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――5――
その、数時間後だった。
「何だロタール、緊急の要件とは」
「とにかくおいでください」
国議の終了間際、ジギスムントは呼ばれ、こうしてロタールについて回廊を歩いている。ロタールは真剣に早足で歩いていた。その気迫にジギスムントは何もいえず、ただ黙ってついてゆく。
たどり着いたのは王妃の間。
つまり、カタリナ姫の部屋。
外には十人近くの近衛兵が三人の侍女を縄で縛り捕らえている。
あきらかに、尋常ではない。
近衛兵は国王に対して礼をとったが、その国王は青い顔をしている。
急いで中に入る。そこにはテーブルと椅子が一つずつあった。テーブルの上には裁縫箱と、刺繍が途中のハンカチ。椅子は、倒れている。
「カタリナ姫!」
奥の部屋へと進むと、寝室でカタリナ姫は眠っていた。
安堵のため息が出ようとしたが、ぎくり、と足が止まった。
そのベッドの周りの医師が数名、沈痛な面持ちで頭を下げていたのだ。
ぐらり、と体が揺れた。支えたのは後から追ってきたロタールだ。
「……ロタール、何が、あった」
「…………。カタリナ姫は、お亡くなりになりました」
ジギスムントの頭の中が真っ白になる。ぼんやりと、思い返す。
(今日の昼だったな。ピクニックに行ったのは)
『わたくしを看取らなければいけないんですもの!』
すぐ、前のことだった。思い出すまでもない。そのとき何を食べたのかすら分かる。
『子どもを作って、一緒に孫を見てひ孫を見て、わたくしを看取らなければいけないんですもの!』
「ジギスムント様、カタリナ姫は……」
「言うな!!」
叫んでいた。
「言うな言うな言うなっ!! カタリナ姫が、カタリナ姫が死んだなんて!!」
呼吸は激しくなり、肩で息をしていた。泣きべそをかいているようであったが、泣いていなかった。ロタールはじっと肩を支え続けて、落ち着くのを待っている。
何一つ、満たされなかった彼女。
(じゃあ、ぼくは、ぼくは、どうすればいいんだ……!!)
今、カタリナ姫という光が失われた。
(ぼくは、どうすればっ……)
ゆっくりと、体は落ち着いてゆく。心は落ち着くはずもない。
大変な精神力を要したが、冷静に促した。
「……すまない。ロタール、詳しい話を」
ロタールはジギスムントの様子を心配しながらも話し始めた。
「カタリナ姫は、昼食後、この部屋で刺繍の道具を侍女に求めました。ハンカチに、花の刺繍をしようとしていらしたようです。歌を歌いながら、ご機嫌な様子で刺繍をなさっていました。針を指に刺すまでは。とたんに苦しまれました。すぐに侍医を呼び、解毒の治療を行いましたが、間に合わず……」
ジギスムントは、肩を揺らしながら低い笑い声を上げる。
「は、は、はは、は……。じゃあ、針に毒が塗ってあったと。外で捕まっているやつらが実行者、というわけだな?」
「はい。ただ、誰が指示を出したのかは、未だ捜査中で……」
ジギスムントは走り出した。
王妃の間の外に出て、驚いた近衛兵に目もくれず、捕まえている侍女の一人に光のない目を向けた。おもむろに聖剣ハリヤを抜き、侍女の首筋に当てた。
「誰が首謀者だ」
侍女は答えない。十分訓練された人間のようだ。
ジギスムントはまさしく狂気という笑顔を向け、見もせずに、その侍女の腕を切り落とした。血が噴き出す。侍女が悲鳴を上げる。いかに訓練された人間であろうと、腕を切られて声をあげない人間はいないだろう。
ジギスムントの狂気のような笑顔はなりを潜め、返り血を浴びた暗い影のある顔で、鋭い目を寄越して近衛兵たちに言う。
「拷問して首謀者を聞きだせ。ただし、死なせるな。自ら死にたいと思うほどの苦痛と屈辱を味あわせ、生き地獄を見せ続けろ」
返り血が涙のように流れ落ちる。
「ジ、ジギスムント様……」
ロタールの声。
思わず、ジギスムントはロタールに抱きついた。
何も考えられなかった。ジギスムントにはただ強い力で抱きしめることしかできない。
だから、そのときのロタールの表情や言葉の響きにどんな感情が混じっているのかにも気づかなかった。
人のことに構っていられる余裕が、もうない。
もう、自分を保つのも限界だ。
「……助けてくれ、ロタール」
かつてカタリナ姫に言ったのと同じことを、ジギスムントは言った。
涙は出なかった。そんな自分に自己嫌悪しながら、思い出ばかりが蘇える。美しい思い出ばかりが。
花のように美しい、最愛の妻との思い出が。
