国王陛下として、歩き始めた。
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