カタリナ姫という光がついえたことを自覚したくなかった。
涙は出なかった。だが心の中では涙が洪水を起こすほどに悲しんでいた。
だから、いつもの通りにロタールに慰められることを望んだ。抱きしめて、ばかみたいに美しい御伽噺を聞かせてほしかった。
だからかもしれない。
ロタールが、ジギスムントの必死の言葉に答えなかったことにも気づかないのは。
そして、抱きしめ返すロタールの手がぎこちないことに気づかないのは。
ロタールはエディやアルブレヒトが死んだときに聞かせたような御伽噺をしなかった。
彼は黙って、ジギスムントを抱きしめるだけだった。
抱きしめていたから、そのときのロタールの顔は、ジギスムントには分からなかった。
ジギスムントは、変化を気づけなかった。
ジギスムントは精神が弱いことを自覚している。ただ、自覚したところでどうにかなるわけではない。
カタリナ姫の死は大きなショックであり、夜に眠れないというのも道理だったのだろう。
その日の深夜。寝室でベッドにもぐっていようとも、一向に眠れなかったジギスムントはのろのろと起きだした。
「ロタール」
思わず呼んだ直後、ジギスムントは苦笑いをした。
こんな深夜にいるはずがない。今は家に帰っているはずなのだ。
すると、急に沈黙が力を持って襲い掛かってきた。
深夜とはそういうものだと分かっている。でも、いつもと違う何かが襲い掛かってくる気がしたのだ。気まずいといってもいい。
なんとかその沈黙を破ろうとのどの奥を動かしたが、言葉にならなかった。
起き上がり、そして、カタリナ姫のもとへ向かうことにした。日ごろの習慣のせいなのか、聖剣ハリヤを持っていくことは忘れない。
上に一枚マントを羽織り、颯爽と部屋を出る国王の姿に、部屋を守っていた兵士は慌てた。
それを無視して、ジギスムントは歩く。
カタリナ姫の居場所は知っていた。
冷たい部屋。棺桶の中に、彼女はいた。王妃の間にいたときは、渦巻く感情のあまり、ろくに見ることも触ることもできなかった。
「カタリナ姫」
やさしく声をかける。兵士たちは部屋の外にいた。
無論、返事はない。
頬にそおっと触れようとした、だが、一瞬触れたところで素早く離した。
ジギスムントは呆然としている。
(……冷たい……)
わざわざ北方から運んできた氷を献上されたことがある。それを思い出した。
ジギスムントは後ずさる。
そこにいるのは自分の妻なのに、愛しい人なのに、離れずにはいられなかった。
どこにいたのだろう。
一匹の蝿が、その部屋の中を飛び回る。隅にあるランプが姿を照らしている。
その蝿がカタリナ姫の額にとまった。
もぞもぞと動き、まぶたの上に移動した。
雷が落ちてきたかのごとき、衝撃。
ジギスムントは戦慄した。
「あ、ああ……。……う……」
蝿は長いまつげに登る。かつてその下から大きな瞳をのぞかせた、長いまつげに。
背筋に嫌悪感が走った。そして、悟った。
(カタリナ姫は、起きない……!)
手を振り回し、蝿を追い払う。
(カタリナ姫は、もう起きない!)
蝿は手から逃れ、中空をぐるぐる回る。
(あれは、もう、カタリナ姫じゃない……!)
蝿はジギスムントには分からないところへ行って、不快な羽音が消えた。
(あれは、カタリナ姫の死体なんだ!! モノなんだ……! もう、死んでいるんだ……!)
強烈な、衝動だった。
万物の真理が解き明かされた瞬間のような。
このときはじめて、ジギスムントは死というものを理解したのかもしれない。
動かない、話さない、笑わない、怒らない、……死者は、何もできない。
「……う、う……。
……助けてくれ、ロタール……」
それしか、彼には言えなかった。別の人間の名も思い浮かばない。
それに、ジギスムントは気づいて眉をひそめた。
(……なぜ、ぼくには頼る人がいないんだ。なぜ、いなくなったんだ? 家族すらいない……。皆、去ってゆく。なぜ? これが『普通』なのか? ……そんなはずはない。ロタールだって、他の人だって、家族はいる。……恋人だっている。だが、それが皆いなくなるのは……)
へたり、と床に座り込む。
(最初からではなかった。どんどんと、いなくなっていった。なぜ、なぜだ)
離れで四人、虹を見たことを思い出す。ジギスムントとエディとロタールとカタリナ姫。
だが、今残っているのはジギスムントとロタールだけ。
座りながら、カタリナ姫の棺桶を凝視している。
(人は……死ぬものだ。だが、それにしてもおかしくないか?)
音がした。
ジギスムントの左の腰あたり。
聖剣ハリヤだった。
そのときジギスムントは思い出した。なぜ、この聖剣を天井に隠させたのかを。
時間はほんの少し戻る。ロタールが家に帰ったのは夜も遅く。
自室の椅子に深く腰を沈め、酒を求めた。
……カタリナ姫の死は、ロタールにとっても衝撃だった。
同じく、幼い頃から遊んだ仲なのだ。エディのときも、本当は衝撃を受け、冷静ではいられなかった。だが、自分にはジギスムント王子がいた。
兄、というものはこんなものかもしれない、と思いながらエディの行方不明のとき、ジギスムント王子を支えたのだった。今も、なんとか耐えている。
そして今。ショックだったものはもう一つ。
ジギスムント。
彼は、こともなげに侍女の腕を切り落とした。
信じられないことだった。死人が生き返るよりも信じられないことだった。
ロタールの中では、ジギスムントという存在は弱く庇護すべき子どもだったのだから。
いや、それも正しいことなのだろう。確かにジギスムント自身も助けを求めている。
だが、違う。ロタールは戸惑った。何かが認識とは違う。
だから、助けを求めてすがりついた手に、精一杯を返せなかった。
いらいらとし始めたロタールに、度数の高い酒を持って執事がやってくる。
「若様、お手紙がございます」
「? 手紙ならいつもの通り、机の上においてくれれば……」
「いえ。いつもの手紙とは違います。今日の夕方頃、一人のご婦人がお訪ねになりまして、この手紙をぜひにと渡されたのです。名も名乗らず、布を頭からかぶり、ろくに顔も見えませんでしたが、どうも、異国のご婦人のようで……。不審に思いましたが、だからこそ早くに渡した方がいいと思いました」
「異国の、ご婦人……? まさか……どんな、様子の女性だった?」
「ですから、布をかぶって顔を隠しておりまして……ただ、目の色が緑らしかったような……。ああ、口が不自由なようで、筆談をしました。いくら口が不自由とはいえ、字が書けるのですからそれなりの家のご婦人ではないかと」
ロタールは確信した。
(ソフィアだ……!)
そう、確か今日だった。ソフィアが去ると言ったのは。一縷の望みをかけて、自分の家も教えていたのだった。
ロタールは手紙を開く。
『ロタール様
今までのこと、どうしてもお礼を申したくて、この手紙を書きました。
捕らえられ、故郷を思って泣いていたあのときのわたしには、あなたがかけた声は、救いの声に聞こえました。
僭越ながら、おとぎ話の騎士と姫の話を思い出したものです。
……もし、あのときあなたが現れなければ、今も泣いていたのかもしれません。レーヴェンディアの人々を、嫌い抜いていたかも知れません。
あなたの言葉が、今のわたしに塔を降りる勇気を与えてくれました。
わたしは、あなたを愛しております。
こんな言葉では表せないほどに。
エリバルガは大樹なのです。そして、私はその枝葉。ですが、そんなちっぽけな私があなたを愛したというのは本当です。それだけは信じてください。
それでも私は愛を選べませんでした。どうか、こんな弱い女をお忘れください。
最後に、勝手ながらあなたを占った結果を記そうと思います。
『破滅の道と後悔の道。二つの道へ扉が開いている。どちらも受難の道』
これからのあなたの行く先に、幸多からんことを。
わたしはハリヤという神は知りません。だからエリバルガで伝えられている運命の女神・シャーリングスに、祈ります。
さようなら
ソフィア』
執事は、それから、と差し出しだのは、ハンカチだった。
かつてソフィアにもらったハンカチ。少し刺繍が足されていた。エリバルガの花に、ガリヤラカが混じっていたのだ。
じっと、目をつぶってロタールは黙考した。
「……父上に、おれが謝っていたと伝えておいてくれ」
執事は首を傾げる。
「おれは、いま、決心した」
若さあってのその決心を、聞いた執事があわてた。
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